川口晴美「春暁」(「something 」11、2010年07月01日発行)
きのう読んだ八木幹夫の詩は夢と目覚めを書いていた。そこには「無限のいま」があった。川口晴美「春暁」も夢と目覚めを書いているが、そこにある時間は何だろう。
「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」の「わからないうちに」に私はひきつけられた。「わからない」という「時間」の「うちに」。そこに「時間」を補うことができる。ここにはたしかに「時間」が書かれているのだ。「一瞬」ということばさえ入り込めないとても短い「時間」が。あるいは、書くことのできない「時間」が。
この書くことのできない「時間」--それはいったいなんだったのか。どうやれば、「時間」を押し広げ、その「内部」へ入っていけるのか。
川口は、それをむりやりことばで押し広げはじめる。
不思議なくらい「間延び」している。前半のことばの動き、ことばとことばの距離のなさに比べると、ここには不思議な「空間」の広さがある。「わたし」と対象との「距離」がある。
そして、川口は意識して書いているのか、それとも無意識に書いてしまったのかわからないけれど、その「距離」が「触れる」と「ぶれ(る)」の違いとして浮かび上がってくる。
前半に書かれていた「色」と「もの」に「わたし」は「ふれる」ことができなかった。一方、いま、街を歩いている「わたし」の足先は、濡れた道に、その光に触れながら、なにかが「ぶれ」ている。触れているのに、その触れていることが実感できず、それが「ぶれ」として広がっている。
この「実感」の欠如というか、稀薄さが、ことば全体の「間延び」の印象の底にある。
しかし、「間延び」しているけれど、それはつながっている。
この「間延び」と「つながっている」を繋いでいるのが、「わからない」である。「わからない」という感覚である。
「歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう/こいびとはなにも言わない」という行間には「わからない」ということばが見えない形で存在している。書かれていないけれど、存在している。
「わからない」ということが、川口の「時間」が拡散するのをつないでいる。「間延び」しながらも、そこでは「時間」が何かに引き止められている。「わからない」という何かに。
そして、この「わからない」が後半、おもしろいかたちで復活してくる。
「運河だとわかっていたのに」の「わかっていた」。そして、その「わかっていた」を「わたし」は裏切る。「運河だとわかっていたのに」「うみ/と呟いた」。
「わからないもの」は裏切ることができない。そして、そこには「隙間」がない。「わからないうちに」は「わからない時間のうちに」と言い換えるほどの「時間」の余裕がないし、「歪んでいくのだけれどどこまで行けばいいのだろう」か「わからない」ことは、「わからない」という「時間」さえない。「わからない」とさえ、意識化できない。いや、意識はしているのだが、その意識は肉体にあまりにぴったりとはりついているで、ことばにならない。
「わかっている」ことは、そういうこととは違って、「わたし」と切り離すことができる。「と呟いた運河だとわかっていたのに」とその1行は空きもなく、密着して書かれている。ほんとうなら(学校文法なら?)「うみ と呟いた/運河だとわかっていたのに」だけれど、これを川口は「うみ/と呟いた運河だとわかっていたのに」と意識的にことばの位置をずらしている。ことばの「ぶれ」をつくりだして、強引に「間」を消している。
「わからない」と「わかっている」が、川口の詩では、不思議な「時間」をつくりだしているのである。
強引に書いてしまえば、八木が「無限のいま」という「時間」を書いたのに対して、川口は、「無限ではない」いま、「無限」の対極にある「時間」を描いている。八木の時間は、無限へ向けて放心していく。川口の時間は、「無限」の反対、「ゼロ」(意識の焦点?)へ向けて求心していく。
「求心」なんてことばがあるかどうか知らないが、ようするに、広がるではなく「凝縮」していく。ブラックホールになっていく。
八木のことば、意識が、「あなた」「鳥」「石」が「未分化」な状態を「幸福」としてもっていて、それを「なつかしく」思い、またそれを「永遠」とも感じるのに対して、川口の「未分化」は様相が違っている。川口にとって、いろいろな「色」や「もの」「こいびと」が「未分化」な状態というのはない。それは、最初から「分化」(分節化)している。
あ、うまく書けない。
視点を換えよう。
川口にとって「未分化」は「存在」ではない。存在が「未分化」の状態というものを川口は想定していない。川口のことば、意識は存在の「未分化」という状態を、存在の根源的なありかた、いのちの原型とは考えていない。
川口にとって「未分化」「分化」は、川口自身の内部の問題なのだ。
「ほんとうに欲しかった」。欲望。川口の感情。そこへ向けての「求心」。
八木は、変ないいかたかも知れないが、「心」を求めていない。それが「放心」ということでもある。「心」を放してしまう。自分のものではなくしてしまう。そうすると、そこに「無限」という幸福があらわれ、「いま」という時間となって輝く。
