みゆき「初雪」ほか、秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」(「ココー共和国」3、2010年07月01日発行)
黄仁淑の「空の花」は雪のことだが、夏に(梅雨のさなかに)雪の詩がもう一篇届いた。みゆきの「初雪」。
「現代詩」というより「ポエム」と呼ばれていることばかもしれない。
「現代詩」と「ポエム」はどこが違うか。
「両想い」ということばが出てくるが、「ポエムのことば」は「両想い」なのである。作者(詩人)と詩が「両想い」。
この詩は「初雪」(僕)の立場で書かれているが、その「初雪(僕)」の想いとは、実は、詩人の想いである。「両想い」を装っているが、「片想い」である。「片思い」をあえて「両方」にわけて、「両想い」として描く。
そこでは「ことば」が詩人を裏切ることはないし、詩人が「ことば」を裏切ることはない。
「初雪」は、一種の恋の告白であるけれど、「失恋」のポエムであっても、「両想い」はかわらない。「ことば」も詩人も「失恋」を想っている。ことばは恋愛の成就を想い、詩人は失恋を想っているというようなことは「ポエム」では起きない。
ほんとうの恋愛(というと、語弊があるかなあ)は、互いが互いを、そして自分が自分さえも裏切って、それでも何だかねちねちとつづいていくものだが、「ポエム」には、そういう裏切りはない。「ポエム」では「片裏切り」はあっても「両裏切り」はない。ところが、「現代詩」では、まあ、ほとんどが「両裏切り」なのである。詩人はことばを裏切り、ことばはことばで詩人の裏切りを裏切ってかってに
動いていく。
ということは、ちょっと、わきに置いておいて(永遠にわきに置いて置いて)。
まあ、この「両想い」の発見を、そのまま「両想い」という「ことば」で書き留めたところが、みゆきの作品の、おもしろいところだ。
ここが、みゆきの作品が「ポエム」を超える瞬間である。
「はじめまして!」にも、その「両想い」の一瞬がある。
ここでは、みゆきは「私」を「そよ風」からみつめさせている。そして、そよ風に「どんな子が越してきたのかな?」という「想い」を語らせている。それは、実は「私」の「想い」でもある。「どんな街かな?」を、裏側から見ている。
裏側といっても、それはほんとうは「裏」ではない。「同じひとつ」のものである。
「両想い」は、いつも「ふたつ」ではなく、「ひとつ」である。切り離せない。
「ポエム」はけっして切り離せない「ひとつ」のものを、「ことば」を借りて「ふたつ」にして、そこに「両想い」という運動を繰り広げさせる装置なのである。
*
秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」ことばには、何かしら「ポエム」に通じる軽さと強さがある。何かをひとつの視点(自分だけの視点)でこじ開けるようにして動かすのではなく、対象を一瞬のうちに「表・裏」に分離させ、それから「表・裏」というのは「ふたつ」に見えるけれど実際は「ひとつ」にすぎない--ということを、とても手早く語ってしまう。
それは「肉体」を刺激するというより「頭」を刺激する。
みゆきの作品が、「これは、どういう意味かな? 何を語りたいのかな?」と頭で考えるとき、その頭と一緒にこころが動き、「想い」になって花開くというような感じだが、秋のことばも、頭を、想像力を刺激する。
ただし。
このとき、秋は、頭に重い負荷をかけない。これはどういう意味? と真剣に考えないとわからないような負荷、そこに書かれていることばの意味を特定するために特別な哲学書を読まないといけない、というような負荷はかけない。とても軽い負荷だけを選んでくる。そういう「軽さ」を選び取るために、秋ははげしくフットワークする。それが秋のことばの特徴だと思う。
具体的に書こう。
