監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ケーリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メイソン
この映画は、おもしろすぎて、どこから語っていいかわからない。
まず、最初のシーンがとても好き。タイトルバックなのだが、縦の線と斜めの線が交錯し、それが国連ビルに変わっていく。いきなり国連ビルではなく、人間の描いた線--それが重なり、ひとつの姿をとる。その過程。いわば、無から何かを作り上げていくときの、プロセス。そういうものを見せることで、「映画というのは、ひとの思っていることと、現実をうまく組み合わせてつくるもの。あくまで、ひとの方が先」と宣言している。いまの映画は、いきなりはじまるけれど、昔の映画は、こんなふうにしてゆっくりはじまったんだねえ。いいねえ。
それから、主役がケーリー・グラントである点がおもしろい。事件にまきこまれて007のジェームズ・ボンドみたいなことをやるのだけれど、タフ・ガイという印象がない。映画のなかにも「いいスーツを着ている」というような台詞が出てくるが、着こなしがとてもいい。今では古くさいスタイルになっているのかもしれないけれど、上着から見えるカッターシャツの襟、袖口--その白のバランスがとても美しい。広告会社の社員という設定だけれど、まさに、ひとを騙して(あ、広告会社のひと、ごめんなさい)、みてくれで勝負するという感じ。そういう人間が、007の世界へひっぱりこまれるんだから、おかしいよねえ。
さらに、ケーリー・グラントの陰りのない感じ、おぼっちゃま、という感じに輪をかけるのが、母親。まるで、マザー・コンプレックスのかたまり。これもおかしくて、たのしい。そのくせ、女にもてる。顔とスタイルの色気。ほんのワンシーンだけれど、ケーリー・グラントが閉じ込められた部屋から逃げるとき、隣の部屋をとおる。寝ていた女が「出て行って」と言った直後、色男ぶりに気づいて「出て行かないで」と声の調子をかえることろなんか、たのしいねえ。
ショーン・コネリーも、007のなかでは、冷静でユーモアがあって、あ、イギリス人ならではという感じがしたが、ケーリー・グラントもアクションで見せるというより、ふつうの感じ、ふつうの会話のやりとりの「冷静さ」がイギリスのにおいを残していていいなあ。ヒッチコックの、イギリス人の行動が自然に反映しているんだろうなあ。
アクションじゃなくて、しらずしらずにまきこまれていくというのが、誰にでも起きそう(?)な感じを誘うのもいい。こういうとき、ほら、ショーン・コネリーだとふつうの感じがしない。ケーリー・グラントの、まあ、ルックスとスタイルは別にして、ふつうの人間っぽい体つき、ものいいが、「まきこまれ型」の事件にはぴったりだよね。
列車内での追跡なんかも、ゆったりしていていいねえ。最近の映画なら、手持ちカメラで画面を揺らし、カットも小刻みで緊迫感をあおるんだろうけれど、悠然としている。どたばたしない。列車の2階のベッドに隠れ、「窒息しそう」とか「必要なのはオリーブオイル。まるで、オイルサーディンみたいだから」なんていうユーモアを忘れないところが、ヒッチコックだねえ。
ラストシーンもいいねえ。断崖から女を引き揚げる手のアップ--それが一転してカメラが切り替わって寝台列車の上のベッドへ女を引き揚げる手に変わる。似たようなシーンがいろんなスパイ映画につかわれている(パロディー?)けれど、ヒッチコックが最初にやったんだよね。
実際にセックスするシーンはないけれど、ここでも「裏窓」同様、女がスリッパを履いていることに注目しようね。トンネルに突入する列車でセックスを表現しているなんて、男根主義丸出しの見方があるのだけれど、私はフェミニストなので、靴ではなくスリッパでセックスが象徴されている、と指摘しておきますね。
(午前十時の映画祭、24本目)
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