監督 ローラン・ティラール 出演 ロマン・デュリス、リュディヴィーヌ・サニエ、ファブリス・ルキーニ、ラウラ・モランテ
タイトルバックが奇妙である。布地? 意味もなく延々と違った種類の模様、やわらかなカーブが映し出される。最初は「これ、何?」としか思えない。そして、映画を見ている途中、そのことを忘れてしまっている。ところが、見終わった瞬間、
あ、そうか。
この映画はモリエールを描いている。その出発点の恋の喜劇を描いている--というのは、実は、みせかけだね。
この監督は、モリエールを描くというより、モリエールが誕生してきたフランスの時代の変化を描きたかったのである。
歴史にうといので、私の書くことはいいかげんな推測なのだが……。
モリエールの生きていた17世紀なかごろ。貴族が没落し、商人が台頭してきた。「権力」がゆらいでいる時代である。この映画のなかにも、貴族よりもはるかに金持ちの貿易商人が出てくる。それは新しい「権力」である。「金」が「権力」である。貧乏貴族は「名前」を利用して商人の「金」という権力に近づき、商人は「名前」という権力がほしくて貴族に近づく。
タイトルバックの布は絹織物なのだろう。そしてそれは貿易商人があつかっているものなのだろう。その貿易によって彼は莫大な金を手に入れ、ほとんど貴族のような生活をしている。貴族のまねをしている。音楽も、ダンスも、絵画も、馬術も、猟も、金の力で貴族そっくりに(貴族以上に)、「形」として手に入れている。
手に入らないのは、貴族の女、その女との「恋」だけである。サロンでわがまま放題を言ってのける傲慢な女の「こころ」だけが手に入らない。あ、肉体はもちろん手に入らないけれど……。
一方に、貴族の「傲慢な恋」、ひとをひととはみなさない「傲慢な恋」があり、そんな女に胸を焦がす中年男の「愚かな恋」があり、他方に「商人の娘」に代表される素朴な恋がある。「恋」もまた、貴族から商人への時代の変化にあわせて、揺れ動いている。
そして、そういういくつもの「恋」の時代にあって、娘の素朴な愛(乙女の純情)を見守る母には思いもかけなかった「恋のときめき」がやってくる。「純情」がやってくる。夫への愛などとっくにさめてしまっていて、ひたすら「恋の激情」を夢見ている女の前に、若い男--モリエールがあらわれる。新しい才能があらわれる。
母親がモリエールに恋するのは、彼が若い男であるからという理由ではない。モリエールが新しい才能を持っているからである。新しいことば。新しい笑い。時代を突き破って動いていく新しい力。
古いものに新しいものがとってかわる--その激変の時代の象徴がモリエールなのだ。
あ、でも、これは、とてもわかりにくいねえ。映画になっていないねえ。いや、私が歴史にうといから、細部にはりめぐらした「事実」をつかみそこねていて、映画になっていないと思うだけなのかもしれないけれど。
何がいけないのか。
貴族も商人も、紋切り型の「うす汚れたフランス男」、女の方も見栄えがしない。--と書くと、私のフランス嫌いが露骨に出てしまうけれど。簡単に言えば、美男・美女が登場しない。モリエールにしろ、ぜんぜん魅力的じゃない。主役は「人間」じゃなくて、「時代」そのもの、だから人間はどうでもいい、ということなのかもしれないけれど、私はやっぱり人間をみたい。
モリエールになりたい、と思わせる男でないとねえ。
歴史の勉強、あるいはモリエールの歴史的意義づけなんて、そんなことは「教科書」でやってくださいね。
なんだか「恋愛ごっこ」以下の、「お勉強ごっこ」という気持ちにさせられる映画でした。
