詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子鉄夫「うみなんていくな」、木葉揺「レジもえ」

2010-07-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「うみなんていくな」、木葉揺「レジもえ」(「現代詩手帖」2010年07月号)

 金子鉄夫「うみなんていくな」は「新人作品」の欄に載っていた。1行目が、とてもおもしろかった。

なぜひとはかなぁしくなると

 「かなぁしくなると」って、なんだろう。「意味」的には「悲しくなると」なのだろうけれど、その「意味」を小馬鹿にしたような調子がある。そして、この小馬鹿にしたような調子に何を感じるかはひとそれぞれだが、私は一種の「矛盾」を感じるのだ。いや、感じたいのだ、と言った方がいいかな。
 たぶん、私は、金子のことばを読んでいない。私は私のなかにひそんでいることばを、金子のことばを借りて探している。「かなぁしくなると」という書き方を私はしない。もし、するとするなら、どういうときだろうか。私は、そんなことを考えながら、書き出しの1行で止まったままである。
 「かなぁしくなると」というちょっと歌うような(メロディーにのせてみたくなるような--シューベルツだったっけ、ふるいふるい歌にそんな調子のことばがあったような……)響きに触れると、あ、これを小馬鹿にするのは、そういう小馬鹿にしてしまいたい感じのなかで動くものがみたいからなんだなあ、と思う。
 だれでも、なんでもいいのだが、小馬鹿にすると、小馬鹿にされたもののなかで、感情がすばやく動く。反発する。そのとき見える、まぼろしのようなもの--それが好き。好きな何かを見たくて小馬鹿にする。
 そういうことってない?

なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへいくのさ

 2行目は、何かを小馬鹿にするときの、小馬鹿の根拠(?)のようなものだ。わかったような、わからないような、--いや絶対にわからないことを、わからないだろうと言って、聞いている人(小馬鹿にされている対象)をさらに馬鹿にする。
 「なぜ、ひとは悲しくなると/海へ行くのさ」では、単なるセンチメンタルの否定だが、それを小馬鹿にしながら言うとき、そこに不思議な「愛」が粘りつく。小馬鹿と愛は矛盾しているが、矛盾しているから、そこがおもしろい。
 粘りつく--と私は思わず書いてしまったが、ここには粘着力がある。ことばの、何がなんでも絡みついてやる、というよな粘着力がある。
 粘着力というのは、私には、愛にしか見えない。
 ほんとうにいやなら、そんなもの、ほおっておけばいい。「なぜ海へ行くのさ」と否定的にからみつかなくたっていい。でも、絡みつきたい。つながりたい。接続したい。
 きのう読んだ長嶋南子は「肉体」で接続したけれど、男・金子鉄夫(男だよね)は、「肉体」では接続できないので、ことばで接続しようとする。接続するために、まず、否定することで「自己」と「他者」を明確にし、それからその「ちがい」のなかへ、ねちねちねちねちとことばが接続していく。
 これは、奇妙な暴力だね。

なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへいくのさ
(へらへらわらってんじゃねぇ)
あな
あなまちがうほど愛したひとに
うらぎられたって
どんつきの沈んだ浜辺で
本日のて、あしを散らすのは惜しい

 (へらへらわらってんじゃねぇ)といったって、「愛したひとに/うらぎられた」なんて「こころ」につながってしまって、うろたえているのは、小馬鹿にした対象ではなく、小馬鹿にした金子の方だ。
 ことばは、どうしても「こころ」につながってしまう。「肉体」にはつながらず、「こころ」につながってしまう。これが、男・金子鉄夫のことばと女・長嶋南子のことばの違いだね。
 もう、こうなってしまったら、「つながりたい」なんて言ってはいられない。べたべた。ねちねち。つながってしまっている。「切る」しかない、「切断」しかない。
 で、そういうときに、「肉体」が出てくる。男の場合。

ねぶるかぜにさわぐいんもう
(いんもうは無頼のあかしだって)
むすび萌える萌えるでじたるまみれに
血ぃまわせよ
(はろーっはろーっ)
ちぃさなおっぱいを隠してまで
ちへいせんに馳せるな
散る散る
本日のて、あしは
このにぎやかな背景に散らせ

 「肉体」といっても、男の場合は、悲しいねえ、「いんもう」くらいしか武器(?)がない。でも、そんなことば、そんな「肉体」をあらわすことばじゃ、だれも驚かない。「萌える萌える」と書いてみたって、「萌え」なんて、もう「肉体」の痕跡すらないのじゃないだろうか。
 でも、承知で書くんだろうなあ。それしかない。
 矛盾をそうやってひきずりながら、書きつづける、そのことばを鍛えつづける。その先に、詩はあらわれる。いま、ここにはなくても、この先に詩がある--そういう可能性を感じさせてくれる矛盾が金子のことばにはある。    



 木葉揺「レジもえ」もおもしろかった。

ショッピングモールを歩いていた
胸にぬるい痛みをおぼえ
振り向く

吹き抜けに響く高音
雑貨店で
女性店員がレジを打っている
ベージュの
プラスティックの

髪を直して歩き始める
でも振り返る
あのベージュ
エスカレーターに乗り
吹き抜けの光に包まれる

 ここにははっきりした「肉体」がある。「つながる・肉体」がある。女の「肉体」がある。
 「胸にぬるい痛みをおぼえ/振り向く」とき、もう「胸」は「胸」ではなく、腰になり肩になり、首筋になり、顔になり、ようするに身体そのものになり、ねじれながら「つながる」。「つながる」というのは、どこかに「ねじれ」がある。振り向く--この動きがねじれである。「胸」が腰から足へ、「胸」が肩から首、顔、眼へと「ねじれ」をもって拡大していく。そのときの木葉の「肉体」の拡大がかかえこむ「連続・接続」は、木葉の「肉体」を超越して、レジの女性につながってしまう。
 木葉は木葉自身の肉体とは別に、レジの女性という「外部の肉体」をもってしまう。木葉はレジの女性になってしまうのだ。
 対象を小馬鹿にする金子はけっして対象そのものにはならない。対象を「外部の肉体」とは感じない。むしろ、「内部のこころ」と感じる。だから、その「こころ」に「肉体」をくっつけて、無理やりにでもほうりだすために、「いんもう」だのなんだのという「肉体」を持ち出すのである。
 木葉は、金子とは逆。
 「外部の肉体」は離れれば離れるほど、せつなく(?)結びついてしまう。「プラスティック」さえも(髪止めのプラスティック--プラスティックの髪止めをした女性を私はふと思い浮かべたのだが)、もう「肉体」になっている。離れれば離れるほど、放してくれないものになっている。
 木葉は、その「連続・接続」を切り離したくてことばを書きつづける。そして矛盾に陥る。書くということはどんなに「切断」を書いても「接続」をもってしまうことだからである。その矛盾。--その矛盾の先に、やっぱり詩があらわれてくる。詩が待っている、と私は思う。


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