詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「螺旋的体験」ほか

2010-07-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「螺旋的体験」ほか(「耳空」3、2010年06月25日発行)

 北川透「螺旋的体験」は「道具的体験」というタイトルのうちの一篇。螺子を起点にことばを動かしている。

螺子のフリーセックスはエロチックでない。規格品同士の愛なんて。
女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。さぁ、祭りの始まりだ。
螺子の喜びは結合にはない。恋愛が結婚制度として固定されてはね。
ネジは自分の体に彫られた、つる巻線によってオーガズムに達する。
螺子の入る円筒の内に螺旋構造がなければ、地下室までは行けない。
ボルトがナットに馴染む為には、固さだけでなく緩みが必要である。

 「螺子」と「ネジ」。つかいわけてるのかな? 螺子には雄ねじ、雌ねじがある。「女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。」を手がかりにすれば、「ネジ」は「女ども」に誘われるから男(雄ねじ)? そうすると螺子は女? まあ、いまの時代、セックスは異性同士がするとはかぎらないから、「女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。」だけで、どっちが男、どっちが女なんていえないかもしれない。
 でも、どうしてなんだろう。
 螺子-結合、というと、どうしてセックス、どうしてエロチックなものを連想するんだろう。
 でも。
 そんな単純な連想は、北川にしては、想像力の暴走の度合いが小さくない? 「ネジは自分の体に彫られた、つる巻線によってオーガズムに達する。」や「ボルトがナットに馴染む為には、固さだけでなく緩みが必要である。」は、その「しつこさ」によって笑いを誘うけれど、「想定の範囲内」というものじゃないかなあ。
 と、思っていると。

螺子が螺旋状に登り詰める体験がなければ、一篇の詩も生まれない。

 突然、変なことばが入ってくる。「登り詰める」がセックス、オーガズムを連想させるけれど、螺子って「登り詰める」もの? その前には「地下室までは行けない」--下るものとして書かれている。
 変だねえ。
 変だけれど、変だからこそ、これでいいのだ、とも思える。「下る」ことが「上る」こと。「体験」というのは、どっちともとれるのだ。一方じゃなくて、矛盾した方向に「肉体」が押し広げられる。セックスというのは、自分の「体験」だけれど、相手の「体験」でもあり、それがからみあっている。矛盾している。矛盾していて、それが矛盾じゃなくなる。
 --たぶん、そこに「生まれる」ということが関係している。
 「産む」じゃなくて「生まれる」。

 ここで、こんなふうに飛躍するのは変なのかもしれないけれど、ここ2、3日考えていたことのついでに書いてしまうと、北川のことばは、男のことばだねえ。「産む」とは言わない。無意識(?)の内に「生まれる」を選んでしまう。
 何かを体験する。そして、その体験が何かを「産む」のではない。その体験から何かが「生まれる」。その「生まれる」という仕組みは、たぶん、男の「肉体」からは「産む」という形でとらえることができない。それは、ある意味で、突然の変化なのだ。肉体のなかでじっくり育ってきて、やっと、それを「産み出す」のではなく、わけのわからない一瞬があって、突然、生まれる。
 またまた変な表現をつかえば、それは射精のようなものだ。
 射精と「産む」が違うのは、射精には、その「肉体」から出て行くものが成長(?)する実感がないということだろう。他人にもそれが大きくなる(たまっていく?)のが、外からはわからない。たしかに、その瞬間はわかるけれど、でもどうしてその瞬間がやってくるか、女が子どもを「産む」ようには、明確に把握できない。
 それは、どうしよもない「突然」なのだ。「登り詰め」て、その結果「生まれる」。

 あ、私の読み方は、またまた「誤読」? ねじまげ?
 でも、たぶん、それでいいんだろうと私は思っている。北川の思考を正確にとらえ、それを肯定する、あるいは否定するということばの反応のほかに、北川のことばから何を考えるか、どんなふうに考えることができるか、とことばを動かしていくことがあってもいいだろう、と私は思っている。
 それに、ほら、北川のことばもどんどんかわっていく。

全ての思考する機械の運動に、オネジとメネジの原理が働いている。

 これは、何かに侵入していくこと、何かの侵入を受け入れること、かな? どんな思考も、他者のなかへ侵入しながら考え、他者を受け入れながら考える。たしかに、オネジ、メネジの相互作用がある。そして、そこにはそれぞれの「固さ」と「緩み」があって、そこから新しい何かが「生まれる」。
 北川のことばは、そして、どんどんかわりる。そこには「ねじ曲げる」も登場する。

螺子巻く。ねじ切る。ねじ込む。ねじける。ねじ曲げる。ねじ向け。
ネジだ。ネジだ。ネジが狂っている。ネジが外れた。捩子腐りだぜ。

 「ねじける。」ということばに、私は、「ネジが外れた」ように笑ってしまった。この最後の2行は、それまでのエロティック、セックスからはじまったことばの運動に比べると、なんだか「ネジが狂っている」状態だけれど、奇妙におもしろい。
 2行目にでてきたネジの「祭り」って、こういうこと? わからないけれど、楽しい。私は結局私が楽しんだことを北川のことばのなかに「ねじ込む」のだ。

 「うそつき機械的体験」もとてもおかしい。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け。イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
労働者のために誰が一番尽くしてくれたか。ヒトラーさ。セリーヌ。

 「正直」は「嘘」になる。--うまくいえないが、何かを裏切る。
 ことばの過激な運動。それは、正直と嘘を超越して「真実」というものになるのかもしれない。それは「直視」できない。そこからは、つねに何かが「生まれている」。
 この「嘘つき機械的体験」には、私の大好きな「父の死」の一節も入っている。

父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。

 谷川には申し訳ないけれど、笑った。笑ってしまった。そうか。「うそ」か。「うそ」なんだね。いや、そんなことは、言われなくてもわかるのだけれど、「うそ」と言われたときの方が、もっともっと谷川のそのことばが好きになる。
 その一行が好きなのは--それを読むと、なんとなく笑えるからだね。私は、こころのどこかで、その一行を笑っていた。声には出さずに笑っていた。それが北川の詩を読んで、笑ったとき、思わず声が出てしまった。そして、とても明るい気分になった。「父の死」が、もっともっと好きになった。

 嘘つきは詩人の始まり、だね。いや、嘘つきは詩人のてっぺん、だね。


わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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