詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

キム・テギュン監督「クロッシング」

2010-07-03 22:44:17 | 映画

監督 キム・テギュン 出演 チャ・インピョ、シン・ミョンチョル、チョン・インギ

 この映画の感想はむずかしいなあ。
 映画なのだけれど、映画ではなく、「現実」として見てしまう。北朝鮮の現実、脱北者の現実……。映画にはもちろん現実をつたえるという仕事もあるのだろうけれど。
 どこに視点を定めていいのかわからないけれど、子供に焦点をあてると、子供の不思議さが、まあ、きちんと描かれていると思う。
 どんな状況でも、子供は大人(親)のいうことを絶対的に信じる。親の言うとおりにしようとする。親に気に入られようとする。親を批判しない。
 それがいちばんよくでているのが会話。
 韓国語(北朝鮮語?)がわからないので何とも言えないが、子供がいつも親に「敬語」をつかっているのが、美しくて、かわいそう。
 北朝鮮の国民全員が、「将軍様」の「子供」というのが、北朝鮮の現実--というふうに、見つめなおせば、うーん、この映画は少しは違ったものが見えてくるかなあ。

 なんだか、何もない家(ちゃぶ台と食器しかない家)、草を取って惣菜にしようとする貧しさ、路上にあふれる子供たち、闇市、横暴な憲兵(?)というものを次々に見せられても、こころが暗くなるばかり。
 さらに。
 子供は死んでいくとき、楽しかったことを胸に抱いている。雨のなかで、小石をボールにして父親とサッカーをしたこと--それがいちばん美しい思い出なんて。
 それが子供の「本質」なら、よけい、つらくなる。

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河邉由紀恵「うさぎ」、齋藤恵子「水」

2010-07-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「うさぎ」、齋藤恵子「水」(「どぅるかまら」8、2010年06月10日発行)

 河邉由紀恵「うさぎ」には改行も句読点もない。どこに区切り(?)があるのかわからない。

かると・ド・ヴィジット不眠症の少女はだき人形
の小指をかみながら退屈なひるの時間をやりすご
す人形の名前はアリス・リデルびろうどのタペス
トリーがゆれ色あせたテーブルクロスがゆれアリ
ス・リデルの足がゆれもう余分な時計はいらない

かると・ド・ヴィジットがらすネガのなかの少女
はくらい部屋の隅っこで耳をすませて男が来るの
を待っているくるこない近づく男の足音に耳をた
てる小さな少女のうっすらと赤くなるほそくてな
がい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる

 そして、ここには書かれていない「切れ目」、そのないはずの「切れ目」へ意識が迷い込んでいく。
 深淵、暗い断絶があって、そのために向こう側へ渡れない--というのは、現実にも夢にも起きることだが、河邉は、それとは逆のことをやっている。河邉のことばは「切れ目」(隙間)を見せないことで、世界を変形させる。
 世界には「断絶」がなければいけないのだ。世界は、つながっていけはいけないのだ。なぜ、つながっていてはいけないのか。--それは、存在(形)というものが、それぞれ独立することではじめてそれ自身となるからだ。
 河邉は、そういう存在の本能のようなものを拒絶している。
 その拒絶の意思、存在の孤立を許さない意思のようなもの、それに引きずり込まれる。強引さに引きずり込まれる。

男が来るのを待っているくるこない

 この「くるこない」は花占いのようなものである。そして、その占いでは「くる」と「こない」は深く密着している。ねじれ、からみあい、「くるこない」でひとつのことばなのである。ひとつの夢、ひとつの願いなのである。
 「くる」だけが夢、願いであるなら、世界は単純である。「こない」ということが決まってしまえば、世界は単純である。
 ところが、恋においては、それは「切れ目」がない。あくまで「くるこない」がぴったりくっついていて、切り離せないのが、欲望なのだ。
 「くるこない」は矛盾だが、その矛盾を、河邉はことばで、そこに出現させてしまう。そして、それが出現してしまうと、不思議なことに、切れ目のないはずの「くるこない」に、--そのことばの奥に、どうすることもできない「断絶」が見えてくる。隠されている「断絶」、あまりに深く矛盾するものが押し合いすぎて、その内部に入った「ひび」のようなものを感じてしまう。

