詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ウェアー監督「刑事ジョン・ブック 目撃者」(★★★★★)

2010-07-25 10:19:47 | 午前十時の映画祭

監督 ピーター・ウェアー 出演 ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ジョセフ・ソマー、ルーカス・ハース

 これは、これは、これは。と、思わず言ってしまうくらい、好きなシーンが次々。どこから書いていいかわからない。
 時系列(?)で言うと、少年が警察で犯人の写真を見つける。指さす。その指をハリソン・フォードの掌がそっと包んで隠す。いいなあ。ふたりとも何も言わない。何も言わないけれど、会話が全部聞こえてくる。少年もいいし、私の大嫌いなハリソン・フォードもこのシーンはいいなあ。少年が「表彰陳列棚(?)」の前で動けなくなるに気づき、それから近づいてきて、少年の指を隠すまでの、スリルに満ちた時間。いやあ、どきどきします。えっ、誰か、ハリソン・フォードが少年の指を隠すの見なかった? ね、心配になるでしょ? 思わず、まわりを見わたしてしまう。映画なのに。まるで、少年と、ハリソン・フォードがいる警察署にいる気持ち。今回は「午前十時の映画祭」。この映画を見るのは2回目になるが、やっぱりまわりを見わたしてしまった。気づいた警官、いないよね、と。
 あとで書く好きなシーンも台詞がないのだけれど、その少ない台詞のなかで、唯一2回くりかえされることばがある。「このことを知っているのは私ときみと、ふたりだけ」。ハリソン・フォードの上司のことば。このことばが手がかりになって、ハリソン・フォードは真相を知るのだけれど、このときも映画は「わかった」というようなことは言わない。ハリソン・フォードに台詞はない。頭の中に、上司の声が響く。それだけ。この、あることをきっかけに動いていく意識の自然な流れ--それをことばにしない。意識の自然な流れ、必然を、無言のまま見せるので、この映画は、台詞になっていないことばで満ちあふれる。観客が自分で「ことば(台詞)」をつくっていく。
 こういう映画が好きだなあ。
 好きなシーンの二つ目。ケリー・マクギリスが夜中、体を洗っている。それをハリソン・フォードが見てしまう。目があう。でも、ふたりとも何も言わない。この瞬間、ちょっと不思議なことを感じてしまう。映画は、ふたりが見つめ合う前にケリー・マクギリスの沐浴をアップでていねいに撮っている。それは実際にはハリソン・フォードが見たすべてではないけれど、つまり、ハリソン・フォードが見る前のシーンなのだけれど(観客しか知らないシーンなのだけれど)、なぜか、ふたりが見つめ合った瞬間、すべてをハリソン・フォードが見ていたと錯覚する。そして、ケリー・マクギリスも、まるでハリソン・フォードが見ているのを知っているかのように、ゆったりと体を洗う。ハリソン・フォードの視線を体のすみずみにまで誘うために、スポンジをもった手が動く。そして、そこからこぼれる水さえ、ハリソン・フォードを誘っているのを知っているかのように、きらめく。
 こういうことは時間の流れから言うとまったくの間違い、矛盾なのだけれど、そういうことが起きる。つまり、知らないはずの「過去」が「いま」のなかに噴出してきて、それが「未来」へと人間を動かす--その動き(人間を動かそうとする力)が、知っている以上にわかってしまう。そういうことが瞬間的に起きる。
 これは、少年が犯人の写真を指さし、その指をハリソン・フォードがそっと隠したときにも起きたことである。ハリソン・フォードは「過去」(つまり、少年が目撃したこと)を知らない。知らないけれど、少年の動きから、「過去」を少年が見たままというより、少年が見た実際の光景よりもはっきり見てしまう。「殺し」というものがどういうものか知っている--そのハリソン・フォードの「過去」が、少年の小さな動き、それを隠すハリソン・フォードの肉体のなかに、あざやかに噴出してくるのである。
 沐浴シーンにもどれば、ハリソン・フォードがケリー・マクギリスをみつめるとき、彼女は手を動かしていない。けれど、ハリソン・フォードにはその手の動き、水の動き、体のすべての動きが見えるし、またケリー・マクギリスには、そういう動きを見つめる男の目が見えるし、そういう視線の前で繰り返してきた肉体のすべてが、いま、噴出していることを知っている。「愛」の時間が、そこに噴出している。「愛」がふたりを動かそうとしているを瞬間的にわかってしまう。そして、わかるから、それをおさえる。そうすると、肉体のなかで、そのわかったことが行き場を失って、ふくらんでくる。肉体を突き破って出て行こうとするのがわかる。
 これを、ことばなしで、肉体、その視線の色の強さだけでスクリーンにあふれさせる。いいなあ。
 三つ目。夕暮れ。ケリー・マクギリスがかぶっていた帽子(?)を脱ぐ。帽子を脱ぐ、髪を見せる、というのは、ヨーロッパの習慣で靴を脱ぐのはセックスを意味するのと同じように、やはり肉体を解放するという意味をもっているのだろう。ケリー・マクギリスは、そっと帽子を部屋の中に置く。そして、外へ飛び出す。ハリソン・フォードと抱き合い、キスをする。そこで描かれるのはキスまでだが、それはケリー・マクギリス性交以上に、濃密な愛の瞬間である。このシーン。美しい美しいシーンを、ピーター・ウェアーは憎らしいことに、鮮明な映像ではなく、かすれた、粗い画質でとらえている。スクリーンに映し出す。あ、まいるねえ。それは不鮮明だから美しい。セックスがそうであるように、それは「見せる」ためのものではない。だから、不鮮明でいい。それは「ふたり」だけの体験、ふたりだけのものであるから、観客には見せなくていいのだ。いや、観客に見せているのだけれど、見せながら、これは観客のために撮っているのではなく、ふたりの「実感」のための映像なのだとピーター・ウェアーは言うのだ。実際、この瞬間、映画を見ているのを忘れるねえ。まるでハリソン・フォードとケリー・マクギリスになってしまう。そして、あした、この家を出て行ってしまうハリソン・フォード、離ればなれになるふたりにとって、このキスは、記憶のなかで、こんなふうにいくぶんかすれた色になりながら、だからこそ、その実感を強くゆさぶる大切な瞬間になるのだなあとも思うのだ。
 ふつうの、というか、「流通映画言語」なら、こういうシーンは、美しい夕暮れの空気がふたりを包む感じで、くっきりと撮影するだろう。そうせずに、あえて、粗い映像にしている。そこに、ピーター・ウェアーの映像意識を見たように思った。