川口は違う。「心」を自分の中で消滅させる--というか、「点」ですらない一点にしてしまって、「存在」と向き合う。--「心を無にする」、「無心」とは違って、あくまで、「心」はあるのだが、その「心」の「領域」(ひろがり)が限りなく「点」に近い。そういう状態になったとき、存在が「あたらしい」ものになってあらわれてくる。
目覚め、朝、とは川口にはそういうものであって「ほしい」ということなのだと思う。
*
もう一度、視点をかえよう。言いなおそう。
「無心」ということでいえば、たぶん八木の「放心」の方が「無心」なのである。八木は、八木の「肉体」のなかから「心」を放り出し、いま、彼の肉体のなかには「心」は「無い」。それが「無限のいま」。そこから、あらゆる「分化」(分節化)がはじまる。
川口は、「心」が「分化(分節化)」した結果、世界が複雑になっていると考える。「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」とは、「心」が完全に「分化(分節化)」しないうちに、ということであり、「心」が「分化(分節化)」すれば何もかもが明瞭になるのだけれど--だけれど、そういう「分化(分節化)」を一方で川口は望んではいない。--これは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。
川口は「心」(意識)というものは「分化(分節化)」していくもの、そうすることで世界をとらえるものと「知っている」。そして、それを否定すること、「分化(分節化)」を限りなく「ゼロ」に近づけることで、「あたらしい」世界と向き合おうとする。
この1行に書かれた「あたらしい」には、とても重要な意味がある。川口は「あたらしい」と書かずにはいられないのだ。
「あたらしい」世界は、「あたらしい」川口の「心」とともにある。川口の「肉体」のなかにあるものが「あたらしい」もの、「ゼロ」に近いものになったとき、世界は「あたらしい」。
きのう読んだ八木幹夫の詩は夢と目覚めを書いていた。そこには「無限のいま」があった。川口晴美「春暁」も夢と目覚めを書いているが、そこにある時間は何だろう。
ぬるい雨の残る街の
坂の途中にある雑貨店は春のセール
パールピンクやフレッシュグリーンやベビーブルーの
カップ&ソーサーもメモリクリップもピルケースも
手に取ろうとするとあかるい雲みたいにやわらかく溶けていく
ほんとうに欲しかったのかわからないうちに
触れることなく置き去りにされたわたしは指先から冷えて
これは夢なのだから仕方ない
「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」の「わからないうちに」に私はひきつけられた。「わからない」という「時間」の「うちに」。そこに「時間」を補うことができる。ここにはたしかに「時間」が書かれているのだ。「一瞬」ということばさえ入り込めないとても短い「時間」が。あるいは、書くことのできない「時間」が。
この書くことのできない「時間」--それはいったいなんだったのか。どうやれば、「時間」を押し広げ、その「内部」へ入っていけるのか。
川口は、それをむりやりことばで押し広げはじめる。
これは夢なのだから仕方ない
あたたかい毛布をたぐり寄せればいい
おもいながら佇んでいる耳元へ
会いましょう、という声がひびいた
そうだ会えばいい
夢なのだから
スカイグレイの石畳をこいびとと連れ立って
下ばかり見て歩いた
濡れたように光るみちにわたしの足先はぶれ
歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう
こいびとはなにも言わない
不思議なくらい「間延び」している。前半のことばの動き、ことばとことばの距離のなさに比べると、ここには不思議な「空間」の広さがある。「わたし」と対象との「距離」がある。
そして、川口は意識して書いているのか、それとも無意識に書いてしまったのかわからないけれど、その「距離」が「触れる」と「ぶれ(る)」の違いとして浮かび上がってくる。
前半に書かれていた「色」と「もの」に「わたし」は「ふれる」ことができなかった。一方、いま、街を歩いている「わたし」の足先は、濡れた道に、その光に触れながら、なにかが「ぶれ」ている。触れているのに、その触れていることが実感できず、それが「ぶれ」として広がっている。
この「実感」の欠如というか、稀薄さが、ことば全体の「間延び」の印象の底にある。
しかし、「間延び」しているけれど、それはつながっている。
この「間延び」と「つながっている」を繋いでいるのが、「わからない」である。「わからない」という感覚である。
「歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう/こいびとはなにも言わない」という行間には「わからない」ということばが見えない形で存在している。書かれていないけれど、存在している。
歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう
わからない
こいびとはなにも言わない
「わからない」ということが、川口の「時間」が拡散するのをつないでいる。「間延び」しながらも、そこでは「時間」が何かに引き止められている。「わからない」という何かに。
そして、この「わからない」が後半、おもしろいかたちで復活してくる。
こいびとはなにも言わない
わたしはたぶんその人を知らない
夢だから
