萩原健次郎「スミレ論」(「組子」18、2010年05月20日発行)
萩原健次郎「スミレ論」はとてもわかりにくい詩である。
「主語」は何だろうか。「わたし」を補ってみようか。「わたし」は「菫論」を書くように「誘惑されている」。これは、なかなかおもしろい。スミレが人間に対して「論」を書けとそそのかしたりはしないけれど、そそのかされていると感じる。そういう気持ちになるほどスミレは魅力的である。いま、「わたし」はスミレに魅了されているのである。そして、スミレの花びらの色について何か書こうとするのだが、どうも色にたどりつけない。色の外側にまでしか接近できない。そういう状態を、スミレによって「放擲されている」と感じる。
スミレは「わたし」を一方で誘惑し、他方で「放擲する」。これは「矛盾」である。いつも詩は「矛盾」とともにある。ここから詩ははじまる。
そうわかっていても、私は、萩原の詩が好きになれない。
「されている」という形で「主語」を暗示する方法が、私には「特権的」に感じられるのである。ことばを書きながら、実は、ことばを書いていない。「書かされている」と、言い逃れている。しかも、その言い逃れが--言い逃れるということが、「特権的」である。被害者(書かされている)を装いながら、それは「選ばれている」と主張しているのである。詩人として選ばれて、いま、詩のことばを書いている。そういう「意識」が見え隠れする。
何かを書きたいと思う。その思うの「主語」は「わたし」であるが、それを「わたし」が思うのではなく、そう思い込むよう「誘われている」と「受け身」にする。自分から進んでいくのではなく、常に「受け止める」。
能動と受動。この違いは、「対象」と「わたし」の間の距離を不思議な形で動かす。
スミレ論を書く。スミレに向かう。そのとき、「わたし」と「スミレ」の距離は、「わたし」が自在にかえることができる。いや、論ができないかぎり「距離」に変化が生まれるわけではないが、少なくとも、その「距離」をかえようという意思によって「距離」をつかむことができる。
ところが「書かされる」(書くよう誘われる)となると、その「距離」は「わたし」からは把握できない。何か不確かな絶対として--不確かな絶対というのは言語矛盾だけれど--そこにある。そして、萩原は、その不確かであるということを利用して、ことばを動かす。動かすよう誘われていると「被害者」を装う。
詩のつづき。
なんのことか、かいもく見当がつかないが、そのなんのことかわからないことばのなかにある不確かさ。その象徴的なことばが「生かされているか、生きていくか、知らない」である。「赤色らしき」の「らしき」である。
萩原は「この世界に存在するのは、不確かな絶対だけである」と主張している。そして、その「不確かな絶対」によって、選ばれ、誘われ、だから、ことばを動かしている。いや、動かされていると言うのである。
そこでは、ことばは、しかし自在には動いていかない。
「放擲されている」のだから。「わたし=萩原」は。
別ないい方をしよう。
「わたし」と「対象」との距離、--つまりつながりが、途絶えている。つながりがない。そういう状態のあり方として「放心」というものがある。
「対象」と「つながり」がなくなり、ぼんやりと、ただ、「わたし」がそこにいる。けれど、「放心」というのは、実は、こころが「わたし」とつながっていなくて、「わたし」とはつながっていないけれど、他の存在、世界全部とつながった状態なのである。「わたし」は「無」になり、「わたし」が「無」になることで「世界」が「有」になる。そういう状態が「放心」。
池井昌樹の詩を想像してもらうとわかりやすい。
こういうとき池井は、「生かされているか、生きていくか、知らない」とは言わない。「生かされている」としか言わない。池井の「生かされている」も「受け身」だが、このとき、池井には実は「身」はない。いや、「身」はあるのだが、その「身」を「身」と感じる「心」がない。「心」は「身」を離れて、「世界」へ出て行ってしまっているからである。「身」を捨てて行ってしまっているからである。
このとき「不確かな絶対」というものは存在しない。
