詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子「さざんがく」、カニエ・ナハ「双樹」

2010-07-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「さざんがく」、カニエ・ナハ「双樹」(「現代詩手帖」2010年07月号)

 浦歌無子は「うら・かなこ」と読むのか。あるいは「うらかなし」(うらがなし)と読むのか。私は「うらかなし」と読んでいる。そう読みたい「距離」のようなものがある。ことばはいつも「肉体」に触れているが、その「肉体」は、どうも「浦歌無子」から離れている。彼女(?)と「肉体」の、齟齬--そういうものがある。「肉体」が彼女自身から遠くにある。「肉体」が離れていて、それが「うらがなしい」のである。

ウサギを飼っている
十歳のときにココロのなかにつくった廃屋に
ウサギの耳は長いけれど聞こえない
廃屋は沈んでいるから
沼の底で草を食べている
そこではアラベスク第一番が繰り返し流れているが
ウサギには聞こえない
わたしには聞こえる間断なく
ウサギが草をはむ音が

たとえばコールタールという言葉やホルマリンという言葉や
リノリウムということばが頭から離れなくなるのはこんな夜
あなたが椅子になれと言えばわたしは椅子になれるし
タツノオトシゴになれと言えばタツノオトシゴになれるのに
どうして耳を忘れてきたんだとあなたに叱られるのがひどくこわい
(耳はウサギが草をはむ音を聴いていて不在なのだが
どう言えばそれがあなたに伝わるのかわからない)

 ここに登場するウサギは、ココロのなかの廃屋にいるのだから、そしてココロというのは一般的に「肉体」のなかにあるのだから、ウサギは「わたし」の「肉体」にいまも生きている、といってもいいかもしれない。
 そのウサギが聞いている「音」はなんだろう。「わたし」はウサギはなにも聞いていない、ウサギにはなにも聞こえないと実感している。そして、「わたし」はふたつの「音」を聞いている。ウサギが聞こえない「アラベスク第一番」と「ウサギが草をはむ音」。
 一方、「わたし」は「ウサギが草をはむ音」が「現実の音」ではない、と知っている。「アラベスク第一番」は「あなた」にも聴こえるが、「ウサギが草をはむ音」は「あなた」には聞こえない。
 そして、「わたし」にはふたつの音が聞こえると書いたけれど、正確には、そうではない。「わたし」は「ウサギが草をはむ音」をはっきり聞いているのに対して(実感しているのに対して)、「アラベスク第一番」の方は「ぼんやり(上の空)で聞いている。そして、そのことを「あなた」に知られ、叱られるのがこわい。
 ほんとうは、「わたし」には「ウサギが草をはむ音」が聞こえているので、音楽が聞こえない、と「あなた」にいいたいのだが、そういうことが「あなた」に伝わるかどうか不安を感じている。

 これは、ココロの問題である。

 と、いうのは簡単である。
 しかし、私は、これをココロの問題であるとは感じない。浦の詩を読んだ瞬間、あ、浦の「肉体」は、ここに、ない、と感じたのだ。裏の「肉体」はウサギの耳になって、「いま」「ここ」ではなく、別の時間、別の場所にある--肉体が分離していると感じたのだ。
 浦は「十歳のときにココロのなかにつくった廃屋」というこばを書いている。そうであるかぎり、それは「ココロ」のなか、そして「肉体」のなかにあるのだろうけれど、それは単なることばの論理の問題。実際は、そうではなくて、「十歳のココロ」というしかないもの、「いま」「ここ」ではないどこか別の時間、別の場所なのだ。
 そこで「わたし」は「耳」になって、「ウサギが草をはむ音」だけを聞いている。なにも聞こえない。耳は、いま、「わたし」の「肉体」についているようにみえるけれど、それは幻。「耳」そのものが「肉体」になって、「いま」「ここ」ではなく別の場にある。その「分離」--それが、浦には、

うらかなしい

 「分離」と私が呼んでいるものを、浦は「不在」と書いている。(と、いま気がついた。「分離」「距離」と書いてきた部分を「不在」ということばをつかって書き直せば、もっと浦の詩をていねいに読み込めるかもしれない。--でも、まあ、それは次の奇怪にする。私の「日記」は書きっぱなし、である。)
 自分の「肉体」なのに、それが「いま」「ここ」にない。それが「うらかなしい」。そのことは、逆に言えば、浦の「肉体」は浦の「外部」にある、ということかもしれない。「外部」こそが「肉体」なのだ。
 浦は、ウサギが草を食べている音を聞いているが、このとき、浦は単にその音を聞く「耳」だけではない。同時にウサギであり、食べられる草であり、そのときの音でもある。いや「浦はその音を聞く耳」である、と書いたのは、きっと間違いである。浦は「耳」ではない。ウサギであり、草であり、音である。つまり、「肉体」ではないもの、「肉体」の外部こそが、いま浦の「肉体」なのだ。
 浦は、いま浦という「肉体」ではなくなっているのだ。
 だから、次のような奇妙なことも起きる。

いれたてのミルクティーを飲んでいると
舌のうえにざらりとした感触を覚える
舌を出して指でつまむと小魚である
飲みつづけていると二匹三匹四匹五匹いくらでも出てきて少し不安になる

 こんな「肉体」の変化が起きれば、ひとはびっくりしてしまう。けれど「わたし」は「少し」不安になるだけである。この「少し」は、こいう「肉体」の不在、自分の肉体が自分の「外部」にこそあって、「いま」「ここ」にある肉体は自分自身ではない(?)というような感じが、浦にとっては「日常的」というとおおげさだが、おきまりの現象だからである。

 この「肉体」の「不在」--「肉体」が手の届かないところに存在しているという感覚、その「不安」を忘れる(?)ために、あるいはいま、ここにある「肉体」が自分のものではないという奇妙な感覚(災い、と浦は書いている)から逃れるために、「おまじない」に3の段の九九を唱える。

さんいちがさん、さんにがさん、さざんがく、おまじないにおおいかぶさるようにウサギが草をはむ音がどんどん大きくなって さんしじゅうに、さんごじゅうご、沼からおどりでた小魚たちは さぶなくじゅうはち、ザクザクとウサギがはむ音に合わせて部屋中で身をくねらせ さんしちにしゅういち、あなたは「3」と書いてあるドアの向こうに消えてしまった さんぱにじゅうし、わたしの耳からウサギがはむ音がどんどんどんどんこぼれてきて さんくにじゅうしち、ザクザクと部屋を埋めつくす

 もう、「肉体」はない。「わたし」は完全に「外部」になってしまう。



 カニエ・ナハ「双樹」は、何かを語りなおそうとしている。「現実」を、「世界」を、と言ってしまえばどんな作品についても言えることになってしまうが……。その「何か」が私にはよくわからないが、わからないのに(わからないから、かもしれない)ひかれた。

微風。喉の奥の雲。よみびと。
夜毎の行間。水面にうつされ。
うてな。花のしきつめる常世。
シロツメクサ。天路を指さし。
よまれ。綿毛、私からはなれ。

 「双樹」の前半だが、ここでは「音」が互いに呼び掛け合っている。「意味」ではなく、純粋に「音」が「ことば」として結びつこうとしている。「音」が何かを語りなおす力になっている。エネルギーになっている。「よごと」と「とこよ」、「うつされる」と「うてな」、「しきつめる」と「シロツメクサ」、「よまれ」と「はなれ」、「わたげ」と「わたし」。
 「世界」は(現実は)、その「音」の向こう側にある。それへ向かって、カニエはことばを動かしている。この「音」が「声」になったとき、きっと大詩人が誕生する。その「喉」に期待したい。



詩集 耳のなかの湖
浦 歌無子
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする