詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷元益男『水源地』

2010-10-01 00:00:00 | 詩集
谷元益男『水源地』(本多企画、2010年09月01日発行)

 谷元益男『水源地』には「影」ということばがたくさんでてくる。「影・陰・かげ」と表記はときに変化しているが、その深くでことばは通じ合っている。そして、この「陰」が谷元の詩のキーワードである。キーワードは、詩人によっては詩のなかに書きこまないひとがいるが、谷元は書きこむタイプである。
 「沢蟹」は水源から水を引きこむパイプがつまったので、それを修理しにゆく女を描いている。その後半。

おんなが
枯れ葉を 掻き集めようと
熊手を引くと
見たこともない色の
沢蟹が
蠢いている

おんなが以前
落とした影に
沢蟹は群がって
生きていたのだ

崩れて
倒れたおんなの背中を
血のような
沢蟹が這っていく

 「おんなが以前/おとした影」の「おんな」と、いま熊手をひいている「おんな」が同一人物である必要はない。むしろ、谷元は、ここでは別人として書いている。別人であるけれど「おんな」。ムラに水をもたらすために犠牲になった「おんな」。「おんな」の犠牲が脈々とつながっている。そのつながっているもの、脈々としたもの--その肉眼には見えないものの象徴が「影」なのである。
 「等間隔」に登場する「影」を読むと、「影」が死者たちの生きた「記憶」(思い出)であることが、もっとよういにわかる。

この地には
死んだ村人の数だけ切り株が
ある
繁った
影となり揺れている

 「切り株」であるから、そこには枝はない。葉はない。けれども、影が揺れている。これは矛盾である。それが矛盾だからこそ、そこに詩があり、そこに谷元の「思想」がある。「切り株」をみながら、谷元は「生前」を思い出しているのである。「生前」が影なのである。
 「沢蟹」の「影」も同じである。それは「生前」である。「生前」はふつうは、生きていた以前は、という「意味」だが、「沢蟹」の場合は「おんな」は死んでいない。生きて、枯れ葉を掻き集めている。だから、そこでいう「生前」は「おんな」が「生まれる前」という意味になる。生きていた以前ではなく、生きる前、生まれる前になる。「おんな」が生まれる前にも、「おんな」はいる。「おんな」を産んだ「おんな」がいる。「おんな」を産んだ「おんな」が「生前のおんな」であり、それはくりかえされる「おんな」の歴史である。
 この詩集に書かれているは、いわば「歴史」なのである。それは書かれなかった歴史である。そこに生きて、暮らしているひとだけの歴史である。そして、それは谷元にとっては「出自」を語ることでもある。自分の中にあるいのちの「水源」をたどっていくと、書かれることのろかったものが延々とつづいていることがわかった--谷元は、この詩集で、そう語っている。そのことだけを語っている。そのような「影」をたどることばを「線」として書きたい、書くのだ、ということが「線」という詩に結晶化している。

ムラの上に
細い線が
膜のように張っている
わずかにつながって
たわんでいるが
線を支える支柱はない

傾いだ土地で
うごめく幾つものかげは
やさしかったムラビトの
脈をもち
家畜や鳥のかげと交差する
いま死んでゆく男の声が
昔のように線に
ぶらさがんている

その線を
過去の方から
喰いつくしてくる者がいる
ムラを出た者が
消えかかる線を
ふたたび自分の中に取り込むのだ

自分の影から線が
延びていると気づいたとき
土地の目が一斉にふりむき
目のない顔だけが
中空に
溶けていく

 ムラを出た者である谷元は、ムラにのこる影を取り込む。それは、谷元自身がひとつの「影」になり、ムラにのこるということでもある。
 4行目に「つながって」ということばが出てきたが、この「つながる」は書かれることの少ないキーワード(谷元にとってのキーワード)である。「生前の影」、つまり谷元が生まれる前、ムラで生きていた人たちの影、死者となった人たちの影と谷元の影はつながる。その「つながる」ということが「線」になるということである。
 「影」は「線」になることによって、ことばは詩になる。




table>水をわたる
谷元 益男
思潮社

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