「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、」は海苔(?)のCMで有名になったフレーズである。だれもが知っている。聞いたことがある。そういう「明白」なことがらをことばの出発点にする。読者に負荷を感じさせないところからことばを動かしはじめる。
そのうえで、「裏から読んでも山本山」という、CMにはなかったフレーズをつけくわえる。ちょっと考えないといけない。けれど、それはほんの少し。考えたか考えなかったかわからないような一瞬。そして、その一瞬に、くすり、としてしまう。この「くすり」の「共感」が秋のことばの到達点である。めざしているものである。
「両想い」ではなく、「共感」。「両想い」と「共感」の違いを定義するのはむずかしいけれど、きっと、「両想い」がたどりつくのは(たどりつくことをめざしているのは)、一種の「一体感(ひとつ、の意識)」だけれど、「共感」は文字どおり「共に・感じる」であって、「同じように・感じる」、つまり「同感」ではない。(同感は、「両想い」ににたところがある。)さらに言いなおすと、たとえば「裏から読んでも山本山」に対して、「なるほどねえ」と思うことも、「またくだらないことを大事そうに言って」と思ってもいいのである。
そして、秋が読者に求めている「感じ」が「なるほど」なのか「くだらない」なのかは、実は、わからない。
そして。(またまた、そして、なのだが)
この「わからない」が「現代詩」なのだ。「なるほど」か「くだらない」か、わからない--その「わからない」という瞬間に、「脳」が活性化する。「脳」の血の巡りが急に活発になる。
書き出しの「裏に住む」の「裏」は2行目の「裏から読んでも」の「裏」を楽に引き出すための誘い水だったのか……なんてことも自然に思い出すくらい、脳の血の巡りがよくなる。(あ、私の脳の血の巡りは、せいぜい、これくらいのことですが。)
「わからない」。そして、「わからない」ということに興味があるひとだけ、次の行に進んで行くことができる。
何かが少しずつ変だねえ。何もかもが「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」ではなく、「裏から読んでも山本山」に似ている。どこかで聞いた感じ。読んだ感じ。でも何かが違う。ちょっと変。「雪は空からの手紙」ということばだけではなく「太郎の屋根に……」という行も、それこそ「舌」をのぞかせながら隠れている。
これは、何?
「意味」を考える暇もないまま、ことばが、何かを裏切りながら滑空していく。このときの「離脱感」。軽さ。そこに秋の真骨頂がある。
秋が「ポエム」に関心があるのは、この「離脱」の「軽さ」が響きあうからだろう。(これは「共感」かな? 「同感」かな? 「両想い」かな?)
「裏から読んでも、未来。」の「未来」は、紙面ではほんとうに「裏返し」に印刷されている。ちょっとした「遊び」がある。
この「遊び」も秋の特徴である。「遊び」というのは「日常」からの「離脱」でもある。その「離脱」の領域に、ことばの、未知のとはいわないけれど、何かしらの運動の領域があり、それを秋は耕したいのだ。活性化させたいのだと思う。
秋のことばは、このあとも、ただ軽い滑空をつづける。どこまで軽さをもって滑空できるか--それを秋は追いかけている。
で、最後。最終行。
ちょっとおもしろい仕掛けで、秋は、私たちをひきとめる。
「山本山ち●」は紙上では、ほんとうに活字を裏返して印刷されている。そうすると「さ」は「ち」に見える。「ん」は表記できなかったので●で代用した。
「裏から読んでも山本山」は、たしかに「山本山」までならそうだけれど、「山本山さん」なら? つまり「日常」(ふつう、人の名前には「さん」をつけるね--私は、この日記ではつけないけれど(笑い))なら、ぴったり同じに見えるようであって、ほんとうは違うんじゃない?