「心」は「絶対的な確かさ」として、「世界」そのものである。すべての存在そのものである。「放心」しているとき、池井は、たとえば一輪の花であり、そばに眠る妻であって、池井という「不確かな存在」は消滅している。「絶対的に確かな他者」が存在する。池井は「他者」として存在する。「他者」というのは「絶対的な確かさ」である。
「他者」、たとえばいま、そこにあるスミレ。それは「絶対的な他者」である。つまり「わたし」とは無縁の「いのち」を生きている。
それが「わたし」を誘う。「わたし」はそれに誘われる。それはそれでいいのだが、そのとき「わたし」という存在を明確に自覚し、それをことばにしていかないかぎり、「わたし」を消してしまうことはできない。「無(心)」にはなれない。「わたし」を隠してしまってことばを動かしても、不確かなことばが増えつづけるだけである。
そこから生まれるものはなんだろう。「雰囲気」というものかもしれない。萩原は「雰囲気」を書いている--という視点からとらえなおすべきなのかもしれない。
私は「雰囲気」というようなものは、めんどうくさくて向き合うことができない。
*
もう書くのをやめようと思った瞬間、別なことばが思い浮かんだので、書いておく。
「誘われている」「放擲されている」。こういう書き方、何かが「わたし」に働きかけてくる(働きかけている)という書き方は、実際に働きかけがなくても、それがあるかのように装うことができる。ポーズをとることができる。
一方、何かを書くというのも、まあ、ポースをとることはできるが、ポーズのままだと、なんだ、いっこうに書かないじゃないか、と批判されてしまう。
けれど、「書くように誘われている」の場合は、1行も書かなくても「誘われている」のだから、と言い逃れをすることができる。「わたしは書きたい」と言ったことはない。思ったことはない。ただ誰かに(詩の神様?に)、「書くように誘われている」。「選ばれるってつらい」と言ってしまえる。
あ、実際に、「選ばれた詩人」としての苦悩を、萩原は書きたいのかもしれないけれど。きっと、そうなのだろう。私は、とんちんかんなことを書いているのだろう。きょう読んだことは忘れてください。
萩原健次郎「スミレ論」はとてもわかりにくい詩である。
誘惑されている。菫論の方向に。その紫色か褐色か想像の外へと放擲されている。
「主語」は何だろうか。「わたし」を補ってみようか。「わたし」は「菫論」を書くように「誘惑されている」。これは、なかなかおもしろい。スミレが人間に対して「論」を書けとそそのかしたりはしないけれど、そそのかされていると感じる。そういう気持ちになるほどスミレは魅力的である。いま、「わたし」はスミレに魅了されているのである。そして、スミレの花びらの色について何か書こうとするのだが、どうも色にたどりつけない。色の外側にまでしか接近できない。そういう状態を、スミレによって「放擲されている」と感じる。
スミレは「わたし」を一方で誘惑し、他方で「放擲する」。これは「矛盾」である。いつも詩は「矛盾」とともにある。ここから詩ははじまる。
そうわかっていても、私は、萩原の詩が好きになれない。
「されている」という形で「主語」を暗示する方法が、私には「特権的」に感じられるのである。ことばを書きながら、実は、ことばを書いていない。「書かされている」と、言い逃れている。しかも、その言い逃れが--言い逃れるということが、「特権的」である。被害者(書かされている)を装いながら、それは「選ばれている」と主張しているのである。詩人として選ばれて、いま、詩のことばを書いている。そういう「意識」が見え隠れする。
何かを書きたいと思う。その思うの「主語」は「わたし」であるが、それを「わたし」が思うのではなく、そう思い込むよう「誘われている」と「受け身」にする。自分から進んでいくのではなく、常に「受け止める」。
能動と受動。この違いは、「対象」と「わたし」の間の距離を不思議な形で動かす。
スミレ論を書く。スミレに向かう。そのとき、「わたし」と「スミレ」の距離は、「わたし」が自在にかえることができる。いや、論ができないかぎり「距離」に変化が生まれるわけではないが、少なくとも、その「距離」をかえようという意思によって「距離」をつかむことができる。
ところが「書かされる」(書くよう誘われる)となると、その「距離」は「わたし」からは把握できない。何か不確かな絶対として--不確かな絶対というのは言語矛盾だけれど--そこにある。そして、萩原は、その不確かであるということを利用して、ことばを動かす。動かすよう誘われていると「被害者」を装う。
