監督 ピーター・ウェアー 出演 ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ジョセフ・ソマー、ルーカス・ハース
これは、これは、これは。と、思わず言ってしまうくらい、好きなシーンが次々。どこから書いていいかわからない。
時系列(?)で言うと、少年が警察で犯人の写真を見つける。指さす。その指をハリソン・フォードの掌がそっと包んで隠す。いいなあ。ふたりとも何も言わない。何も言わないけれど、会話が全部聞こえてくる。少年もいいし、私の大嫌いなハリソン・フォードもこのシーンはいいなあ。少年が「表彰陳列棚(?)」の前で動けなくなるに気づき、それから近づいてきて、少年の指を隠すまでの、スリルに満ちた時間。いやあ、どきどきします。えっ、誰か、ハリソン・フォードが少年の指を隠すの見なかった? ね、心配になるでしょ? 思わず、まわりを見わたしてしまう。映画なのに。まるで、少年と、ハリソン・フォードがいる警察署にいる気持ち。今回は「午前十時の映画祭」。この映画を見るのは2回目になるが、やっぱりまわりを見わたしてしまった。気づいた警官、いないよね、と。
あとで書く好きなシーンも台詞がないのだけれど、その少ない台詞のなかで、唯一2回くりかえされることばがある。「このことを知っているのは私ときみと、ふたりだけ」。ハリソン・フォードの上司のことば。このことばが手がかりになって、ハリソン・フォードは真相を知るのだけれど、このときも映画は「わかった」というようなことは言わない。ハリソン・フォードに台詞はない。頭の中に、上司の声が響く。それだけ。この、あることをきっかけに動いていく意識の自然な流れ--それをことばにしない。意識の自然な流れ、必然を、無言のまま見せるので、この映画は、台詞になっていないことばで満ちあふれる。観客が自分で「ことば(台詞)」をつくっていく。
こういう映画が好きだなあ。
好きなシーンの二つ目。ケリー・マクギリスが夜中、体を洗っている。それをハリソン・フォードが見てしまう。目があう。でも、ふたりとも何も言わない。この瞬間、ちょっと不思議なことを感じてしまう。映画は、ふたりが見つめ合う前にケリー・マクギリスの沐浴をアップでていねいに撮っている。それは実際にはハリソン・フォードが見たすべてではないけれど、つまり、ハリソン・フォードが見る前のシーンなのだけれど(観客しか知らないシーンなのだけれど)、なぜか、ふたりが見つめ合った瞬間、すべてをハリソン・フォードが見ていたと錯覚する。そして、ケリー・マクギリスも、まるでハリソン・フォードが見ているのを知っているかのように、ゆったりと体を洗う。ハリソン・フォードの視線を体のすみずみにまで誘うために、スポンジをもった手が動く。そして、そこからこぼれる水さえ、ハリソン・フォードを誘っているのを知っているかのように、きらめく。
こういうことは時間の流れから言うとまったくの間違い、矛盾なのだけれど、そういうことが起きる。つまり、知らないはずの「過去」が「いま」のなかに噴出してきて、それが「未来」へと人間を動かす--その動き(人間を動かそうとする力)が、知っている以上にわかってしまう。そういうことが瞬間的に起きる。
これは、少年が犯人の写真を指さし、その指をハリソン・フォードがそっと隠したときにも起きたことである。ハリソン・フォードは「過去」(つまり、少年が目撃したこと)を知らない。知らないけれど、少年の動きから、「過去」を少年が見たままというより、少年が見た実際の光景よりもはっきり見てしまう。「殺し」というものがどういうものか知っている--そのハリソン・フォードの「過去」が、少年の小さな動き、それを隠すハリソン・フォードの肉体のなかに、あざやかに噴出してくるのである。
沐浴シーンにもどれば、ハリソン・フォードがケリー・マクギリスをみつめるとき、彼女は手を動かしていない。けれど、ハリソン・フォードにはその手の動き、水の動き、体のすべての動きが見えるし、またケリー・マクギリスには、そういう動きを見つめる男の目が見えるし、そういう視線の前で繰り返してきた肉体のすべてが、いま、噴出していることを知っている。「愛」の時間が、そこに噴出している。「愛」がふたりを動かそうとしているを瞬間的にわかってしまう。そして、わかるから、それをおさえる。そうすると、肉体のなかで、そのわかったことが行き場を失って、ふくらんでくる。肉体を突き破って出て行こうとするのがわかる。
