詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョージ・ロイ・ヒル監督「明日に向って撃て!」(★★★★)

2010-07-06 11:37:30 | 午前十時の映画祭

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス

 好きなシーンがいくつもあるが、いちばん好きなのはやっぱり自転車に乗るシーン。ポール・ニューマンがキャサリン・ロスをハンドルに座らせて自転車をこぐ。バート・バカラックの曲が流れる。西部劇からはるか遠く離れて、「いま」が突然あふれてくる。それを真っ正面からとらえるのではなく、木立や小屋(?)の板壁越しに撮る。隙間から、二人の楽しい様子が見え隠れする。それが光のようにまぶしく、美しい。
 映画は違うけれど、やはりキャサリン・ロスが出演した「卒業」でも、キリサリン・ロスとダスティン・ホフマンが大学を歩くとき、回廊の柱越しに二人が撮られている。柱の影が二人を邪魔する。その邪魔なものかげの向こう側に、二人がとぎれとぎれにあらわれる。
 この夾雑物を自然に取り入れながら、画面に奥行きと自然な感じを広げるという手法は、アメリカン・ニューシネマによって完全に「市民権」を得るようになったものだけれど、そのなかでも、「明日に向かって撃て!」の自転車のシーンがいい。
 ストーリーと無関係--というと言い過ぎだけれど、ストーリーを突き破って、ただ、そこに映像の輝きがある。音楽の美しさがある。まねしたくなるよねえ。「西部劇」であることを忘れて、「いま」としてまねしたくなる。だれかを自転車に乗せて、光あふれる自然のなかを走ってみたくなる。恋をしてみたくなる。いや、恋、というより、青春かなあ。
 白い綿の塊みたいなものがふわふわ飛んでくるなかを、二人が歩くシーンもいいなあ。このシーンなんかも、自然の美しさと、その自然のなかで触れ合うこころ、青春の一瞬の思い出を撮りたくて撮っているだけのシーンだねえ。「あのとき、綿のようなふわふわした花が飛んできて、きみは話をしながら、その花を手でつかまえていた」と思い出す。なんの話をしたかは忘れても、そのふわふわと飛ぶ白い花をつかまえるきみの手、その目の動きを覚えている……なんて、青春としかいいようがない。
 ボリビアでポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが追いかけられるとき、というか、二人をボリビアの警察(?)が追いかけるときの、しゃれた音楽もいいなあ。西部劇とは無縁の音楽だね。ここにも、「現実」というより「夢」が輝いている。
 そういういくつもの「青春の輝き」があるから、キャサリン・ロスが「ホームに帰る」というときのさびしい目、そしてクライマックスの銃撃戦が胸に迫ってくる。あ、「青春」がおわってしまう……。
 そして。
 また、思う。この映画のなかでポール・ニューマンは何度も「俺たちはもう若くない」という。この「若くない」という自覚も、ひとつの「青春」なんだなあ。アメリカン・ニューシネマが、「もう若くない」という「青春」を映画に持ち込んだのだ。--でも、それは何もかもが「青春」の時代だったなあ。「もう若くない」も「青春」の感慨だった。いま、青春のおわりを自覚する青春はあるんだろうか、とふと思った。この映画がつくられた時代、世界は「青春」だった、と--いま、思う。

                          (午前十時の映画祭、22本目)


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関口フサ「ミスター・アルファベット」、藤富保男「一筋縄」

2010-07-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
関口フサ「ミスター・アルファベット」、藤富保男「一筋縄」(「銀曜日」36、2010年07月04日発行)

 関口フサ「ミスター・アルファベット」は風変わりな詩である。B、D、Eと三つの部分から成り立っている。AとCがない。Aは、以前に発表されているのかもしれない。(私は記憶力が悪いので、覚えていない。)
 全部がおもしろいというわけではない。でもBはおもしろい。

入口が一つで
出口が無数にある
多角形の街に
男は万華鏡のように迷い込む
街角から街角
男は街のほころびを縫い合わせて行った

 「万華鏡」の「比喩」がおもしろい。「比喩」と書いたが、比喩を超越している。
 ここでは「万華鏡」は何も「比喩」していない。(比喩していない、というような日本語はないけれど、どう書いていいのか思いつかない。)
 何かの譬えではなく、ここでは「万華鏡」は「万華鏡」そのものであり、それ以外のことばが「比喩」なのだ。「入口」も「出口」も「男」も「迷い込む」さえもが「比喩」である。
 つまり。
 読んだ瞬間、万華鏡って、そうだよなあ。入口が一つだと思う。のぞき穴。それは一つ。そして、ちょっと万華鏡を動かすと、そのなかでは模様がつぎつぎにかわる。その模様の一つ一つが、「入口」から別の世界へと私を誘っていく。「出口」は、その動きのそれぞれのなかにある、と思えてくる。

 でも、こういう読み方では、この詩はおもしろくなくなってしまうね。

 万華鏡を描いたのではなく、あくまで、街を描いている。街に入り込んだ男を描いている。そして、街を描写しはじめたら、その描写が、ことばにのっとられて違ったものになってしまう。
 その運動のおもしろさ。
 何かの描写、写生なんておもしろくない。ことばで何かを説明して、わかるようにする、なんておもしろくない。
 ことばが勝手に動いていって、書こうとしていたものと違ったものを勝手に書いてしまう。その瞬間がおもしろいのだ。
 「多角形の街」が「万華鏡」になってしまって、その瞬間から、「街」とどこかに消えてしまう。「万華鏡」は比喩ではなく、現実を突き破って存在してしまう特権的な何かである。
 こういう特権的なことばの出現が、私は好きだ。



 藤富保男が「一筋縄」という「落書き」を描いている。ことばは、ない。右の方に男がいて、伸ばした手の先に「縄」がある。その「縄」は「一筆書き」のように渦をまきながら、男の「顔」らしいものをかたちづくっている。男が「縄」を引っ張れば、「顔」は消えてしまう。
 で、それがなぜ「一筋縄」?
 あ、そんなことは、どうでもいいんですね。
 「一筋縄」と「一筆書き」がどこかで組み合わさって、どっちがどっちをのっとってしまった(突き破ってしまった)のか、まあ、わからないけれど、そのわからないものがわからないまま、そこにある。
 わからない--というのは、しかし、不思議なもので、ほんとうに何もわからないかというとそうではなくて、何か、あ、これはあれかもしれないなあ、と意識の底をくすぐる。わかる、と一瞬錯覚させる。
 その「錯覚」--それが、たぶん、詩。
 「誤読」が詩、あるいは、「誤読」を誘う仕組みが、詩。

 で、(何が、で、なのさ、と私は自分でいってみるのだけれど)
 この「一筋縄」の「一筆書き」はとっても「意地悪」。実は、「一筋縄」の「一筆書き」に見せながら、違っている。「顔」の「目」だけが、「縄」から離れて独立している。「一筋縄ではないかない」作品になっているのだ。

 笑ってしまうね。
            (作品は、ワープロでは再現できないので、省略。)

藤富保男詩集全景
藤富 保男
沖積舎

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