さみしい街の
路地がふいにひらかれて
運河があらわれた
あわく濁った水の流れる運河の前にわたしは立ちどまり
うみ
と呟いた運河だとわかっていたのに
ひこいびとは立ちどまらずに行ってしまった
きっと最初からいなかったのだ夢だから
それはもういい
わたしを流れるあたらしい水のかたちのない冷たさに
目がさめる
3月の朝
「運河だとわかっていたのに」の「わかっていた」。そして、その「わかっていた」を「わたし」は裏切る。「運河だとわかっていたのに」「うみ/と呟いた」。
「わからないもの」は裏切ることができない。そして、そこには「隙間」がない。「わからないうちに」は「わからない時間のうちに」と言い換えるほどの「時間」の余裕がないし、「歪んでいくのだけれどどこまで行けばいいのだろう」か「わからない」ことは、「わからない」という「時間」さえない。「わからない」とさえ、意識化できない。いや、意識はしているのだが、その意識は肉体にあまりにぴったりとはりついているで、ことばにならない。
「わかっている」ことは、そういうこととは違って、「わたし」と切り離すことができる。「と呟いた運河だとわかっていたのに」とその1行は空きもなく、密着して書かれている。ほんとうなら(学校文法なら?)「うみ と呟いた/運河だとわかっていたのに」だけれど、これを川口は「うみ/と呟いた運河だとわかっていたのに」と意識的にことばの位置をずらしている。ことばの「ぶれ」をつくりだして、強引に「間」を消している。
「わからない」と「わかっている」が、川口の詩では、不思議な「時間」をつくりだしているのである。
強引に書いてしまえば、八木が「無限のいま」という「時間」を書いたのに対して、川口は、「無限ではない」いま、「無限」の対極にある「時間」を描いている。八木の時間は、無限へ向けて放心していく。川口の時間は、「無限」の反対、「ゼロ」(意識の焦点?)へ向けて求心していく。
「求心」なんてことばがあるかどうか知らないが、ようするに、広がるではなく「凝縮」していく。ブラックホールになっていく。
八木のことば、意識が、「あなた」「鳥」「石」が「未分化」な状態を「幸福」としてもっていて、それを「なつかしく」思い、またそれを「永遠」とも感じるのに対して、川口の「未分化」は様相が違っている。川口にとって、いろいろな「色」や「もの」「こいびと」が「未分化」な状態というのはない。それは、最初から「分化」(分節化)している。
あ、うまく書けない。
視点を換えよう。
川口にとって「未分化」は「存在」ではない。存在が「未分化」の状態というものを川口は想定していない。川口のことば、意識は存在の「未分化」という状態を、存在の根源的なありかた、いのちの原型とは考えていない。
川口にとって「未分化」「分化」は、川口自身の内部の問題なのだ。
ほんとうに欲しかったのかわからないうちに
「ほんとうに欲しかった」。欲望。川口の感情。そこへ向けての「求心」。
八木は、変ないいかたかも知れないが、「心」を求めていない。それが「放心」ということでもある。「心」を放してしまう。自分のものではなくしてしまう。そうすると、そこに「無限」という幸福があらわれ、「いま」という時間となって輝く。
川口は違う。「心」を自分の中で消滅させる--というか、「点」ですらない一点にしてしまって、「存在」と向き合う。--「心を無にする」、「無心」とは違って、あくまで、「心」はあるのだが、その「心」の「領域」(ひろがり)が限りなく「点」に近い。そういう状態になったとき、存在が「あたらしい」ものになってあらわれてくる。
目覚め、朝、とは川口にはそういうものであって「ほしい」ということなのだと思う。
*
もう一度、視点をかえよう。言いなおそう。
「無心」ということでいえば、たぶん八木の「放心」の方が「無心」なのである。八木は、八木の「肉体」のなかから「心」を放り出し、いま、彼の肉体のなかには「心」は「無い」。それが「無限のいま」。そこから、あらゆる「分化」(分節化)がはじまる。
川口は、「心」が「分化(分節化)」した結果、世界が複雑になっていると考える。「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」とは、「心」が完全に「分化(分節化)」しないうちに、ということであり、「心」が「分化(分節化)」すれば何もかもが明瞭になるのだけれど--だけれど、そういう「分化(分節化)」を一方で川口は望んではいない。--これは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。
川口は「心」(意識)というものは「分化(分節化)」していくもの、そうすることで世界をとらえるものと「知っている」。そして、それを否定すること、「分化(分節化)」を限りなく「ゼロ」に近づけることで、「あたらしい」世界と向き合おうとする。
わたしを流れるあたらしい水のかたちのない冷たさに
この1行に書かれた「あたらしい」には、とても重要な意味がある。川口は「あたらしい」と書かずにはいられないのだ。
「あたらしい」世界は、「あたらしい」川口の「心」とともにある。川口の「肉体」のなかにあるものが「あたらしい」もの、「ゼロ」に近いものになったとき、世界は「あたらしい」。
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