 視点をかえて、別なことを。
 この映画の原題は「ウィットネス」である。「目撃者」である。「刑事ジョン・ブック」ということばはない。
 「目撃者」は最初は事件を目撃した少年そのものを指している。ところが、最後の最後でその意味が違ってくる。ハリソン・フォードの上司が、ハリソン・フォードの居場所を突き止め、殺しにやってくる。そして、ケリー・マクギリスを人質(盾)にしてハリソン・フォードを射殺できるところまで追い詰める。
 そのとき。
 まわりには、大勢の村人がいる。「目撃者」が多数いる。その「目撃者」を証人として、ハリソン・フォードは言う。「何人殺すつもりか」。ハリソン・フォードを殺しても、上司は「救われない」。有罪から逃れられない。法廷から逃れられない。全員を殺すほど銃弾はないし、「目撃者」だらけになってしまって、その「証言」を否定できなくなる。
 これはなんでもないことのようだけれど、すごい。
 その「自明の事実」がすごいということもそうだけれど、このときのハリソン・フォードのことばのなかに、ハリソン・フォード(刑事ジョン・ブック)の「人間の変化」が象徴されているからである。
 刑事ジョン・ブックは、少年の情報から「犯人」探しに出かけ、そこで出合った無実の人間を平気で殴ってしまう乱暴者である。ある意味では力(暴力)で「事件」を解決してきた人間である。その人間が、ケリー・マクギリスたちと暮らす内に、違った人間性を身につけるのである。(ピーター・ウェアーの映画は、主人公がいままで知らなかった世界に触れ、そこでかわっていくことが一貫したテーマであり、哲学である。この映画でも、それは貫かれている。)
 銃によって事件が解決するわけではない。銃によって何かを葬り去ることはできない。非暴力、「目撃(者)」が、「事実」を「事実」として告発する。その力の方が、銃よりも強いのである。少年も、ケリー・マクギリスも、村人も銃をつかわない。それでも、その「目撃」と、その「ことば」の証言は、銃より強い。そのことを刑事ジョン・ブックは実感として「発見」する。
 日本語のタイトルを「刑事ジョン・ブック」だけにしなかったのは、そういうことを配慮してのことなのかどうかわからないが、もしそうであるなら、「刑事ジョン・ブック」というタイトルそのものはやめて「目撃者」だけにすればよかったのに、と思った。

                          (午前十時の映画祭、25本目)

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高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』

2010-07-25 00:00:00 | 詩集
高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』(思潮社、2010年07月20日発行)

 高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』は、不思議な詩集である。たとえば「肩に触れた指を仕舞う所がなく」という魅力的なタイトルの詩。

会談が途切れて畳む足もないのです。私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。あなたの接触する点(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)にこれからも再生するでしょう。

 詩は「意味」ではない--ということは知っているけれど、というか、私自身、「詩は意味ではない」と何度も書くけれど、そのとき私は「意味」を突き破っていくことばの暴走を楽しんでいる。ことばの暴走に驚きながら、その恐怖を楽しんでいる。ジェットコーススター、絶叫マシーンのように。「わけのわからんことを書くな」と怒りながら、「おいおい、どこまででたらめを書くことができるのだ」と喜んでいる。
 高谷和幸のことばは、そういう暴走、スピードとは無縁である。
 ひとつの文と、次の文の「接触点」が見えない。飛躍の、「分離点」が見えない。何かがつながっていて、何かが離れている、ということがわかるとき(感じられるとき)、そこに暴走という感じが生まれてくるのだけれど、高谷のことばには、それがない。
 そして、文と文との間に(句点「。」で区切られた文と文との間に)、「接触点」と「「分離点」がないかわりに、ひとつの文のなかに「分離点」と「接触点」がある。

私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。

 括弧をつかい、挿入されたことば--それは、直前の「時代」ということばに接触しながら、同時にそこから離れていく。「離れていく」というのは挿入という概念からすると、とても不思議な気がするが、高谷にとっては、挿入されたことばは文体に対する点滴(カンフル剤)のように、挿入を受け入れた「からだ(文体)」を活性化させるというよりも、何か、鎮静させ、停滞させる。挿入されたもの、挿入したものが一体にならずに、接触しながら離れている。
 (あれは、誰かの息吹きであったと思う)は、「私たちは四角い天地に憧れて時代をしばしば遮るように。」という「文」の「からだ」を刺激しない。ただ、共存している。「からだ」と「衣服」の関係よりも無関係に共存している。
 (暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)と「あなたの接触する点にこれからも再生するでしょう。」も同じである。「ひかりのへりあたり」ということばは魅力的だが、それは「再生」とは単に「共存」しているだけで、「呼応」していない。無関係である。
 「ひかりのへりあたり」はむしろ前の文の「誰かの息吹き」と呼応している。
 「文」に挿入された括弧内のことばは、他の括弧内のことばと呼応している。「文」から「分離」し、分離したものどおしが呼び合い接触しようとしている。
 詩のなかから、括弧内のことばだけを引用してならべてみる。

(あれは、誰かの息吹きであったと思う)
(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)
(プロポージション物質を分泌するそれら四つのわたしを射抜く細部)
(眼の無垢であるかのような)
(あの瘴気に手懐いた動き)

 ここには、「文(体)」を離れたことば、「文」の「意味」から「離れた」ことばの呼応がある。
 「文(体)」を離れたことばだけで、別の「文体」をつくれば、そこにひとつの詩が誕生する。ただし、それはすでに「現代詩」がやっていることである。同じことをやりたくないので、高谷は、「文(体)」を離れたことばを「文(体)」のなかに挿入し、「文(内)」に閉じ込め、「文(内)」と「文(内)」の、(内)同士を呼応させるのである。(内)を「意味」ではなく、「こころ」と置き換えることができるかもしれない。
 「文体」のなかに「からだ」と接触しながらも、離れて存在する(閉じ込められながらも、閉じ込められているということを意識することで、そこから離れたいと思っている)「内心」同士が、呼び掛け合っているのである。

 こうした動きに、もうひとつ、別のことばの運動が加わる。

ひかりが差し込んだような瞳であなたが「丈夫な空洞が羨ましい」(眼の無垢であるかのような)といわれたことを思い出します。あのひかり(あの瘴気に手懐いた動き)。「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。

 カギ括弧によることば。これは、あきらかに「他者」のことばである。丸括弧のことばは「わたし(たち)」の「内心」であるが、カギ括弧のことばは「他者」の「内心」がことばそのものとして、「からだ(肉体)」の外へ出てしまった「こころ」(外心--と区別して書いておこう)である。
 「内心」と「外心」が触れ合う--そういう瞬間を高谷は書こうとしているのかもしれない。そのとき、「肉体」というからだは、「わたし(たち)の肉体」と「他者の肉体」は分離している。
 図式化すると

「わたし(たち)の肉体」-「内心」-「外心」-「他者の肉体」

 という関係になる。それは

「わたし(たち)の文(体)」-「内心」-「外心」-「他者の文(体)」

 という関係にもなる。なるのだが、この詩では、その「他者の文(体)」というものが、ない。

「外心」=「他者の文(体)」

 という形で、「肉体」の外に飛び出してしまっている。「肉体」の不在。
 思うに、この詩は、死者との対話、なのである。
 詩のつづき。

「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。そうでしょうとも。あなたの横たわる地面の底を流れていた水にようやくなれたようで、わたしたちは何万年も不在です。

 「あなたの(他者の)肉体」と「わたし(たち)の肉体」の接触のなさ、死者と生者の違い--それは関係が「不在」である。

 そんなふうに読んできて、高谷はおもしろいことをやっているんだなあと感じながらも、ひとつ疑問が残る。冒頭、

 会談が途切れて畳む足もないのです。

 私は「会談」という、いきなり止まってしまうことばにつまずく。だれかと話していて、ことばが途切れる。そのときの空白を「畳む足もない」と「肉体」に取り込んでいくことばの運動は魅力的だが、「会談」って何? 死者をとりまく生者である「わたし(たち)」のことばのやりとりなのかもしれないが、この「足」という「肉体」の内部にある「内心」がまったく見えない。
 最後に「そうでしょうとも。」という突然の肯定で出てくる「内心」のことばの噴出の、不思議な汚さ--それに、私はまごついてしまう。
 「内心」は「肉体」という外部に隠されているがゆえに、見えても、見えないといえるものである。そこに美しさがある。けれど、それが「肉体」から出てしまうと、とたんに汚れてしまう。
 なぜ、最初から最後まで「内心」は「内心」のまま、呼応し合えないのか--それがわからない。高谷は「肉体」と「内心」、あるいは「文体」と「内心」の関係をどう考えているのだろうか。




ヴェジタブル・パーティ
高谷 和幸
思潮社

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