監督 米林宏昌 出演(声)志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、竹下景子、三浦友和、樹木希林
風景・背景がとても美しい。主人公の少年が登場するときの風景、その光の変化が、実際の風景を上回って美しい。この緑、この光のまっすぐさ、--あ、見たことがある。と記憶が泣き叫ぶ。
そして、映画を見ている内に、この映画に問題があるとすれば、この美しさだな、と思った。手間隙かけて、丁寧に描かれた絵だけがもつ、純粋な美しさ。それが問題なのは、そういう「美しさ」を追求するとき、「汚れ」が排除されるからである。
汚れていても、その汚れが、美しさをめざしたための汚れであるなら、それは美しいのに--たとえば、「長江哀歌」の壁の汚れ。食堂(?)壁に水平に汚れがある。それはその壁にくっつける形でおかれたテーブルを毎日雑巾できれいに拭きつづけたから。そのとき、雑巾がテーブルといっしょに壁をこすってしまって、そのくりかえしがくすんだ汚れになっているのだ。それは「美しさ」を実践したことによって生まれた「汚れ」である。
そういう「汚れ」が、「汚れ」でしかあらわせない「美しさ」がない。
いや、かろうじて、途中からあらわれる小人の少年の、たくましい「汚れ」はそれにつながるけれど、少女一家には、その「汚れ」がなく、最初に描かれる風景と同じ美しさなのだ。清らかなものだけで、できている。
だから、何か、物足りない。
釣り針をつかった上り下りの道具や、糸巻エレベーターなど、おもしいシーンもあるのだが、それらに「手垢」の美しさがない。それは「暮らし」であるはずなのに、暮らしの実感がない。手触りがない。
人間描写もおなじである。
自然(草木や花々)と同じように、それは弱くて、異変に立ち向かって生きることができない。「汚れ」(汚いもの、悪)から、逃れて、「悪」がないところで生きることしかできない。そういう設定である。これでは「生きる」おもしろさが成り立たない。
「線」が細すぎる。
樹木希林おばあさんが唯一の「悪人」だが、その「汚れ」がどこから来ているのかわからない。「過去」がわからない。実写なら、役者の「肉体」が「過去」をひきずっているからおもしろくなるかもしれないが、アニメでは「肉体」がない。アニメの登場事物は「肉体の過去」をもたない。そういう「人間」をどう造形していくか。そういう部分が、この映画には欠落しているように思える。
宮崎駿なら、登場人物ひとりひとりを声にあわせて造形するのだろうけれど、米林宏昌はそこまで配慮できなかったのかもしれない。声優のもっている「いやらしさ(過去)」が「個性」として浮かび上がってくる絵なら、たぶんこの映画はもっとおもしろくなったと思う。