監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ジェームズ・スチュアート、グレイス・ケリー
こういう作品を見ると、ヒッチコックはほんとうにおしゃれだと思う。他人の部屋を覗き見している。もしかしたら殺人? 疑いを真実に変える(?)ために、証拠を探す。他人の部屋にまで侵入してしまう。ね、ありえないような、乱暴な話でしょ?
これをグレイス・ケリーの美貌と、映画の台詞にも出てくるけれど、二度と同じ服を着ないという超現実的な設定で、洗い流してしまう。「あ、これは現実ではありません。えいがですからね」とていねいに説明する。
夏の、暑い暑い下町なのに、クーラーもないのに、グレイス・ケリーは汗ひとつかかないというのも、クールですばらしい。
いいなあ。
オープニングから、「映画」を強調している。三つのブラインドを左から一枚ずつ引き揚げていく。それにクレジットを重ねる。「さあ、はじまり、はじまり」というわけである。
いまの映画は、CDのように突然はじまる。アナログレコードは針を落とすぷっつんという音、無音(?)のトレースがあって、音がはじまる。アナログレコードはこころの準備ができてからはじまる--そんなふうに、昔の映画ははじまった。
この感じが、とてもいい。特に「裏窓」のように、そんなことが現実にあったら困ってしまう、というような映画には。殺人--ではなく、のぞきと、のぞきによる告発というか、事件の成立というようなことがあると、なんだか、こわいよね。
だから、これは映画、これは映画ですよ、と念を押す。
ヒッチコックがピアニストの部屋に一瞬だけ顔を出すけれど、これも「映画ですよ」というヒッチコック流の「サイン」なのだろう。
と、書いてしまえば、いまさらほかに付け加えることもない完璧な作品だけれど。
会話のやりとりがイギリス風ですねえ。「のぞき」自体が「ピーピング・トム」といわれるくらいだからイギリス的なのだけれど、のぞきながらも知らないふりをする--それがイギリス的。
いろいろな見方があると思うけれど、私は、イギリス人というのは、見ても、それを「ことば」として本人から聞かないかぎりは知らないということを押し通す。ナイスボディーの女性が下着(水着?)で美容体操していても、誰かが「私は見ました」といわないかぎり、それは見たことにはならない。だから、女性の方でも「見られた」ことにはならない。そして、「のぞき見した」なんてことは一般にだれも告白はしない。だから、そこでは「何も起きていない」--これがイギリス的現実。でも、「ことば」になれば、それは存在する。
イギリスはあくまで「ことば」の国。シェークスピアの国。「ことば」になっていないことは存在しない。そして、「ことば」になりさえすれば、それは存在したことになる。この、ことば、ことば、ことばのおもしろさは、ジェームズ・スチュアートとマッサージのおばさんとのやりとりにたっぷり出てくる。グレイス・ケリーとのやりとりではストーリーの根幹に触れる。「女はバッグを手放さない。結婚指輪は外さない」は、「ことば」が殺人事件を裏付ける。ジェームズ・スチュアートは見て、想像しているだけ。そこには「ことば」の「証拠」がない。グレイス・ケリーは見ていないけれど、「ことば」で証拠を明確にする。「ことば」が成立すれば、ね、事件が成立する。犯罪が成立する。すごいですねえ。
ちょっと、繰り返し。
「ことば」にしないかぎり、存在しない、は刑事が、グレイス・ケリーの寝具(スリッパ)を見ても何も言わないことで、何も存在しないことになってしまう。
このあたりが、特に、おしゃれだねえ。スリッパって靴を脱ぐこと。靴を脱ぐというのは、靴の国ではセックスをすることだからね。そこにセックスが暗示されている。ほら、「ローマの休日」でヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐシーンがあるでしょ。あれも、セックスの暗示。肉体の解放の象徴だよね。セックスシーンが映像としてなくても、見えるひとには見える、そのセックスシーンが……。でも、「スリッパを持ってきたの?」とは言わない。「スリッパ」ということばを発しない。
そういう国の監督がアメリカで映画を撮るんだから、おもしろいよねえ。何か不思議な化学反応のようなマジックが起きる。
「ことば・ことば・ことば」というわけにはいかない。シェークスピアじゃないからね。そして、同時に、あ、やっぱり「ことば」にするのが上手--と矛盾したことも思ってしまう。「映像」を「ことば」にしてしまう。
最初の(?)クライマックス。
グレイス・ケリーが殺人者の部屋に侵入して証拠を探す。殺された妻の指輪を見つけ出す。その見つけ出した指輪--これを、グレイス・ケリーは、双眼鏡でジェームズ・スチュアートがのぞいているのを知っていて、後ろ手にして見せる。「あ、証拠の結婚指輪」。「結婚指輪を見つけた」と「ことば」では言わない(言えない状況)で、ちゃんと「映像」で「証拠」を語らせる。
うーん、おもしろいねえ。
「ジェームズ、ジェアムズ」と大声で助けを呼んでいたのに、警官がきて、とりあえず殺人者の手から逃れることができたとわかったら、もう、「ことば」を発しない。大事なことは言わない。「この男は殺人者、妻を殺した。妻の結婚指輪はここにある」なんて、ことばで説明すると、何もかもが台無しになる。男が暴れ出してしまう。だから、それは話せる場所(警察)までとっておく。言わない。言わないかぎり、そこでは何も存在しない」。
でも、ことばの国のひとではないアメリカ人、そしてカメラマン(これも重要だねえ--のぞく、というより映像のひと、ことばのひとではない、という意味で)には、映像でそれがわかる。
ヒッチコックの映画がおしゃれなのは、彼がことばの国の生まれであることが関係しているかもしれない。
映像が語るもの、ことばが語るもの。その区別をはっきり理解している。映像をことばとして明確に認識している、ということかもしれない。映像が語ることができるものは全部映像に語らせ、その補足、補助線を「ことば」が引き受ける--そういう構造でヒッチコックの映画はできているのかもしれない。
(午前十時の映画祭、22本目)
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