詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

2010-07-08 11:33:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

 「誰も書かなかった西脇順三郎」というタイトルから離れてしまうのだけれど、きょうは、「他人が書いている西脇順三郎」。
 「幻影」というのは「西脇順三郎を偲ぶ会」の会報である。その27号。(2010年05月31日発行)澤正宏の「『ギリシア的抒情詩』の奥深さ」。2009年06月06日の記念講演が採録されている。
 とても驚いた。「コリコスの歌」という詩を引用しながら、澤は語る。

 浮き上がれ、ミュウズよ。
 汝は最近あまり深くポエジイの中にもぐつてゐる。
 汝の吹く音楽はアドビス人には聞こえない。
 汝の喉のカーブはアドビス人の心臓になるやうに。

 何かぜんぜんわかりませんね。だけれども、「コリコスの歌」というタイトルに注目しますと、資料に写真がありますが、「コリコスの歌」というタイトルは、実はそこに載せている『イメージズ』という、これはリチャード・オールディントンという人が書いた詩集ですが、そのタイトルをもらってきているわけです。

 澤は、簡単に言うと西脇のことばの「出典」を全部調べ上げようとしている。そして、実際、それを調べ上げているのである。
 書き出しの「浮き上がれ、ミュウズよ。」はH・D(ヒルダー・ドゥーリトル)という人の「OREAD」の「Whirl up, sea --」を借用したものである。そしてそれは、この詩がイメージの詩であることを語っている。「アドビス人」の「アドビス」はヘレスポントス海峡近くのトルコの町であり、「田舎の人」という「意味」を持っている。そして、その「田舎の人」というのは「日本人」である。
 そういうことを調べ上げた上で、澤は、「コリコスの歌」で西脇は、イメージの豊かな詩、新しい日本の詩を書くことを宣言している。その新しい詩は、藤村の感覚に親しんでいる日本人にはわからない。--そう宣言している、と解説している。

 なるほどねえ。

 この「なるほどねえ」という感想が、澤のことばを読めば読むほど、くりかえし、私の中から沸き上がってくる。西脇の書いていることばの「意味」がくっきりと見えてくる。こんなにくっきりとみえてくるということは、澤の解説が「正解」ということの証なのだろうと思う。
 無学の私は、澤のことばに対して、どんな反論もできない。
 ただただ、よくまあ、こんなに調べてくるものだなあ、と感心する。

 で、感心しておきながら、こんなことを書くのは変なのかもしれないけれど。澤の楽しみって、何?
 たぶん、ことばの「意味」を突き止めることなんだね。
 「意味」を突き止めるために、ひとつひとつ、ことばの「出典」をつきつめる。「出典」が描き出す「ことばの地図」によって、「ことばの街」を復元する。「意味」という「時空間」を再現する。あるいは補強する--といえばいいのかな? 
 あ、たいへんだなあ。
 澤は何度も西脇には追い付けない。全容を解明できない--と書いているけれど、その全容を解明できないと知ること、認識すること、その認識の証拠として「わかる」ことを正確に「わかる」と明記する--それが、たぶん、澤の楽しみなのかもしれない。
 西脇にはたどりつけないんだけれど、私はここまでたどってみました、と言えることが澤の楽しみなんだろうなあ。
 あ、すごいなあ。
 でも、とても変な気持ちになる。

 西脇の詩が、これ以上ないくらい「正解」として分析され、「意味」が特定されているのに、澤のことばを読んだあとでは、西脇の詩がそんなにおもしろいとは感じられないのだ。西脇がやろうとしていることはとてもよくわかるけれど、なんといえばいいのかなあ、ある詩人がやろうとしいること(本意)を正しく認識したり、そこに書いてあることを正しく把握することが、そんなに大切なのかなあ、と疑問に感じてしまう。
 あ、正しい(?)いいかたではないね、これは。
 簡単に言うと、澤のことばを読むと、澤が西脇のことばの「意味」を特定し、(特定でき)、そのことをとても喜んでいるということは、とてもよくわかる。あ、ここまで調べ上げ、「正解」にたどりついた--うれしい。その「うれしい」という喜びは、とてもよくわかる。
 でも、その喜びに、西脇の詩の楽しさが隠されてしまっている。澤の喜びが、西脇の詩を上回っている。
 澤は西脇に追い付けない、と書くけれど。

 追い付く必要ってあるの?

 私は、そこに疑問を感じてしまう。だれかに追い付き、追い越す必要って、あるの? 文学というのは、たしかに、それを書いた人の思想(感情)を正しく知る必要があるのかもしれないけれど、正しいことが「追い付く」こと?

 これは私の「自己弁護」になってしまうから、書いてはいけないことなのかもしれないけれど。
 私は「正解」にたどりつくよりも、あ、私はまた間違ってしまった。書いても書いても間違ったことしか書けないなあ。なぜ、こんな間違いへ間違いへと誘うことばを他人は書くのかなあ。そして、そのことばに誘われて、間違えてしまうことが、なぜ、こんなに楽しんだろう、と思う人間なのだ。
 うまく言えないけれど、こどもが、「してはいけません」といわれると、ついついその禁じられたことをしてしまうように、私は、何か間違ったこと、悪いことをしたい。自分自身を裏切るようなことがしてみたいのかもしれない。好きなひとについて行くと、「道」を踏み外してしまう。ようするに、自分の知らなかったことを、そしてしてはいけないということをしてしまい、してしまったあとで、でも、あれは自分の意思ではなくて、悪い友達に誘われたからそうなってしまった--そんなふうに、ずるい弁解をしたいのかもしれない。
 「間違い」のなかに、何か、自分を逸脱していくもの、自分のコントロールできないなにかがある--それが楽しいのだと思う。

