詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マノエル・ド・オリヴェイラ監督「コロンブス 永遠の海」(★★★★)

2010-07-07 12:22:15 | 映画

監督・脚本・出演 マノエル・ド・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、レオノール・バルダック、マリア・イザベル・ド・オリヴェイラ

 コロンブスはポルトガル人だった--という説を展開する映画である。コロンブスは、未知を求めて旅をした。その未知を求めるというこころこそ、「郷愁」につうじるものである。「未知」に到達したとき、「既知」が「郷愁」になる、というのではない。「未知」に到達したとき、「未知」を求めるという「運動」そのものが「郷愁」になる。
 主人公は、コロンブスとは何人だったのか、ポルトガル人だったのではないのか--ということを追い求める。そのことを確かめるためにコロンブスの足跡をたどる。その「運動」そのものが、オリヴェイラ監督の姿に重なり、その長い活動そのものを「郷愁」のようにみつめる。実感する。
 粗筋を言えば、そうなるかもしれない。
 でも、粗筋なんて、映画には関係ないねえ。
 剛直で、完璧な映像の美しさ--この映画は、それにつきる。
 主人公がポルトガルからアメリカへ出航する。母が見送りに来ている。その母がひとりで家路へ帰っていく。そのときの俯瞰の映像。コンクリートの桟橋を母が歩いている。強い光がコンクリートに反射している。中央から左上へ、ただ母が歩いていくだけなのだが、とても美しい。主人公が見ている母--ではないのだが、主人公は船の上から母を、そんなふうにして想像でみつめつづけた、ということがわかる。
 ニューヨークについた霧の夜(霧の朝)も、その霧が人工的な映像処理なのだけれど(人工処理だから?)、想像力を霧のなかに引きこんでしまう。
 そして、いま、想像力ということばをくりかえしつかって、気がついたのだが、オリヴェイラの映像、音楽、ことばというのは、「現実」ではない。目や耳の「表面」を刺激してくるだけではなく、目や耳を成り立たせている想像力そのものへと働きかけてくる。
 それが特徴的にあらわれているのが、「剣」をもった女性である。シーンが変わるごとに、登場する。じっと「主人公」をみつめている。それは女性の姿をしているが、コロンブスかもしれない。何かを探している--何かを探している、その情熱を目撃する「証人」かもしれない。
 そういう「現実」ではないもの、ありえないもの、つまり「いま」の「視力」ではとらえることのできないものを含みながら映し出される映像は、どの映像も、非常にしっかりした枠のなかで、強烈な鮮明さで存在している。構図にゆるぎがなく、映像にゆるみがない。あまりに構造にゆるぎがないために、そういう構造そのものがまぼろしというか、何かを追い求めるための「精神」に感じられてしまう。
 その「精神」のなかでは、あらゆるものが明確である。きっちりした焦点で、あらゆる存在を光として定着させている。「ムード」とか「情緒」というものは、ない。あの霧のシーンさえ、そういうものはない。(ムード、情緒というものを排除するために、人工的に処理しているとさえ思える。)
 あまりに明確過ぎるので、その映像はスクリーンに映し出されて存在するというよりも、直接「網膜」に映し出されているという感じになる。しかも、その映写の「光源」は「脳」のなかなのだ。スクリーンに存在する映像なのに--それが、まるで自分の記憶の、意識の映像のように、自分と切り離すことができない。
 オリヴェイラの撮った映像なのに、自分の想像力がつくりだしている映像のように感じてしまうのだ。
 とくに最後、灰色の海が青くすんだ海に変わるとき、意識が晴れ渡り、何もかもがわかったような、強烈なインスピレーションが「真実」を教えてくれたような、鮮明な衝撃を受ける。外と内部がつながり、そこから世界がはじまっていく、という感じ。
 あ、これこそ、コロンブスが「新大陸」を発見したときの感覚なんだろうなあ。ふるい自分が壊れ、新しい自分が生まれる。過去と未来が新しい次元でつながり、世界がはじまる。
 その瞬間、すべてが「郷愁」になる。生きてきたことが「なつかしくなる」。最後に流れる「郷愁」の歌--これが、とても美しい。やはり、その音自体は、私の外から聞こえてくるのだけれど、自分の内部からあふれてきたもののように錯覚してしまう。
 共感というのは、こういうことなのかなあ。

 と、ここまで書いて、また別なことを考えた。
 この映画は、「共感」の映画なのだと。だれかが何かをする。たとえば、コロンブスがアメリカ大陸を発見する。その発見は「共感」によって、はじめて現実になる。
 アメリカ大陸が存在するかどうかは「共感」の問題ではない--といわれそうだが、「発見」するという行為は「共感」するものがいて、つまり、それを肯定してくれるものがいて、「現実」になる。--そいう一面があるはずだ。
 主人公は、コロンブスの情熱に「共感」して、コロンブスの旅をくりかえす。そして「剣」をもった女性は、そういう主人公の「精神」のなかの、理想の(?)共感者である。その理想の共感者は、最後は、現実の妻という「共感者」として具現化し、その「共感者」が「郷愁」を歌うのだ。
 ひとりがひとりであるのではなく、「共感」によって支えあい、それが現実となって広がるとき、世界は輝く。コロンブスが探していたもの、主人公が探していたものは、その輝きであり、その輝きを追い求めるという「旅」そのものだったのかもしれない。
 そしてそれは、たしかに「永遠」なのだ。そしてそれは「海」として広がっているのだ。