詩のつづき。
勝負なのだろう。生かされているか、生きていくか、知らない誘う目の、赤色らしき、緩い光線の外側へ。
なんのことか、かいもく見当がつかないが、そのなんのことかわからないことばのなかにある不確かさ。その象徴的なことばが「生かされているか、生きていくか、知らない」である。「赤色らしき」の「らしき」である。
萩原は「この世界に存在するのは、不確かな絶対だけである」と主張している。そして、その「不確かな絶対」によって、選ばれ、誘われ、だから、ことばを動かしている。いや、動かされていると言うのである。
そこでは、ことばは、しかし自在には動いていかない。
「放擲されている」のだから。「わたし=萩原」は。
別ないい方をしよう。
「わたし」と「対象」との距離、--つまりつながりが、途絶えている。つながりがない。そういう状態のあり方として「放心」というものがある。
「対象」と「つながり」がなくなり、ぼんやりと、ただ、「わたし」がそこにいる。けれど、「放心」というのは、実は、こころが「わたし」とつながっていなくて、「わたし」とはつながっていないけれど、他の存在、世界全部とつながった状態なのである。「わたし」は「無」になり、「わたし」が「無」になることで「世界」が「有」になる。そういう状態が「放心」。
池井昌樹の詩を想像してもらうとわかりやすい。
こういうとき池井は、「生かされているか、生きていくか、知らない」とは言わない。「生かされている」としか言わない。池井の「生かされている」も「受け身」だが、このとき、池井には実は「身」はない。いや、「身」はあるのだが、その「身」を「身」と感じる「心」がない。「心」は「身」を離れて、「世界」へ出て行ってしまっているからである。「身」を捨てて行ってしまっているからである。
このとき「不確かな絶対」というものは存在しない。
「心」は「絶対的な確かさ」として、「世界」そのものである。すべての存在そのものである。「放心」しているとき、池井は、たとえば一輪の花であり、そばに眠る妻であって、池井という「不確かな存在」は消滅している。「絶対的に確かな他者」が存在する。池井は「他者」として存在する。「他者」というのは「絶対的な確かさ」である。
「他者」、たとえばいま、そこにあるスミレ。それは「絶対的な他者」である。つまり「わたし」とは無縁の「いのち」を生きている。
それが「わたし」を誘う。「わたし」はそれに誘われる。それはそれでいいのだが、そのとき「わたし」という存在を明確に自覚し、それをことばにしていかないかぎり、「わたし」を消してしまうことはできない。「無(心)」にはなれない。「わたし」を隠してしまってことばを動かしても、不確かなことばが増えつづけるだけである。
そこから生まれるものはなんだろう。「雰囲気」というものかもしれない。萩原は「雰囲気」を書いている--という視点からとらえなおすべきなのかもしれない。
私は「雰囲気」というようなものは、めんどうくさくて向き合うことができない。
*
もう書くのをやめようと思った瞬間、別なことばが思い浮かんだので、書いておく。
「誘われている」「放擲されている」。こういう書き方、何かが「わたし」に働きかけてくる(働きかけている)という書き方は、実際に働きかけがなくても、それがあるかのように装うことができる。ポーズをとることができる。
一方、何かを書くというのも、まあ、ポースをとることはできるが、ポーズのままだと、なんだ、いっこうに書かないじゃないか、と批判されてしまう。
けれど、「書くように誘われている」の場合は、1行も書かなくても「誘われている」のだから、と言い逃れをすることができる。「わたしは書きたい」と言ったことはない。思ったことはない。ただ誰かに(詩の神様?に)、「書くように誘われている」。「選ばれるってつらい」と言ってしまえる。
あ、実際に、「選ばれた詩人」としての苦悩を、萩原は書きたいのかもしれないけれど。きっと、そうなのだろう。私は、とんちんかんなことを書いているのだろう。きょう読んだことは忘れてください。
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