詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリストファー・ノーラン監督「インセプション」(★★)

2010-07-27 12:52:14 | 映画
監督 クリストファー・ノーラン 出演 レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙、エレン・ペイジ、マリアン・コティアール

 映画になっていません。
 夢の三層構造というアイデアはおもしろいのだけれど、それをことばで説明してしまってはねえ。現実と夢、さらにそれより深い夢、もっとも深い夢ではスピードが違うというんだけれど、映像ではぜんぜん差がないじゃないか。(唯一、車が橋から落ちるシーンだけがスローモーションで遅いけれど。)
 どこまでが現実で、どこまでが夢か、ごっちゃになる--というのが「ミソ」らしいが、ほんとうに夢の「三層」が描かれているなら、それはごっちゃになりようがない。どの夢も同じレベルで表現されるから映像として区別がつかないだけ。映画が破綻している。さらに、映像として次元を差別化できないために、それをことばで説明している。最悪だねえ。脚本もひどければ、カメラもひどい。
 それに。
 こんなへたくそな脚本、カメラで、ほんとうに、いまスクリーンで描かれている夢が何段階の夢か、あるいは現実か、わからなくなるって、ほんとう?
 宣伝文句に洗脳されているんじゃない? ことばを信じすぎているんじゃない?
 これは、映画ではなく、小説なら、まだいくぶんおもしろくなったかもしれない。夢は映像に見えるけれど、実際は、ことばで見るんだろうなあ。何を、どう認識するか。その意識が短絡したり、間延びしたりして時間が複雑になる。入り組んだことばは、ことばの「深層」をえぐりつづけるからね。それに対して、映像は、別の映像をえぐりつづけるということはない。(ない、とは断言できないかもしれないけれど、それを映像で再現するのはむずかしいだろうなあ。せいぜいが、ある映像を、別の映像と錯覚する、というのが限度である。)
 これに比べると(比べてはいけないんだろうけれど)、「脳内ニューヨーク」の方がはるかに「夢」の混乱を描いている。どっちが現実、どっちが「夢」(芝居という虚構)であるか、誰にでもわかるのに、わかっているはずなのに、その区別があいまいになっていく。だんだん「芝居」の方が「現実」になってゆく。しかも、「ことば」としてではなく、映像として。



 この手の映画では、「マトリックス」がいちばんおもしろい。
 何がおもしろいといって、そこでは「潜在意識」というような、ことばでしか表現できないものではなく、「肉体」が主役だった。「肉体」が「夢」のように動いた。弾丸を、スローモーションで、身を反らして寄せるシーンなんて、夢そのものでしょ? そして、そこでは「夢」のスピードが「現実」のスピードと違うことが、ちゃんと「肉体の映像」として表現されていた。
 自分の肉体でまねしたくなるシーンがあった。観客の肉体をスクリーンに引きこむ映像があった。
 「インセプション」には、そういう映像はない。ただ、ことばだけがある。ことば、ことば、ことば。 
 もし、この映画で、何がなんだかわからなくなる、どれが現実で、どれが表層の夢で、さらにどれが最深層の夢かわからなくなるとしたら、それは映像のせいではなく、映画を見ているとき、役者が話すことば(その意味)を理解できないからである。これは逆に言えば、この映画は映像を見せているのではなく、ことばで映像を説明しつづけているだけの紙芝居である、ということになる。
 ラストシーンの、独楽が、まわりつづけるのか、とまって倒れるのか、わかる寸前で途切れる映像は、この映画のいいかげんさを象徴している。観客の判断にゆだねる、というのは聞こえはいいが、つくっている側が「答え」を出せなかっただけである。
 


 なんだか感想を書いている内に怒りがこみあげてきた。「シャッターアイランド」と同様、ひどい映画である。
 レオナルド・ディカプリオはもともと「透明」な役者である。「不透明」な役を「肉体」が受け入れない。「不透明」を背負いきれない。まあ、この映画は、ことばの映画だから、レオナルド・ディカプリオの「透明」な肉体が必要だった。「肉体」が前面に出てしまうと「ことば」が見えなくなるということかもしれない。でもね、それじゃあ、映画じゃないよ。
 クレジットの最後になって、エディット・ピアフの歌が流れるのはなぜ? ピアフを演じたマリアン・コティアールが出ているから? 観客をばかにしていない?
 
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン [DVD]

パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長田典子「五月の庭」、水嶋きょうこ「玉葱」

2010-07-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長田典子「五月の庭」、水嶋きょうこ「玉葱」(「ひょうたん」41、2010年06月25日発行)