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浜津澄男『絵画の女』

2010-07-07 00:00:00 | 詩集
浜津澄男『絵画の女』(詩の会こおりやま、2010年06月25日発行)
 
 浜津澄男という詩人を私は読んだ記憶がない。たぶん、はじめて読むのだと思う。ことばが自在に運動するというのとは違うのだが、なんとしても動いていかなければならない「場」というものを浜津ははっきり自覚している。書きたいものがある--そういうことを感じる詩集だ。
 「鳥」の全行。

沼で黒い鳥が泳いでいる
何羽もの鳥が
一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである
先頭の鳥が奇声をあげると
残りの鳥がいっせいに羽を広げ、声をあげる
列が沼の中心部で
円を描いて動き始めている
次第に動く速度を増して
まわりながら少しずつ沈んでいる
沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい
沼の中心部に大きな穴があいている
穴から湯気が立ち昇り
黒い鳥たちが
勢い良く
空に向かって舞い上がっていく

 前半は、実際に浜津が見た光景かもしれない。(空想かもしれない--けれど、くっきり見えれば空想でも現実と差はない。)

一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである

 という、しつこい(?)ことばの動きが鳥をではなく、鳥の動きを浜津が見ていることをくっきりと浮かび上がらせる。
 鳥ではなく、鳥の動き--それが浜津の視力をねじまげていくんだな、という感じがする。というか、すでに、ねじまげられている。何か違ったものを見始めているという感じが濃密にただようことばである。
 そして、実際、それから先は鳥の描写ではなく、鳥の運動の描写になるのだが、その描写が突然、鳥さえも超えてしまう。

沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい

 私は、ここに、ぐい、と引きこまれてしまった。円の内部の水のように、ふいに、そのことばの「底」(ことばの穴--排水口?)のようなものに吸い込まれていく感じがするのだ。
 何かが急に変わってしまった。
 「内部」ということばを手がかりにして「誤読」すると、「内部」と「外部」が入れ代わってしまったような感じがするのだ。
 「鳥」と「沼」という「外部」を見ていいたはずなのに、鳥の運動を見ているうちに、「鳥」と「沼」は「外部」ではなくなってしまう。--いや、こういう言い方は正確ではないなあ。「鳥」と「沼」という目で見える「外観」は、鳥の運動という「内部」、あ、これも正確ではないなあ……。なんというのだろう、鳥の運動--運動というエネルギーの「内部」に乗っ取られてしまう。「外部」と「内部」が入れ代わってしまう。
 「鳥」と「沼」を見ていたはずなのに、「鳥」が声をあげ、円を描き泳ぐときの、その動きに「沼」が飲み込まれてしまう。そこには「沼」はなく、運動がある。「鳥」の運動だけがある。
 そういうことを

円の内部の水が急になくなってしまい

 という1行で言い表そうとしているのだと思う。

 うーん。

 うなってしまうねえ。なんといっていいか、わからない。
 これは、もしかすると、浜津自身の困惑かもしれない。何が起きたのか浜津もわからないのではないか、と思う。その後の、突然の、まるでとってつけたような「結末」がそのことを語っている。
 「内部」の水がなくなることで、「内部」が急に出現してきてしまった。それにどう向き合っていいか、浜津は考えてこなかった。突然、そういうものに出合って、ことばがどんなふうに動いていくのか、なんの予測もなく、ただ茫然とみつめている。
 
 あ、この感じ。この感じのなかに、詩がある。詩人が生まれてくる瞬間がある、と私は思う。

 浜津の詩は、「現代詩」として完成されているとはいえないかもしれない。けれど、そこに、完成とは違った魅力がある。浜津には書きたいことがたしかにある、そしてそれをどう書いていいかわからないけれど、ともかく書こうとしている--その切羽詰まった力がある。それを感じる。

 浜津が感じていること、ことばで書こうとしていること--それは、きっと外部と内部の入れ代わりということだ。「コーヒーと女」という詩には、次の部分がある。

 女の意志で飲んでいるのではなく、形のない何者かに飲まされているように見える。容器のなかの液体も、コーヒーであるかどうか、疑わしい。飲むたびに、容器が少しずつ膨らんでいる。
 容器が弾力のある内臓のように変容している。内臓が女を飲み込んでいる。わずかに膨張と収縮があり、悲鳴や驚愕の声はなく、現象は静かに淡々と終了している。

 「内臓が女を飲み込んでいる。」という表現が特徴的だが、「内部」によって「外部」が飲み込まれ、「内部」と「外部」が逆転する。それが浜津のことばの運動である。
 そして、それを「ことば」そのものに置き換えていうと、「ことば」で何かを描写するとき、その「ことば」の内部にあるエネルギー、独自のパワーが、「ことば」の「外部」--「ことば」とは何かを描写するものであるという「定義」を突き破って、何かを噴出させてしまう。爆発させてしまう。飛び散らせてしまう。
 「ことば」は何かを描写するためにあるのではない。自分の「外部」にあるもの、たとえば「コーヒーを飲む女」を描写するために、「ことば」はあるのではない。「ことば」は何かを描写するというふり(?)をしながら、「ことば」自身が、その「内部」に持っている欲望を爆発させるためにあるのだ。

 「ことば」の「内部」を爆発させたい--そういう欲望を、浜津のことばに私は感じる。あ、詩人だなあ。詩人がここにいる、と感じる。
 本屋では手に入らないかもしれない。発行所の住所を書き記しておく。ぜひ、買って、読んでみてください。
 詩の会こおりやま
 〒963-0205
 福島県郡山市堤2-175 安部方
 残部があるかどうか、確認していません。一部1600円です。


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