私たちは、「裏から読んでも山本山は山本山」と単純に鵜呑みにするけれど、よく見れば違う。そういうことって、多くない? 現実に起きていることは、みんな、そういう「わな」を含んでいないだろうか。
秋亜綺羅は、ブログで「時事問題」も語っているが、そこでの語り口も、同じである。一般にこういわれているけれど、「山本山さん」を裏から見ると「山本山ち●」に見える。何か違っている。その違いは、いろんなところにある。
そういうものに、「現代詩」のことばも乱入させたい、ということなのだと思う。
黄仁淑の「空の花」は雪のことだが、夏に(梅雨のさなかに)雪の詩がもう一篇届いた。みゆきの「初雪」。
やっと君のもとに
舞い降りることができたよ
雲の上から
ずっと君のことを見ていたんだ
君はこたつで丸まりながら
時おり窓から空を見上げては
僕のことを想ってくれていたよね
僕たちは両想いなんだ
さぁ出ておいでよ
ちょっぴり冷たいけど
今年最初のキスをしよう☆
「現代詩」というより「ポエム」と呼ばれていることばかもしれない。
「現代詩」と「ポエム」はどこが違うか。
「両想い」ということばが出てくるが、「ポエムのことば」は「両想い」なのである。作者(詩人)と詩が「両想い」。
この詩は「初雪」(僕)の立場で書かれているが、その「初雪(僕)」の想いとは、実は、詩人の想いである。「両想い」を装っているが、「片想い」である。「片思い」をあえて「両方」にわけて、「両想い」として描く。
そこでは「ことば」が詩人を裏切ることはないし、詩人が「ことば」を裏切ることはない。
「初雪」は、一種の恋の告白であるけれど、「失恋」のポエムであっても、「両想い」はかわらない。「ことば」も詩人も「失恋」を想っている。ことばは恋愛の成就を想い、詩人は失恋を想っているというようなことは「ポエム」では起きない。
ほんとうの恋愛(というと、語弊があるかなあ)は、互いが互いを、そして自分が自分さえも裏切って、それでも何だかねちねちとつづいていくものだが、「ポエム」には、そういう裏切りはない。「ポエム」では「片裏切り」はあっても「両裏切り」はない。ところが、「現代詩」では、まあ、ほとんどが「両裏切り」なのである。詩人はことばを裏切り、ことばはことばで詩人の裏切りを裏切ってかってに
動いていく。
ということは、ちょっと、わきに置いておいて(永遠にわきに置いて置いて)。
まあ、この「両想い」の発見を、そのまま「両想い」という「ことば」で書き留めたところが、みゆきの作品の、おもしろいところだ。
ここが、みゆきの作品が「ポエム」を超える瞬間である。
「はじめまして!」にも、その「両想い」の一瞬がある。
新しい街
新しい家に
新しい風が吹く
私の頬をくすぐるそよ風さん
ちょっぴり警戒してるでしょ?
「どんな子が越してきたのかな?」って
ここでは、みゆきは「私」を「そよ風」からみつめさせている。そして、そよ風に「どんな子が越してきたのかな?」という「想い」を語らせている。それは、実は「私」の「想い」でもある。「どんな街かな?」を、裏側から見ている。
裏側といっても、それはほんとうは「裏」ではない。「同じひとつ」のものである。
「両想い」は、いつも「ふたつ」ではなく、「ひとつ」である。切り離せない。
「ポエム」はけっして切り離せない「ひとつ」のものを、「ことば」を借りて「ふたつ」にして、そこに「両想い」という運動を繰り広げさせる装置なのである。
*
秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」ことばには、何かしら「ポエム」に通じる軽さと強さがある。何かをひとつの視点(自分だけの視点)でこじ開けるようにして動かすのではなく、対象を一瞬のうちに「表・裏」に分離させ、それから「表・裏」というのは「ふたつ」に見えるけれど実際は「ひとつ」にすぎない--ということを、とても手早く語ってしまう。
それは「肉体」を刺激するというより「頭」を刺激する。
みゆきの作品が、「これは、どういう意味かな? 何を語りたいのかな?」と頭で考えるとき、その頭と一緒にこころが動き、「想い」になって花開くというような感じだが、秋のことばも、頭を、想像力を刺激する。
ただし。
このとき、秋は、頭に重い負荷をかけない。これはどういう意味? と真剣に考えないとわからないような負荷、そこに書かれていることばの意味を特定するために特別な哲学書を読まないといけない、というような負荷はかけない。とても軽い負荷だけを選んでくる。そういう「軽さ」を選び取るために、秋ははげしくフットワークする。それが秋のことばの特徴だと思う。
具体的に書こう。
裏に住む山本山さんは、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、
裏から読んでも山本山さん、というわけだ。
「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、」は海苔(?)のCMで有名になったフレーズである。だれもが知っている。聞いたことがある。そういう「明白」なことがらをことばの出発点にする。読者に負荷を感じさせないところからことばを動かしはじめる。