 長田典子「五月の庭」におもしろい行があった。

鳥が囀っています
若葉が揺れています
ハイヒールの明るい音が通り過ぎます
仔犬の吐く息が聞こえました
遠くを波のように車が走り去っていきます

それら みんなが
五月の庭に反響しています
やわらかい風をからだいっぱいに吸い込みながら
わたしは
今、芽を出したばかりの植物のように
しゃがみます

 「背伸びします」「立ち上がります」ではなく、今、芽を出したばかりの植物のように「しゃがみます」。
 うーん。
 草花の芽は、芽を出すとき、しゃがみはしない。
 うーん。
 でも、わかるなあ。
 芽を出したばかり。その姿は、すっくと立ってはいない。たしかに丸まっている。その植物の芽をまねると、人間のからだはまるくなる。しゃがんで膝を抱えた様子ににているかもしれない。
 うーん。
 それだけじゃないんだなあ。単なる「形態」の模写ではない。しゃがんだ形は草花の芽に似ているかもしれない。ひとところふくらんだてっぺんは頭だね。その下にはほそいからだがある。ちょっと丸まっている。そして、それは、そこから立ち上がる。
 「しゃがみます」と長田は書いているし、実際、しゃがんだ姿もきちんと想像できるのだが、私は、そのあと、長田が立ち上がってくるのを見てしまう。書いてないけれど、読んでしまう。そして、その立ち上がる姿に、伸び上がる姿に、草花(植物)の力を感じてしまう。
 「しゃがみます」としか書いていないのに、そして「しゃがみます」を読んだ一瞬は変じゃないと思ったはずなのに、次の瞬間には、納得してしまう。「しゃがむ」「たちあがる」という矛盾したことばが、一瞬の内にひとつづきの運動になって動いている。
 うーん。
 こういうときだね。うーん、とうなって、あ、これが詩のことばなんだなあと思う。書かれていることばとは違うことばを呼び込んでしまう。「誤読」してしまう。「誤読」なんだけれど、納得してしまう。(作者がどう思っているかではなく、私だけの納得なのだが……。)



 水嶋きょうこ「玉葱」のことばは、「誤読」しようがないかもしれない。それは水嶋が「誤読」しているからである。「現実」が「流通言語」ではなくて、水嶋語で語られる。どこが違うか--というのは説明が面倒なので、読んでもらうしかない。

駅の近くに、野菜を売っている家がある。門前に机を出し、新鮮な野菜を置いている。男の人はその母親らしきおばさんが、店番に座っていることもある。時々、男の人がおばさんをどなる声が聞こえ、耳について離れない。職場からの帰り道、その家の前を通りかかると、巨大な野菜が置かれていてぎょっとした。よく見ると、おばさんで。野菜よりも静か。薄闇の中、地面を見据え、台の側に座っている。丸まった背中は、闇に潜む大きな玉葱。玉葱はうすうすと溶け出しそうな、微熱を抱え込む。その下の地面には、どこにもぶつけることのできない、何年も何年も絡まった根っこのようなものが深く広がっている。家に帰り、いつものように家族の食事を作った。今日は寒いので、とろとろのシチューをつくろうと思う。包丁で野菜を丁寧に切り刻んでいく。鍋から湯気が上がる。野菜カゴを見ると、玉葱がはいっていたので、持ち上げた。日だまりのような温もりと共に白い根っこが指先にそっと絡まってくる。

 おばあさんが玉葱に見える。これは「比喩」だね。そこまでは、わかる。というか、「流通言語」であるかもしれない。「学校教科書」でつかわれている日本語かもしれない。そこから玉葱が熱をもち、根っこをひろげるというのは、「比喩」を出発点として、ことばが独自に動いていく部分だ。
 で、それが店頭の「おばさん」であるかぎりは「比喩」、「流通言語の詩」であるといえるかもしれないが。
 最後。
 「日だまりのような温もり」(これは、微熱を抱え込む、から派生したことばだろう)「と共に白い根っこが指先にそっと絡まりついてくる」。これは、何? いや、何というものではなく、実際に、根っこがからまりついてくるというだけのことなのだが、変に、こわい。水嶋が「おばさん」になっていく。「シチューをつくる」という「日常」をとおして、その「日常」とつながるほかの女と何かを共有し、「おばさん」(水嶋ではない人間)になっていく。
 「私が私でなくなる」というのは、あらゆる文学の到達点だが、それを、なんだかよくわからない(あ、文学的ではない、といえばいいのかな?)ことばでつかみとる。「おばさん」になる、玉葱おばさんになるというのは、変な虫になるのと比べるとなんだかおかいしよねえ。しかも、玉葱そのものではなく、根っこ。「玉葱」そのものなら、まだ、「文学的」かもしれないが、「白い根っこ」ねえ。
 どこかで、水嶋は「世界」を「誤読」している。
 よくよく見ると、最初は「根っこのようなもの」と書いていたが、最後は「根っこ」になっている。「ようなもの」は「比喩(直喩)」であるが、それが「暗喩」になっている。イメージになっている。それは「比喩」ではなく、「比喩」を突き破り、「実在」になっている。
 ことばが、その自分で動く力で、「直喩」の「ような」を切り捨てて、飛躍していく。この「ような」を切り捨てた瞬間、「流通言語」は「流通言語」ではなくなる。そして、「誤読」になる。
 それは「悪い」意味ではない。「否定的」な意味ではない。「何年も何年も絡まった」何かを「正直」に書こうとすると、「流通言語」では書けないものがある。「流通言語」を切り捨てなければならないことがある。
 「流通言語」からずれて、違ったことばを語るしかない。
 「誤読」ではなく、「誤語り(誤書)」なのかなあ。それは「誤っている」のだが、その「誤り」のなかに、水嶋でしか語れない「正直」がある。--そういうふうにしかいえない「誤読」。
 「世界」を「誤読」するとき(「誤書」するとき)、そのときだけ、人間は「正直」になるのかもしれない。なれるのかもしれない。

 「正直」は嫌われる。「現代詩っ、わからない」と敬遠される。でも、「世界」は「誤読」するひとがいないと、平板になる。

おりこうさんのキャシィ
長田 典子
書肆山田

このアイテムの詳細を見る
twins
水嶋 きょうこ
思潮社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする