すみくらまりこ『光織る女(ひと)』(竹林館、2010年05月20日発行)
すみくらまりこ『光織る女(ひと)』は、詩をことばの運動ではなく、ことばの「かたち」と考えているように見える。「女」と書いて「ひと」と読ませる。すでに存在することばを、ちょっと違う角度から眺めてみて、その「かたち」をとらえる。そういうことをくりかえしている。
これも詩のひとつなのではあるのだろうけれど、安直である。
私は「かたち」ではなく、その「かたち」を見るために動くことばが読みたい。どんなふうにことばが動けば「女」は「おんな」ではなく「ひと」になるのか。そのことを、ことばで追うのが「文学」だと思う。
「女」を「ひと」と読むか、「むすめ」と読むか、「にんげん」と読むか。そういうことは、「ルビ」の問題ではなく、ことばの運動、意識の運動でなければならない。「ルビ」ですませるなら、何だってできる。「女」と書いて「ガラス」と読ませたり、「ねこ」と読ませたり、「うそ」と読ませたり、「にく」と読ませることもできる。
そういう飛躍すら、この詩集にはない。とても安直である。
一篇5行という「制約」を設定してことばを動かしているが、この「定型」も短歌ほどの蓄積がない。ことばを5行にするために(定型にするために)、ことばをたわめる。たわめられたものが、その抑制を突き破ろうと動くときの、自律的なおもしろさもない。安直な「ルビ」同様、ここでは、「頭脳」が安直に動いている。
繊細な感覚、それを受け入れる数少ないことば……というものをすみくらは思い描いているのだと思うけれど、どうも「頭」で考えた「繊細な感覚」にしか、私には感じられない。
「沙羅」という作品。
花は散るために咲いてくる--という「逆説」的な視点。そこには「女」に「ひと」とルビを打つような、安直な飛躍がある。
なぜ、「沙羅」なのか。なぜ「バラ」や「ボタン」、あるいは「桜」ではなく、「沙羅」なのか。
そのことが咲いてくるために散る、土にかえるために咲くという花のいのちの運動のなかに個別の問題として組み込まれないかぎり、それは詩にはならない。
短歌や俳句の方が、はるかに、ことばそのものを運動としてとらえている。
すみくらまりこ『光織る女(ひと)』は、詩をことばの運動ではなく、ことばの「かたち」と考えているように見える。「女」と書いて「ひと」と読ませる。すでに存在することばを、ちょっと違う角度から眺めてみて、その「かたち」をとらえる。そういうことをくりかえしている。
これも詩のひとつなのではあるのだろうけれど、安直である。
私は「かたち」ではなく、その「かたち」を見るために動くことばが読みたい。どんなふうにことばが動けば「女」は「おんな」ではなく「ひと」になるのか。そのことを、ことばで追うのが「文学」だと思う。
「女」を「ひと」と読むか、「むすめ」と読むか、「にんげん」と読むか。そういうことは、「ルビ」の問題ではなく、ことばの運動、意識の運動でなければならない。「ルビ」ですませるなら、何だってできる。「女」と書いて「ガラス」と読ませたり、「ねこ」と読ませたり、「うそ」と読ませたり、「にく」と読ませることもできる。
そういう飛躍すら、この詩集にはない。とても安直である。
一篇5行という「制約」を設定してことばを動かしているが、この「定型」も短歌ほどの蓄積がない。ことばを5行にするために(定型にするために)、ことばをたわめる。たわめられたものが、その抑制を突き破ろうと動くときの、自律的なおもしろさもない。安直な「ルビ」同様、ここでは、「頭脳」が安直に動いている。
繊細な感覚、それを受け入れる数少ないことば……というものをすみくらは思い描いているのだと思うけれど、どうも「頭」で考えた「繊細な感覚」にしか、私には感じられない。
「沙羅」という作品。
そんなに
土が恋しいか。
おまへは
散るために
咲いてくる。
花は散るために咲いてくる--という「逆説」的な視点。そこには「女」に「ひと」とルビを打つような、安直な飛躍がある。
なぜ、「沙羅」なのか。なぜ「バラ」や「ボタン」、あるいは「桜」ではなく、「沙羅」なのか。
そのことが咲いてくるために散る、土にかえるために咲くという花のいのちの運動のなかに個別の問題として組み込まれないかぎり、それは詩にはならない。
短歌や俳句の方が、はるかに、ことばそのものを運動としてとらえている。
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