これを、ことばなしで、肉体、その視線の色の強さだけでスクリーンにあふれさせる。いいなあ。
三つ目。夕暮れ。ケリー・マクギリスがかぶっていた帽子(?)を脱ぐ。帽子を脱ぐ、髪を見せる、というのは、ヨーロッパの習慣で靴を脱ぐのはセックスを意味するのと同じように、やはり肉体を解放するという意味をもっているのだろう。ケリー・マクギリスは、そっと帽子を部屋の中に置く。そして、外へ飛び出す。ハリソン・フォードと抱き合い、キスをする。そこで描かれるのはキスまでだが、それはケリー・マクギリス性交以上に、濃密な愛の瞬間である。このシーン。美しい美しいシーンを、ピーター・ウェアーは憎らしいことに、鮮明な映像ではなく、かすれた、粗い画質でとらえている。スクリーンに映し出す。あ、まいるねえ。それは不鮮明だから美しい。セックスがそうであるように、それは「見せる」ためのものではない。だから、不鮮明でいい。それは「ふたり」だけの体験、ふたりだけのものであるから、観客には見せなくていいのだ。いや、観客に見せているのだけれど、見せながら、これは観客のために撮っているのではなく、ふたりの「実感」のための映像なのだとピーター・ウェアーは言うのだ。実際、この瞬間、映画を見ているのを忘れるねえ。まるでハリソン・フォードとケリー・マクギリスになってしまう。そして、あした、この家を出て行ってしまうハリソン・フォード、離ればなれになるふたりにとって、このキスは、記憶のなかで、こんなふうにいくぶんかすれた色になりながら、だからこそ、その実感を強くゆさぶる大切な瞬間になるのだなあとも思うのだ。
ふつうの、というか、「流通映画言語」なら、こういうシーンは、美しい夕暮れの空気がふたりを包む感じで、くっきりと撮影するだろう。そうせずに、あえて、粗い映像にしている。そこに、ピーター・ウェアーの映像意識を見たように思った。
*
視点をかえて、別なことを。
この映画の原題は「ウィットネス」である。「目撃者」である。「刑事ジョン・ブック」ということばはない。
「目撃者」は最初は事件を目撃した少年そのものを指している。ところが、最後の最後でその意味が違ってくる。ハリソン・フォードの上司が、ハリソン・フォードの居場所を突き止め、殺しにやってくる。そして、ケリー・マクギリスを人質(盾)にしてハリソン・フォードを射殺できるところまで追い詰める。
そのとき。
まわりには、大勢の村人がいる。「目撃者」が多数いる。その「目撃者」を証人として、ハリソン・フォードは言う。「何人殺すつもりか」。ハリソン・フォードを殺しても、上司は「救われない」。有罪から逃れられない。法廷から逃れられない。全員を殺すほど銃弾はないし、「目撃者」だらけになってしまって、その「証言」を否定できなくなる。
これはなんでもないことのようだけれど、すごい。
その「自明の事実」がすごいということもそうだけれど、このときのハリソン・フォードのことばのなかに、ハリソン・フォード(刑事ジョン・ブック)の「人間の変化」が象徴されているからである。
刑事ジョン・ブックは、少年の情報から「犯人」探しに出かけ、そこで出合った無実の人間を平気で殴ってしまう乱暴者である。ある意味では力(暴力)で「事件」を解決してきた人間である。その人間が、ケリー・マクギリスたちと暮らす内に、違った人間性を身につけるのである。(ピーター・ウェアーの映画は、主人公がいままで知らなかった世界に触れ、そこでかわっていくことが一貫したテーマであり、哲学である。この映画でも、それは貫かれている。)
銃によって事件が解決するわけではない。銃によって何かを葬り去ることはできない。非暴力、「目撃(者)」が、「事実」を「事実」として告発する。その力の方が、銃よりも強いのである。少年も、ケリー・マクギリスも、村人も銃をつかわない。それでも、その「目撃」と、その「ことば」の証言は、銃より強い。そのことを刑事ジョン・ブックは実感として「発見」する。
日本語のタイトルを「刑事ジョン・ブック」だけにしなかったのは、そういうことを配慮してのことなのかどうかわからないが、もしそうであるなら、「刑事ジョン・ブック」というタイトルそのものはやめて「目撃者」だけにすればよかったのに、と思った。
(午前十時の映画祭、25本目)
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