 あ、どうも、変なことを書いているなあ。

 でも、そんなふうにしか、私には書けない。存在と存在が、ぴったりとくっつき合い、押し合う。そのとき、密着した面がくっつけばくっつくほど、存在と存在のあいだには、見ることのできない「ひび」が入ってしまう。それはまるで「ひび」であること、そのこと自体が「存在」の理由であるような感じだ。
 河邉はだれにもわからない「ひび」、見えない「ひび」になって、世界を告発したいのだ。
 「ほそくてながい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる」--というときの「血管」は、河邉には「ことば」かもしれない。「ことば」は河邉のまわりにびっしりと集まり、(それはほそくてながくて、分離できず)、その「あつまってくる」という力で、河邉を「うっすらと赤く」する、しずかに発熱させる、発火させる、--そのしずかな、その奇妙な、熱が、「ことば」のなかにある。



 齋藤恵子「水」にも、不思議な「切れ目」がある。齋藤だけが見る「切れ目」と「連続」がある。切断と連続がある。

母が二階にあがっていく
母はふたりの姿になっている
着物を着ている元気な母
病んで腰がまがり目も視えない母
(略)

着物の母が病者の母をかばい
人目をしのぶように足音をたてず階段をあがる
身体と気持ちが分かれてふたりになったのだろう
背中だけのひとになってしまった母
ふたりの顔は同じはず
今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 ここに描かれている「母」は齋藤の「意識の母」である。齋藤のことばによって、はじめて「ふたり」になった母である。齋藤のことばが描写しなければ、「ふたり」にはなりえない母である。
 その母に、ことばの母に、

今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 というとき、それは齋藤が自分自身のことばに対して課した「禁忌」である。
 河邉の作品、河邉のことばとつなげてしまってはいけないのだろうけれど、私は、そこに不思議な連続性を感じる。
 ふたりの母は、ふたりに分かれながら、実はぴったりとくっついて、互いに押し合っている。そこには深い亀裂がある。亀裂があるのだけれど、ぴったり押し合っている(互いが互いを必要としている)ので、その亀裂は、互いを必要とするということのなかに隠れてしまっている。けれど、隠しても隠しても、というか、必要とすれば必要とするほど、その内部で、絶対に復元できない「ひび」が育っていく。
 だから、声をかけてはいけない。
 声をかけると「ひび」は一気に成長して、齋藤のことばを押し退けて、どこまでも成長してしまう。
 いま、齋藤が「肉眼」で見ているのは、「いま」「ここ」でしかありえない、緊密な「緊張」なのだ。

 緊張のなかには、深い深い「ひび」がある。見えない「ひび」がある。

 少女が少女ではなくなるときの緊張--河邉が描こうとしているのは、そういう緊張かもしれない。ひとが一生のあいだで一瞬だけ抱え込む緊張。そこから、世界を告発しようとしているのかもしれない。
 齋藤は、こんなことを書いてはいけないのかもしれないけれど……ひとがひとでなくなるときの緊張、生から死へのあいだにある緊張を書いているのかもしれない。母は、肉体の内部で「ひび」が深まっているのを知っている。そして、その「ひび」は、実は、母を知っている齋藤にも実感できる。まるで、自分自身の内部の「ひび」のように。その「ひび」に対する恐れのようなものが、ことばを動かしてしまう。ことばが、見てはいけないものを見てしまう。
 ことばはいつだって、人間が見てはいけないものを見てしまう。そして、その見てはいけないものを書いてしまうのが文学である。
 わかっているから、せめて、言うのだ。

今声をかけてはいけない

 あ、でも、見てしまったもの、見てはいけないものを見てしまった人間は、それを書かずにはいられない。「今声をかけてはいけない」なんて、もう、ほとんど言ってしまっている。言ってしまっている以上を言ってしまっている。
 矛盾だねえ。
 ことばは、いつでも矛盾してしまうねえ。
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