詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水出みどり『声、そのさざなみ』

2010-07-28 00:00:00 | 詩集
水出みどり『声、そのさざなみ』(碧濤舎、2010年07月07日発行)

 水出みどり『声、そのさざなみ』には「声」をテーマにした詩が何篇かある。そのうちの「声について」。ここには、「ふたつの存在」が繰り返し書かれている。

声がさざ波をたてる
その毀れやすい響きを
わたしはけんめいに
遡る

あなたの声の源流
あなたの深奥
やわらかな影につつまれて
母音は眠っていた

 「わたし」と「あなた」。そこに「対」になった「ふたつ」が存在する。「わたし」は「あなた」の声の「源流」を探す。「深奥」を探す。いま、聞こえてきた「声」、耳に届いた「声」は、書かれてはいないけれど「河口」あるいは「海」のような、「源流」の対極にある。そこから「源流」へ遡るとは、「わたし」が「あなた」へと遡ることでもある。
 「声」は「わたし」と「あなた」を強く結びつけるものである。

闇のなかで
子音は鋭く反響していた
答えはない
喉ふかく
はげしい渇望に似て
燃える


 2連目の「母音」、3連目に「子音」。「声」は「子音+母音」から成り立っている。切り離すことのできない「対」としての「ふたつ」。そして「母音」の方は「眠っている」。一方、「子音」の方は「反響」している。目覚めて、暴れ回っている。「反響」とはいっても「答え」がないとすれば、それは孤独な叫びである。
 ここからここに書かれている「声」とは「声」にならなかった「声」であることがわかる。
 「わたし」は「あなた」の「声」にならなかった「声」を探して、「あなた」の「深奥」へと遡ろうとしている。

ひたむきな
呼気と吸気
声帯にふるえる風が
とどかないはるかなものを呼ぶ

 ここにも「呼気」「吸気」という「対」が出てくる。この連で重要なのは、しかし、その「対」よりも「とどかない」であり、「呼ぶ」である。「とどかない」と「呼ぶ」と一見「対」には見えないが、実は「対」である。「とどかない」からこそ「こっちへ来い」と呼ぶのである。
 それは「声」になる前の「母音」と「子音」に似ている。ふたつの音は合体して「声」になる。

声はさわる
言葉の襞に
そのぬくもりと
つめたさに
胸の奥に
呑み込んだ声が揺れている

密やかに
砕けた声をひろうものがある

 「声」と「言葉」はどう違うだろう。たぶん「声」が「源流」であり、それが流れをあつめてて大きな川になったとき、その川が「言葉」だろう。
 「言葉」のなかには「声」がいっぱいあつまっている。
 あるいは、こういうべきか。
 「声」とは「胸(こころ)」であり、「言葉」とは「意味」である、と。「意味」の奥には、「意味」になりきれない「こころ」(呼吸、呼気と吸気)がつまっている。それは「意味」の「意味」ではつたえられないものを何とか伝えたいと渇望している。
 「呑み込んだ声」、「言葉」にならなかった「呼吸」。それが「源流」。そして、その「呑み込んだ声」、「言葉」にならずに「砕けた声」を、夜、ひそかにひろう。
 それは誰か。
 「あなた」か。そうではなく「わたし」である。それをひろってんるのが「あなた」であるにしろ、その「あなた」とは、「あなた」の「声」「源流」をそんなふうにとらえなおした「わたし」そのものである。
 「わたし」は「あなた」へとさかのぼりながら、「あなた」そのものに、なる。そのとき「わたし」と「あなた」は「ふたつ(ふたり)」ではなく、「一対」である。「一」である。


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