監督・脚本・出演 マノエル・ド・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、レオノール・バルダック、マリア・イザベル・ド・オリヴェイラ
コロンブスはポルトガル人だった--という説を展開する映画である。コロンブスは、未知を求めて旅をした。その未知を求めるというこころこそ、「郷愁」につうじるものである。「未知」に到達したとき、「既知」が「郷愁」になる、というのではない。「未知」に到達したとき、「未知」を求めるという「運動」そのものが「郷愁」になる。
主人公は、コロンブスとは何人だったのか、ポルトガル人だったのではないのか--ということを追い求める。そのことを確かめるためにコロンブスの足跡をたどる。その「運動」そのものが、オリヴェイラ監督の姿に重なり、その長い活動そのものを「郷愁」のようにみつめる。実感する。
粗筋を言えば、そうなるかもしれない。
でも、粗筋なんて、映画には関係ないねえ。
剛直で、完璧な映像の美しさ--この映画は、それにつきる。
主人公がポルトガルからアメリカへ出航する。母が見送りに来ている。その母がひとりで家路へ帰っていく。そのときの俯瞰の映像。コンクリートの桟橋を母が歩いている。強い光がコンクリートに反射している。中央から左上へ、ただ母が歩いていくだけなのだが、とても美しい。主人公が見ている母--ではないのだが、主人公は船の上から母を、そんなふうにして想像でみつめつづけた、ということがわかる。
ニューヨークについた霧の夜(霧の朝)も、その霧が人工的な映像処理なのだけれど(人工処理だから?)、想像力を霧のなかに引きこんでしまう。
そして、いま、想像力ということばをくりかえしつかって、気がついたのだが、オリヴェイラの映像、音楽、ことばというのは、「現実」ではない。目や耳の「表面」を刺激してくるだけではなく、目や耳を成り立たせている想像力そのものへと働きかけてくる。
それが特徴的にあらわれているのが、「剣」をもった女性である。シーンが変わるごとに、登場する。じっと「主人公」をみつめている。それは女性の姿をしているが、コロンブスかもしれない。何かを探している--何かを探している、その情熱を目撃する「証人」かもしれない。
そういう「現実」ではないもの、ありえないもの、つまり「いま」の「視力」ではとらえることのできないものを含みながら映し出される映像は、どの映像も、非常にしっかりした枠のなかで、強烈な鮮明さで存在している。構図にゆるぎがなく、映像にゆるみがない。あまりに構造にゆるぎがないために、そういう構造そのものがまぼろしというか、何かを追い求めるための「精神」に感じられてしまう。
その「精神」のなかでは、あらゆるものが明確である。きっちりした焦点で、あらゆる存在を光として定着させている。「ムード」とか「情緒」というものは、ない。あの霧のシーンさえ、そういうものはない。(ムード、情緒というものを排除するために、人工的に処理しているとさえ思える。)
あまりに明確過ぎるので、その映像はスクリーンに映し出されて存在するというよりも、直接「網膜」に映し出されているという感じになる。しかも、その映写の「光源」は「脳」のなかなのだ。スクリーンに存在する映像なのに--それが、まるで自分の記憶の、意識の映像のように、自分と切り離すことができない。
オリヴェイラの撮った映像なのに、自分の想像力がつくりだしている映像のように感じてしまうのだ。
とくに最後、灰色の海が青くすんだ海に変わるとき、意識が晴れ渡り、何もかもがわかったような、強烈なインスピレーションが「真実」を教えてくれたような、鮮明な衝撃を受ける。外と内部がつながり、そこから世界がはじまっていく、という感じ。
あ、これこそ、コロンブスが「新大陸」を発見したときの感覚なんだろうなあ。ふるい自分が壊れ、新しい自分が生まれる。過去と未来が新しい次元でつながり、世界がはじまる。
その瞬間、すべてが「郷愁」になる。生きてきたことが「なつかしくなる」。最後に流れる「郷愁」の歌--これが、とても美しい。やはり、その音自体は、私の外から聞こえてくるのだけれど、自分の内部からあふれてきたもののように錯覚してしまう。
共感というのは、こういうことなのかなあ。
と、ここまで書いて、また別なことを考えた。
この映画は、「共感」の映画なのだと。だれかが何かをする。たとえば、コロンブスがアメリカ大陸を発見する。その発見は「共感」によって、はじめて現実になる。
アメリカ大陸が存在するかどうかは「共感」の問題ではない--といわれそうだが、「発見」するという行為は「共感」するものがいて、つまり、それを肯定してくれるものがいて、「現実」になる。--そいう一面があるはずだ。
主人公は、コロンブスの情熱に「共感」して、コロンブスの旅をくりかえす。そして「剣」をもった女性は、そういう主人公の「精神」のなかの、理想の(?)共感者である。その理想の共感者は、最後は、現実の妻という「共感者」として具現化し、その「共感者」が「郷愁」を歌うのだ。
ひとりがひとりであるのではなく、「共感」によって支えあい、それが現実となって広がるとき、世界は輝く。コロンブスが探していたもの、主人公が探していたものは、その輝きであり、その輝きを追い求めるという「旅」そのものだったのかもしれない。
そしてそれは、たしかに「永遠」なのだ。そしてそれは「海」として広がっているのだ。
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