詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルフレッド・ヒッチコック監督「裏窓」(★★★★★)

2010-07-13 22:07:23 | 午前十時の映画祭


監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ジェームズ・スチュアート、グレイス・ケリー

 こういう作品を見ると、ヒッチコックはほんとうにおしゃれだと思う。他人の部屋を覗き見している。もしかしたら殺人? 疑いを真実に変える(?)ために、証拠を探す。他人の部屋にまで侵入してしまう。ね、ありえないような、乱暴な話でしょ?
 これをグレイス・ケリーの美貌と、映画の台詞にも出てくるけれど、二度と同じ服を着ないという超現実的な設定で、洗い流してしまう。「あ、これは現実ではありません。えいがですからね」とていねいに説明する。
 夏の、暑い暑い下町なのに、クーラーもないのに、グレイス・ケリーは汗ひとつかかないというのも、クールですばらしい。
 いいなあ。
 オープニングから、「映画」を強調している。三つのブラインドを左から一枚ずつ引き揚げていく。それにクレジットを重ねる。「さあ、はじまり、はじまり」というわけである。
 いまの映画は、CDのように突然はじまる。アナログレコードは針を落とすぷっつんという音、無音(?)のトレースがあって、音がはじまる。アナログレコードはこころの準備ができてからはじまる--そんなふうに、昔の映画ははじまった。
 この感じが、とてもいい。特に「裏窓」のように、そんなことが現実にあったら困ってしまう、というような映画には。殺人--ではなく、のぞきと、のぞきによる告発というか、事件の成立というようなことがあると、なんだか、こわいよね。
 だから、これは映画、これは映画ですよ、と念を押す。
 ヒッチコックがピアニストの部屋に一瞬だけ顔を出すけれど、これも「映画ですよ」というヒッチコック流の「サイン」なのだろう。

 と、書いてしまえば、いまさらほかに付け加えることもない完璧な作品だけれど。
 会話のやりとりがイギリス風ですねえ。「のぞき」自体が「ピーピング・トム」といわれるくらいだからイギリス的なのだけれど、のぞきながらも知らないふりをする--それがイギリス的。
 いろいろな見方があると思うけれど、私は、イギリス人というのは、見ても、それを「ことば」として本人から聞かないかぎりは知らないということを押し通す。ナイスボディーの女性が下着(水着?)で美容体操していても、誰かが「私は見ました」といわないかぎり、それは見たことにはならない。だから、女性の方でも「見られた」ことにはならない。そして、「のぞき見した」なんてことは一般にだれも告白はしない。だから、そこでは「何も起きていない」--これがイギリス的現実。でも、「ことば」になれば、それは存在する。
 イギリスはあくまで「ことば」の国。シェークスピアの国。「ことば」になっていないことは存在しない。そして、「ことば」になりさえすれば、それは存在したことになる。この、ことば、ことば、ことばのおもしろさは、ジェームズ・スチュアートとマッサージのおばさんとのやりとりにたっぷり出てくる。グレイス・ケリーとのやりとりではストーリーの根幹に触れる。「女はバッグを手放さない。結婚指輪は外さない」は、「ことば」が殺人事件を裏付ける。ジェームズ・スチュアートは見て、想像しているだけ。そこには「ことば」の「証拠」がない。グレイス・ケリーは見ていないけれど、「ことば」で証拠を明確にする。「ことば」が成立すれば、ね、事件が成立する。犯罪が成立する。すごいですねえ。
 ちょっと、繰り返し。
 「ことば」にしないかぎり、存在しない、は刑事が、グレイス・ケリーの寝具(スリッパ)を見ても何も言わないことで、何も存在しないことになってしまう。
 このあたりが、特に、おしゃれだねえ。スリッパって靴を脱ぐこと。靴を脱ぐというのは、靴の国ではセックスをすることだからね。そこにセックスが暗示されている。ほら、「ローマの休日」でヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐシーンがあるでしょ。あれも、セックスの暗示。肉体の解放の象徴だよね。セックスシーンが映像としてなくても、見えるひとには見える、そのセックスシーンが……。でも、「スリッパを持ってきたの?」とは言わない。「スリッパ」ということばを発しない。
 そういう国の監督がアメリカで映画を撮るんだから、おもしろいよねえ。何か不思議な化学反応のようなマジックが起きる。
 「ことば・ことば・ことば」というわけにはいかない。シェークスピアじゃないからね。そして、同時に、あ、やっぱり「ことば」にするのが上手--と矛盾したことも思ってしまう。「映像」を「ことば」にしてしまう。
 最初の(?)クライマックス。
 グレイス・ケリーが殺人者の部屋に侵入して証拠を探す。殺された妻の指輪を見つけ出す。その見つけ出した指輪--これを、グレイス・ケリーは、双眼鏡でジェームズ・スチュアートがのぞいているのを知っていて、後ろ手にして見せる。「あ、証拠の結婚指輪」。「結婚指輪を見つけた」と「ことば」では言わない(言えない状況)で、ちゃんと「映像」で「証拠」を語らせる。
 うーん、おもしろいねえ。
 「ジェームズ、ジェアムズ」と大声で助けを呼んでいたのに、警官がきて、とりあえず殺人者の手から逃れることができたとわかったら、もう、「ことば」を発しない。大事なことは言わない。「この男は殺人者、妻を殺した。妻の結婚指輪はここにある」なんて、ことばで説明すると、何もかもが台無しになる。男が暴れ出してしまう。だから、それは話せる場所(警察)までとっておく。言わない。言わないかぎり、そこでは何も存在しない」。
 でも、ことばの国のひとではないアメリカ人、そしてカメラマン(これも重要だねえ--のぞく、というより映像のひと、ことばのひとではない、という意味で)には、映像でそれがわかる。