 「正解」は、とても窮屈なのだ。

 で、ここで、こんな飛躍をすると、岡井隆に叱られるかもしれないけれど--岡井隆の『注解する者』、あの詩集の「注解」は「正解」ではあるんだろうけれど、生活というか日常にまみれている、暮らしの汚れが染み込んでいる。そのために、間違った美しさ、不純な美しさに達している。それがいいんだよなあ、と思うのだ。
 澤のことばには「間違い」がない。あるかもしれないけれど、素人には指摘できる「間違い」がない。岡井のことばには、こんな読み方は失礼かもしれないけれど、あ、奥さんをこんなふうにからかうのか、聴講生の質問にこんな具合にいらいらするのか、かわいいねえ、なんて俗っぽい感想を差し挟むことができ、そういう瞬間に、「好き」という気持ちが生まれ、積み重なって「大好き」になる。人を好きになるというのは、自分がどうなってもいいと思うこと、とんでもない「間違い」の一歩なのだけれど、その一歩が、澤のことばに対しては踏み出せないなあ。
 「間違っています。正解は、これです」と叱られそうで……。
 これが岡井なら(会ったことはないのだけれど)、「あんた、ばかですねえ」とこつんとたたかれる。そのとき、あ、岡井の手が自分の頭に触ってくれた、覚えていたいからシャンプーするのはやめよう、なんて、とんでもないことを考えてしまうんだけれどなあ。



西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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山本まこと『当座の光の中で』

2010-07-08 00:00:00 | 詩集
山本まこと『当座の光の中で』(私家版、2010年06月10日)

 山本まこと『当座の光の中で』を読んでいると、時代を勘違いしそうになる。40―50年ほどさかのぼった気持ちになる。「現在」を感じないのだ。
 たとえば「呼ぶ」。

鏡の中の藁が燃え
焼け出された私はきみを呼ぶ
それがなぜきみでなければならないのか

 この3行の中に出てくる具体的な「もの」は「鏡」と「藁」である。「鏡」は文学の中では、ものではなく、「流通言語」(意味にまみれた象徴)になっている。そして「藁」はどうかといえば、これ、何?である。
藁って、見たことある?
私は農家育ちだから、昔は藁を見た。縄をなったことがある。蓆をおったこともある。草履は作る前にあきらめた。渋柿の渋を抜くために、樽に藁をつめ、お湯をはって、そのなかに柿を埋め込んだことはある。――これは全部昔のことである。今は、めったに見ない。正月前にスーパーなどへゆくと正月飾り(しめ縄)があって、あ、藁が使われている、と思うくらいで、日常的に藁を見ることなどない。
だから、「鏡の中の藁が燃え」と言われても、いったい、どこにある藁?とびっくりしてしまう。山本は農家の納屋にでも住んでいるのか。それならそれでもいいが、では、2連目に出てくる次のことばと、どうつながるのか。

殺(や)られたら殺(や)り返す他者なき街の惨劇に耐えながら

 藁のある世界と「街」が結びつかない。「惨劇」が結びつかない。「役立たずの狂気なんかは迂回する」というかっこいいことばもあるけれど、どうも、ことばがかっこよさだけで呼び合っている気がする。
 しかも。
 そのかっこよさが、40-50年前のかっこよさなのである。藤圭子や西田佐知子の生きていた世界に通じるかっこよさなのである。彼女達が具現化する「肉体」(藁、のような存在感)は、弱いということで、不思議な「精神性」を獲得していた。精神的なことばではなく、弱い、敗者の雰囲気が、ことばのなかに「精神(意地?)」を漂わせ、その「意地」が歌を聴く者を支えた。そのときに、そういう歌謡曲と対峙するような形ではやっていた「現代詩」のかっこよさである。
 当時の「現代詩」には、「他者なき街の惨劇」というような、「それは具体的にはなんのこと?」と問い返したくなるようなことばがあふれていた。当時は、そのことばに対して、「それは具体的にはなんのこと?」とは問い返さなかった。それは、「藁」が当時の農村の現実だったように、当時の「都会」の現実だった。ただし、「まだ実現されていない現実」ではあったが。言い換えると、40-50年前、まだ「都会」で起きていることをことばにする方法はなかった。そして、ことばにならないことをことばにするために、無理やり「他者なき街の惨劇」というようなことばがつかわれたのだ。「他者」も「不在(なき)」も「街」も「惨劇」も、これから「肉体」が体験していく「もの」だった。精神のなかの「実在」だった。そんなふうに、精神のなかにあるものを「実在させる」語法が、「藁」と同様にリアルだった。
 でも、いまは、そんな時代じゃないね。
 じゃ、どんな時代?と問われれば、それとは違う時代という否定形でしかいえないのだけれど。
 そして、否定形で何かを語るかわりに、私は、詩を読む。詩人たちが、ことばに負荷をかけながら、ことばの奥にあるものを無理やり絞り出す力技に出合いたくて詩を読む。その、わざと捻じ曲げられた力技の、その力のなかに「現在」があると信じているので。
 それは、

クソッ、炎上する塔の尖端をかすめる荒い雪のような性とは何だ!
まだ足りぬ欠如のために犬の肉を喰らうのか

 というような「力技」とは関係がない。
 山本のことばの「力技」は、どうにも古臭い。「塔」が有効だったのは「党」が輝きを持っていた1960年代である。その当時は、まだ都会に雪は頻繁に降り、犬の肉を喰うしかない野蛮の輝きがあった。今じゃ、人間に食われるかなんて考えている犬は一匹もいない。のうのうと、「早くおやつ持ってきてよ、待っているのがわからないの?」と飼い主を非難する時代である。
 「現実」と向き合っていないことばは、かっこよくみえても、むなしい。
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