そのうえで、「裏から読んでも山本山」という、CMにはなかったフレーズをつけくわえる。ちょっと考えないといけない。けれど、それはほんの少し。考えたか考えなかったかわからないような一瞬。そして、その一瞬に、くすり、としてしまう。この「くすり」の「共感」が秋のことばの到達点である。めざしているものである。
「両想い」ではなく、「共感」。「両想い」と「共感」の違いを定義するのはむずかしいけれど、きっと、「両想い」がたどりつくのは(たどりつくことをめざしているのは)、一種の「一体感(ひとつ、の意識)」だけれど、「共感」は文字どおり「共に・感じる」であって、「同じように・感じる」、つまり「同感」ではない。(同感は、「両想い」ににたところがある。)さらに言いなおすと、たとえば「裏から読んでも山本山」に対して、「なるほどねえ」と思うことも、「またくだらないことを大事そうに言って」と思ってもいいのである。
そして、秋が読者に求めている「感じ」が「なるほど」なのか「くだらない」なのかは、実は、わからない。
そして。(またまた、そして、なのだが)
この「わからない」が「現代詩」なのだ。「なるほど」か「くだらない」か、わからない--その「わからない」という瞬間に、「脳」が活性化する。「脳」の血の巡りが急に活発になる。
書き出しの「裏に住む」の「裏」は2行目の「裏から読んでも」の「裏」を楽に引き出すための誘い水だったのか……なんてことも自然に思い出すくらい、脳の血の巡りがよくなる。(あ、私の脳の血の巡りは、せいぜい、これくらいのことですが。)
「わからない」。そして、「わからない」ということに興味があるひとだけ、次の行に進んで行くことができる。
しんしん雪が、山本山さんの家の屋根で白い舌をだして、手紙を書いていた。
そんな寒い日には、暖炉(だんろ)のそばのネコに、家族みんなであたったものだ。
ネコはサンマに恋をして、魚も喉を通らないほどだった。
何かが少しずつ変だねえ。何もかもが「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」ではなく、「裏から読んでも山本山」に似ている。どこかで聞いた感じ。読んだ感じ。でも何かが違う。ちょっと変。「雪は空からの手紙」ということばだけではなく「太郎の屋根に……」という行も、それこそ「舌」をのぞかせながら隠れている。
これは、何?
時間銀行では、時間を盗むのにもう少し時間をかせず必要があった。
強盗がもっていた暗号から意味を消していくと、数字が残った。
意味のない暗号なんて、もう暗号の意味はない。
考古学では、こういったものは、詩と呼ぶしかない。
「意味」を考える暇もないまま、ことばが、何かを裏切りながら滑空していく。このときの「離脱感」。軽さ。そこに秋の真骨頂がある。
秋が「ポエム」に関心があるのは、この「離脱」の「軽さ」が響きあうからだろう。(これは「共感」かな? 「同感」かな? 「両想い」かな?)
サイコロをふると、4ばかり出る日だった。
4月4日、4人の銀行強盗は正確に4時、舌を出して、時間泥棒に成功した。
そのとき、山本山さんの未来は盗まれた。
裏から読んでも、未来。
未来が盗まれると、過去も舌を出して、雪のようにとけていった。
過去はカコ、カコと鳴く。過去はカエルだった。
「裏から読んでも、未来。」の「未来」は、紙面ではほんとうに「裏返し」に印刷されている。ちょっとした「遊び」がある。
この「遊び」も秋の特徴である。「遊び」というのは「日常」からの「離脱」でもある。その「離脱」の領域に、ことばの、未知のとはいわないけれど、何かしらの運動の領域があり、それを秋は耕したいのだ。活性化させたいのだと思う。
秋のことばは、このあとも、ただ軽い滑空をつづける。どこまで軽さをもって滑空できるか--それを秋は追いかけている。
で、最後。最終行。
ちょっとおもしろい仕掛けで、秋は、私たちをひきとめる。
山本山さんは裏返しても、山本山ち●だ。
「山本山ち●」は紙上では、ほんとうに活字を裏返して印刷されている。そうすると「さ」は「ち」に見える。「ん」は表記できなかったので●で代用した。
「裏から読んでも山本山」は、たしかに「山本山」までならそうだけれど、「山本山さん」なら? つまり「日常」(ふつう、人の名前には「さん」をつけるね--私は、この日記ではつけないけれど(笑い))なら、ぴったり同じに見えるようであって、ほんとうは違うんじゃない?
私たちは、「裏から読んでも山本山は山本山」と単純に鵜呑みにするけれど、よく見れば違う。そういうことって、多くない? 現実に起きていることは、みんな、そういう「わな」を含んでいないだろうか。
秋亜綺羅は、ブログで「時事問題」も語っているが、そこでの語り口も、同じである。一般にこういわれているけれど、「山本山さん」を裏から見ると「山本山ち●」に見える。何か違っている。その違いは、いろんなところにある。
そういうものに、「現代詩」のことばも乱入させたい、ということなのだと思う。
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