河邉由紀恵「うさぎ」、齋藤恵子「水」(「どぅるかまら」8、2010年06月10日発行)
河邉由紀恵「うさぎ」には改行も句読点もない。どこに区切り(?)があるのかわからない。
かると・ド・ヴィジット不眠症の少女はだき人形
の小指をかみながら退屈なひるの時間をやりすご
す人形の名前はアリス・リデルびろうどのタペス
トリーがゆれ色あせたテーブルクロスがゆれアリ
ス・リデルの足がゆれもう余分な時計はいらない
かると・ド・ヴィジットがらすネガのなかの少女
はくらい部屋の隅っこで耳をすませて男が来るの
を待っているくるこない近づく男の足音に耳をた
てる小さな少女のうっすらと赤くなるほそくてな
がい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる
そして、ここには書かれていない「切れ目」、そのないはずの「切れ目」へ意識が迷い込んでいく。
深淵、暗い断絶があって、そのために向こう側へ渡れない--というのは、現実にも夢にも起きることだが、河邉は、それとは逆のことをやっている。河邉のことばは「切れ目」(隙間)を見せないことで、世界を変形させる。
世界には「断絶」がなければいけないのだ。世界は、つながっていけはいけないのだ。なぜ、つながっていてはいけないのか。--それは、存在(形)というものが、それぞれ独立することではじめてそれ自身となるからだ。
河邉は、そういう存在の本能のようなものを拒絶している。
その拒絶の意思、存在の孤立を許さない意思のようなもの、それに引きずり込まれる。強引さに引きずり込まれる。
男が来るのを待っているくるこない
この「くるこない」は花占いのようなものである。そして、その占いでは「くる」と「こない」は深く密着している。ねじれ、からみあい、「くるこない」でひとつのことばなのである。ひとつの夢、ひとつの願いなのである。
「くる」だけが夢、願いであるなら、世界は単純である。「こない」ということが決まってしまえば、世界は単純である。
ところが、恋においては、それは「切れ目」がない。あくまで「くるこない」がぴったりくっついていて、切り離せないのが、欲望なのだ。
「くるこない」は矛盾だが、その矛盾を、河邉はことばで、そこに出現させてしまう。そして、それが出現してしまうと、不思議なことに、切れ目のないはずの「くるこない」に、--そのことばの奥に、どうすることもできない「断絶」が見えてくる。隠されている「断絶」、あまりに深く矛盾するものが押し合いすぎて、その内部に入った「ひび」のようなものを感じてしまう。
あ、どうも、変なことを書いているなあ。
でも、そんなふうにしか、私には書けない。存在と存在が、ぴったりとくっつき合い、押し合う。そのとき、密着した面がくっつけばくっつくほど、存在と存在のあいだには、見ることのできない「ひび」が入ってしまう。それはまるで「ひび」であること、そのこと自体が「存在」の理由であるような感じだ。
河邉はだれにもわからない「ひび」、見えない「ひび」になって、世界を告発したいのだ。
「ほそくてながい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる」--というときの「血管」は、河邉には「ことば」かもしれない。「ことば」は河邉のまわりにびっしりと集まり、(それはほそくてながくて、分離できず)、その「あつまってくる」という力で、河邉を「うっすらと赤く」する、しずかに発熱させる、発火させる、--そのしずかな、その奇妙な、熱が、「ことば」のなかにある。
*
齋藤恵子「水」にも、不思議な「切れ目」がある。齋藤だけが見る「切れ目」と「連続」がある。切断と連続がある。
母が二階にあがっていく
母はふたりの姿になっている
着物を着ている元気な母
病んで腰がまがり目も視えない母
(略)
着物の母が病者の母をかばい
人目をしのぶように足音をたてず階段をあがる
身体と気持ちが分かれてふたりになったのだろう
背中だけのひとになってしまった母
ふたりの顔は同じはず
今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない
ここに描かれている「母」は齋藤の「意識の母」である。齋藤のことばによって、はじめて「ふたり」になった母である。齋藤のことばが描写しなければ、「ふたり」にはなりえない母である。
その母に、ことばの母に、
今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない
というとき、それは齋藤が自分自身のことばに対して課した「禁忌」である。
河邉の作品、河邉のことばとつなげてしまってはいけないのだろうけれど、私は、そこに不思議な連続性を感じる。
ふたりの母は、ふたりに分かれながら、実はぴったりとくっついて、互いに押し合っている。そこには深い亀裂がある。亀裂があるのだけれど、ぴったり押し合っている(互いが互いを必要としている)ので、その亀裂は、互いを必要とするということのなかに隠れてしまっている。けれど、隠しても隠しても、というか、必要とすれば必要とするほど、その内部で、絶対に復元できない「ひび」が育っていく。
だから、声をかけてはいけない。
声をかけると「ひび」は一気に成長して、齋藤のことばを押し退けて、どこまでも成長してしまう。
いま、齋藤が「肉眼」で見ているのは、「いま」「ここ」でしかありえない、緊密な「緊張」なのだ。
緊張のなかには、深い深い「ひび」がある。見えない「ひび」がある。
少女が少女ではなくなるときの緊張--河邉が描こうとしているのは、そういう緊張かもしれない。ひとが一生のあいだで一瞬だけ抱え込む緊張。そこから、世界を告発しようとしているのかもしれない。
齋藤は、こんなことを書いてはいけないのかもしれないけれど……ひとがひとでなくなるときの緊張、生から死へのあいだにある緊張を書いているのかもしれない。母は、肉体の内部で「ひび」が深まっているのを知っている。そして、その「ひび」は、実は、母を知っている齋藤にも実感できる。まるで、自分自身の内部の「ひび」のように。その「ひび」に対する恐れのようなものが、ことばを動かしてしまう。ことばが、見てはいけないものを見てしまう。
ことばはいつだって、人間が見てはいけないものを見てしまう。そして、その見てはいけないものを書いてしまうのが文学である。
わかっているから、せめて、言うのだ。
今声をかけてはいけない
あ、でも、見てしまったもの、見てはいけないものを見てしまった人間は、それを書かずにはいられない。「今声をかけてはいけない」なんて、もう、ほとんど言ってしまっている。言ってしまっている以上を言ってしまっている。
矛盾だねえ。
ことばは、いつでも矛盾してしまうねえ。