田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(書肆山田、2010年10月10日発行)
詩は文体ではなく内容である--という趣旨のコメントをいただいた。もし、そうであるなら、たとえば田中宏輔『The Wasteless Land. V 』は何になるだろう。2篇の詩から構成された詩集である。最初の1篇は「もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。」というタイトルである。内容は「日知庵から大黒に行く途中たくさんの居酒屋の前を通って高瀬川を渡って、本屋町通りを歩いた。」(詩集の帯)ということになる。私に言わせれば、この「帯」はちょっと気取っていて、ほんとうの内容はというと、田中宏輔が居酒屋(なんだろうなあ)「日知庵」と「大黒屋」で知り合いとおしゃべりしているという詩である。おしゃべりであるから、そのおしゃべりにも内容があって、その内容といえばパウンドだとか、そのたものものろ詩人や、俳句の話などもでてくるのだが、ようするに文学談議である。文学談議--と簡単にいってしまったけれど、その文学談議の内容は、というと、まあ、忘れてしまったなあ。(ごめん。)覚えているのは城戸朱理が嫌いということくらいかなあ。これは、私は城戸朱理がまったくわからないので、そうか、嫌いな人がいるのかと安心したから覚えているんだね。言いなおすと(?)、この城戸朱理が嫌いということにも、ほんとうは内容(語られている具体的な事実)があるのだけれど、私はそれを覚えていない、ということ。申し訳ないけれど、田中が城戸朱理が嫌いという理由と、私が城戸朱理が嫌いな理由は違うかもしれないけれど、そんなことは吟味しないで、私は「城戸朱理が嫌い」ということばだけで、この詩を覚えている。「内容」としては。
でも、それは、ほんとうに「内容」なんだろうか。
違うねえ。
「内容」のなかには、それぞれの主題があって、それをめぐる論の展開があって、その論の展開のなかには、論の展開の都合上、また別の主語が主題のようにしてあらわれてきて、そのなかでまた論が展開していく。要約しようとすればするほど、要約から逸脱して、何がなんだかわからなくなる。で、面倒くさいから、居酒屋で田中宏輔がおしゃべりしているのが、この詩の内容である、と言ってしまったりする。
そうするとまた、そんな「内容」で詩と呼ぶに値するのか、という反論が出てくるだろうなあ。「内容」重視の視点からは。
そういう視点からは、たぶん、田中宏輔の詩のおもしろさはとらえきれない、と私は思う。
先に書いたことと重複するが、「内容」というようなものは、その主題のなかで次々と主語を変えて論理が進んでいく。内容をきちんと伝えようとすれば、その内容の内容について語り、またその内容の内容について主語を限定しながら言いなおさなければならない。きりがない。で、最後は、
「それで、どうしたの?」(英語で言えば「What's the point?」ということになるのかな?)
ね、どうしたって、何がなんだからわからなくなる。
「内容」はわからないけれど、あることに向かってひたすらことばが動いていく。ほかのことは語れないけれど、たとえばパウンドをはじめとする詩や言語芸術のことについて、田中宏輔と知人のことばはひたすら動いて行く。ゴール(結論)を探しているわけではなく、ただ動いていく。
その動いていく、動いているということだけがわかる。
「内容」は次々に忘れてしまうけれど、ことばが動いていくという、その運動のあり方だけがわかる。
この運動のスタイルを、私は「文体」と呼んでいる。そして、もし「思想」というものがあるとしたら、それは「内容」ではなく「文体」にこそ、思想があると思っている。文体には肉体がある。自分自身を守っていく本能がある。自分を守るために嫌いでも嫌いなものを食べたり、弱虫とののしられても逃げたりする「正直」がある。そして「正直」を守り通したときに、つまり我慢したり、だらしなく逃げたりして、ひとに悪口を言われたりしながらも、それでも「あ、生きていてよかった」と納得する「人間」がそこにあらわれてくる。生きていたよかった、と納得できる、その生きていてよかったを支えてくれるものこそが、ほんとうの思想である、と私は思っている。