 ヒッチコックの映画がおしゃれなのは、彼がことばの国の生まれであることが関係しているかもしれない。
 映像が語るもの、ことばが語るもの。その区別をはっきり理解している。映像をことばとして明確に認識している、ということかもしれない。映像が語ることができるものは全部映像に語らせ、その補足、補助線を「ことば」が引き受ける--そういう構造でヒッチコックの映画はできているのかもしれない。
                          (午前十時の映画祭、22本目)


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黄仁淑「空の花」

2010-07-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
黄仁淑(ファン・インスク)「空の花」(韓成礼訳)(「something 」11、2010年07月01日発行)

 黄仁淑(ファン・インスク)「空の花」は「雪」を描写している。

先に落ちていく雪片に阻まれて
後の雪片たちがふわふわと浮かぶ
空までの遥かな隊列です
向こうの深い天空で
似通った星たちが吸い込まれ
一緒に零れ落ちるかも知れません
私も吸い込まれて
どこかに零れ落ちてしまうようです

 雪は空から降ってくる。多すぎて、落ち切れなくて、浮かんでいる。こんなに多くの雪が落ちてくるのは、空の向こうの星が一緒に落ちてくるのだ、というのは美しいイメージだ。
 その落ちてくるものを書きながら、逆に、私が空に吸い込まれていくように感じる。一個の「星」として空に吸い込まれて、それから遠い宇宙の星とは逆に、どこかの星に零れ落ちる。

 あ、美しい。

 この部分はほんとうに美しいと思う。
 私は雪国の生まれなので、雪が降るのは小さいころから見慣れている。雪はたしかに降ってくるものなのだが、それを見上げていると雪が降ってくるのではなく、自分が空へのぼっていく感じがする。吸い込まれる感じがする。
 そして、あ、このまま高く高くのぼっていってしまったら、どうなるのだろう。空を超えて、どこへ行くのだろう。
 たぶん、黄仁淑もそう感じたのだろう。そして、そのあと、きっと宇宙を超えて、雪の降る別の星に、雪となって降るのだ、と感じたのだと思う。
 私は、そこまでは思ったことがない。
 ところが、黄仁淑は私の幼い空想のはるか向こうまで飛んで行く。そして、自分の「肉体」の運動とは逆のことがどこかで起きている可能性があるとも考える。想像する。
 どこか遠い宇宙の星にも雪が降ってる。そして、それを見上げる人ではなく星そのものが、その降ってくる雪を逆に駆け上って(降ってくる雪に吸い込まれて)、空を超え、いま、黄仁淑のいる土地に降って来ている。
 このとき、黄仁淑は空で起きている下降(降る)と上昇(吸い込まれる)を連続したものとしてとらえている。その運動が広がっているところが空を超え、宇宙になる。黄仁淑は空を、雪を描写しているのではなく、「宇宙」そのものになっているのだ。「宇宙」のひろがりが黄仁淑の想像力なのだ。。
 ほーっと、息が漏れる。

 黄仁淑は私の知らないことを書いている。知らないことなのに、それが不思議と「なつかしく」も感じられる。黄仁淑の書いていることばのように、そのまま、雪を見上げて宇宙を超えて、知らない星に零れ落ちてみたい、という夢を見てしまう。
 あ、はやく雪の季節にならないかなあ、とも思う。

 この詩の最後は、「宇宙」そのもののひろがりとは逆の方向(?)に収斂していくが、それはそれでなぜかとてもなつかしくもあるし、美しい。

自分の部屋に入ってドアを閉めると
急に静かになります
ポケットの中に雪がいっぱい入っています。

 黄仁淑は単なる「空想」を描いているのではない。黄仁淑の「宇宙」はいつでも、手に触れることのできる「現実」なのだ。


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