詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米林宏昌監督「借りぐらしのアリエッティ」(★★★)

2010-07-29 21:59:32 | 映画


監督 米林宏昌 出演(声)志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、竹下景子、三浦友和、樹木希林

 風景・背景がとても美しい。主人公の少年が登場するときの風景、その光の変化が、実際の風景を上回って美しい。この緑、この光のまっすぐさ、--あ、見たことがある。と記憶が泣き叫ぶ。
 そして、映画を見ている内に、この映画に問題があるとすれば、この美しさだな、と思った。手間隙かけて、丁寧に描かれた絵だけがもつ、純粋な美しさ。それが問題なのは、そういう「美しさ」を追求するとき、「汚れ」が排除されるからである。
 汚れていても、その汚れが、美しさをめざしたための汚れであるなら、それは美しいのに--たとえば、「長江哀歌」の壁の汚れ。食堂(?)壁に水平に汚れがある。それはその壁にくっつける形でおかれたテーブルを毎日雑巾できれいに拭きつづけたから。そのとき、雑巾がテーブルといっしょに壁をこすってしまって、そのくりかえしがくすんだ汚れになっているのだ。それは「美しさ」を実践したことによって生まれた「汚れ」である。
 そういう「汚れ」が、「汚れ」でしかあらわせない「美しさ」がない。
 いや、かろうじて、途中からあらわれる小人の少年の、たくましい「汚れ」はそれにつながるけれど、少女一家には、その「汚れ」がなく、最初に描かれる風景と同じ美しさなのだ。清らかなものだけで、できている。
 だから、何か、物足りない。
 釣り針をつかった上り下りの道具や、糸巻エレベーターなど、おもしいシーンもあるのだが、それらに「手垢」の美しさがない。それは「暮らし」であるはずなのに、暮らしの実感がない。手触りがない。
 人間描写もおなじである。 
 自然(草木や花々)と同じように、それは弱くて、異変に立ち向かって生きることができない。「汚れ」(汚いもの、悪)から、逃れて、「悪」がないところで生きることしかできない。そういう設定である。これでは「生きる」おもしろさが成り立たない。
 「線」が細すぎる。
 樹木希林おばあさんが唯一の「悪人」だが、その「汚れ」がどこから来ているのかわからない。「過去」がわからない。実写なら、役者の「肉体」が「過去」をひきずっているからおもしろくなるかもしれないが、アニメでは「肉体」がない。アニメの登場事物は「肉体の過去」をもたない。そういう「人間」をどう造形していくか。そういう部分が、この映画には欠落しているように思える。
 宮崎駿なら、登場人物ひとりひとりを声にあわせて造形するのだろうけれど、米林宏昌はそこまで配慮できなかったのかもしれない。声優のもっている「いやらしさ(過去)」が「個性」として浮かび上がってくる絵なら、たぶんこの映画はもっとおもしろくなったと思う。

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小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』

2010-07-29 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『わたしたちはまだ、その場所を知らない』(河出書房新社、2010年06月30日発行)

 詩についての思いめぐらし。それを学校を舞台に描いている。すこし小池の思い入れが強すぎるかもしれない。文月悠光のようなひともいるから、この小説に出てくるミナコのような少女も実際にいるかもしれないが、そう考えるよりも、小池が中学生に自分の思いを代弁させていると読んだ方がいいかもしれない。

「自分って、そんな、身のつまった袋なのかな。日本語のほうが、自分よりも大きいよ。わたしはそう思っている。その大きな日本語のなかから、ぴったりの言葉を選び出すんだ。書くって、だから、その袋のなかから言葉を選ぶことなんだよ。あれでもない、これでもないって、考えるの。ずーっと考えるの。やり続けるの。そうすると、ぽこっと出てくることがあるよ。私の場合は」

 そういう思いがあるからこそ、小池は詩というスタイルにこだわらず、ただ日本語をまさぐりながらことばを書く。それはあるときはエッセイになり、あるときは小説になるということだろう。
 こういう自在なことばの運動というのは、私は気に入っている。
 ただ、詩に関する思いめぐらしは、中学生を主人公にすることで、ちょっと議論を避けているような雰囲気もある。

「比喩って、詩の技術でしょ。技術ってさ、本質じゃないよね。おまけみたいなものじゃないの? あるいはサービスかな。詩の要は、比喩なんかじゃないよ。と、わたし思うよ。ニシムラくんの詩は、そういえば、比喩がないね」
「あ、おれ、そうだ。比喩って書かねえなー。書けないんだよ」
「なんでなの」
「そういう余裕がないんだよ」

 ここで語られる「比喩」と「余裕」の問題は、詩の「本質」をついていると思う。ただ、ミナコとニシムラの対話の形で詩の本質に迫るという方法は、「対話」の形ではあっても、閉ざされている。プラトンの対話篇を持ち出してしまってはいけないのかもしれないけれど、対話というのはたとえそれが対話であっても、ふたりで結論を出してしまってはいけないのだと思う。
 もちろん、それがわかっていて、それでもなおかつ、ここに書かれていることをことばにしておきたかった、というとこだろうとは思うのだけれど……。

 そういう詩に関することばよりも、私は、次のような部分に詩そのものを感じる。

ミナコはふいに足の裏に意識が移って、そのあたりがすうっとさびしくなった。さびしいとは、心ばかりが感じるわけじゃない。人間は、足の裏とか襟足で感じることもある。そんな気がして、自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。

 「足の裏」だけではなく「襟足」を登場させたことは失敗だと思う。(ことばが散漫になる。意識が散漫になる。「日本語」を探しすぎている、と思う。)ただし、「自分の足の裏が感じたことを、覚えておこうとミナコは思った。」はとてもいい。
 ことばは、自分が感じたことを覚えておくためにある。
 そのために書く。
 この「肉体」が「感じたこと」、たったひとりの「肉体」を通り抜けた何かをことばにする、そして記憶する--そこにこそ、私は詩があると思う。
 もっと、そういう部分をたくさん書いてほしかったと思う。






わたしたちはまだ、その場所を知らない
小池 昌代
河出書房新社

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