なんだか長い長い前置きになってしまったが、実は、これは前置きではないかもしれない。田中宏輔の詩集を読んで感じたすべてであるかもしれない。
この詩集には田中があるときしゃべったこと、しゃべりながら「主題」がずれていって、またもどってきて、またずれていって、そんなふうにいいかげんに(?)ことばを動かしながらも、それでも田中宏輔という人間はそのままそこに存在する。それだけではなく、いまのむちゃくちゃなおしゃべり楽しかったなあ。話せてよかったなあ、という喜びがあふれてくる。--読んでいると、その場に私がいなかったはずなのに、その場にいていっしょにおしゃべりをしていた気分になる。
田中の高尚なおしゃべりの「内容」はわからない。そんなものはわからないが、そこに田中がいるということがわかる。そこに田中の友達がいるということがわかる。話が合おうが合わまいが(基本的に合っているからおしゃべりができるのだけれど)、それはどうでもいいことなのだ。「内容」は、あるいは「思想」は語られた「主題」とした要約できるものではない。「内容」「思想」は、おしゃべりをするということに尽きるのだ。
気分次第で次々にかわってゆける。かわっていっても、またもどってこられる。そういう右往左往をしても、右往左往とは感じない。そのことばの「領域」の広さ--要約できるものではなく、逆に、要約をときほぐしていく力。ときほぐして、それでもなおかつ、もう一度「中心(?)」へ帰ってくることのできることばの力。遠くへ解き放たれれば解き放たれるほど、もどってきたときは、より豊かになっていることば--そういう運動のあり方が、思想なのである。
どんなふうに? どんなふうに解きほぐされ、遠くへ行ってしまい、それからもどってきたとき豊かになる? 一か所だけ、具体的に。
谷川俊太郎と吉増剛増だったら、どっちになりたい?
瀬尾育生と北川透だったら、どっちになりたい?
稲川方人と荒川洋治だったら、どっちになりたい?
嫌だなあ、どっちでも。
だまってれば、ふつうのひと。
だまってなければ、ふつうじゃないってことね。
現実の方が、あなたから逃げていくっちゅうのよ。
きょう、乳首を10個も見たけど
ひとつもいいのがなかったわ。
10個の乳首が
あなたを吟味したって考えはしないのね
あなたは。
10個の乳首が
あなたを吟味してたのよ。
詩の(詩人の)話がふいにほどかれて、ゲイの知人の語ったことばが飛びこんでくる。乳首フェチの男がいろいろ乳首を探し回ったけれど、気に入ったものがなかった。それはほんとうにそうなのか。逆に乳首の方で男を選んで、男を拒絶したのかもしれない。乳首の方が男から逃げていったのだ。そういうことは、現実にあるのだ。
同じことが、詩についても、ことばについても言える。
きょう私は10篇の詩を読んだ。ひとつもいいのがなかった--たとえば、私がそう書いたとき、それは間違いではないのか。私は詩を読むとき、無意識にこの詩はいいなあ、これはよくないなあ、この詩は好きだなあ、この詩は大嫌いだけれど、大嫌いと書いているとだんだん好きになってしまう変な詩だなあとか、いろいろ思う。そして読むことで詩を選んでいる。吟味している。
でも、逆かもしれない。詩は、無言のまま、無抵抗にページをめくられるまま、私の法を吟味している。私を厳しく見抜いている。実際、そうなのだ。私は毎日、詩集か詩を取り上げて感想を書いているが、それは私が「取り上げて」いるのではない。詩集、詩から「取り上げられて」いるのだ。受け身だ。
詩集や詩が、
ここでことばを動かしてみない?
そう誘ってくれる。誘われるまま、私はことばを動かす。動かし方が悪くて、うまく対話ができず、ほっぽりだされることもある。それが大半である。
それでも、ついつい、誘われていると勘違いしてしまう。ついつい、ついていってしまう。
それがほんとうのことろなんだろうなあ、と思う。
で、それがどうして、豊かになった、豊かになって帰って来ることかって、聞かれたら、うーん、もう、面倒くさいから、書かない。
詩集を読めばわかります。
The wasteless land5は、まだ、アマゾンコムでは入手できません。
田中の詩に興味を持たれた方は、まず「1」(1、はついていないのだけれど)を読んでみてください。