詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウィリアム・ワイラー監督「ローマの休日」(★★★★★)

2010-10-19 12:00:29 | 午前十時の映画祭

監督 ウィリアム・ワイラー 出演 オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック

 オードリー・ヘップバーンの透明な美しさが輝いている映画である。何度見ても、その透明さに驚く。
 と、書いたあとでこんなことを書くのは変かもしれないが、私がこの映画でいちばん好きなのは舞踏会のシーン。オードリー・ヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐ。右足をほぐし、左足の裏側をかく。そんなしぐさをする。そして靴が倒れる。
 王女もそんなことをするんだ--という、うれしいような感覚が、この瞬間生まれるから、というのはもちろんだけれど……。
 このシーン、とっても変でしょ? 何がって、ドレスの下なんて、見えない。それなのにカメラは平気でドレスの下にもぐりこんでオードリー・ヘップバーンの足を写している。俗なことばでいえば「盗撮」だね。しかも、堂々とした盗撮だねえ。
 でも、映画だから、もちろん「盗撮」ではない。
 では、何か。
 映画の「暗示」である。
 この映画は、オードリー・ヘップバーン王女様が、窮屈な生活から逃れ、ひととき、庶民にもどり、ふつうの生活を楽しむ。その解放感を描いているのだが、その喜びは、実は「外側」だけではない、解放は「外側」だけではない、という暗示である。
 それは、オードリー・ヘップバーンがセックスをしたという意味ではなく、その楽しみはセックスにつながる楽しみであるという暗示である。
 もともと靴を脱ぐというのはセックスをするという意味に重なる。だからポルノ映画で娼婦がハイヒールを履いているのは、実はセックスをしていません、という意味なのである。その姿態が見えていても、隠しています、という意味なのだ。だから、エロチックなのだ。
 この映画では、この靴と肉体の関係はもう一度出てくる。
 オードリー・ヘップバーンはベッドのなか。外から音楽が聞こえてくる。その様子を見るためにオードリー・ヘップバーンが窓に駆け寄る。そのとき侍女が「スリッパを履いて」と注意する。それは足がよごれるというよりもスリッパを脱ぐということがセックスにつながるからである。
 スリッパは「裏窓」でもセックスの象徴としてつかわれていた。グレイス・ケリーがジェームズ・スチュアートのアパートに泊まりに行く。そのときスリッパをもっていく。それは靴を脱ぐ。セックスもする、ということである。知人がスリッパに目を止めたとき、ジェームズ・スチュアートが「そんなところまで見るなよ」というような顔をするのはそのためである。
 そういう暗示を踏まえて、「ローマの休日」を見つめなおすと、ますますおもしろくなる。どこまでもどこまでも清純なオードリー・ヘップバーン。世間知らず。その美しさ。世間知らずだけれど、人間だから嘘をつくことくらいは知っている。知っているけれど、嘘がどんな結果を引き起こすか--まあ、自分で責任をとったことがないので、それもよく知らない。だから、真実の口の中へ手を突っ込むことが出来ない。グレゴリー・ペックの芝居にびっくりしてしまう。これもたわいのないシーンといえばたわいのないシーンなのだが、嘘のかけひきと思うとおかしいねえ。嘘を楽しんでいる。男と女は、ときどき嘘を楽しむね。相手の表情がかわるのが楽しくて。
 オードリー・ヘップバーンが、いわゆるグラマーな体つきでないのも、この映画からセックスを隠し、逆にセックスを感じさせる。オードリー・ヘップバーンよりはるかに王女っぽいグレイス・ケリーがこの役をやっていたら、こんな映画にはならない。少女のまま(少年っぽいとさえいえる--パジャマ姿が、とくにそう感じさせるねえ)オードリー・ヘップバーンだから、それが「恋の芽生え」、そしてそれゆえのセックスを知らない興奮、ときめき、清らかなあこがれになる。装飾の少ないブラウス、そしてシンプルなスカートは、その固い殻のなかで動く肉体をすっきりと暗示する。装飾のない裸の肌の美しさを、処女をそのまま感じさせる。
 処女だから無防備、処女だからそれを守ってやろうとする男。「騎士道」のかっこよさ。むり、というか、粋。やっている本人にいちばん無理なことが他人からは「美しく」見える。そこには一種の逆説のセックスがひそんでいる。矛盾が感じさせるエロチシズムがある。そういうもの、隠されたこころの動きを、カメラは、ほんとうは撮っている。スカートのなかの「盗撮」のように。



 付録。オードリー・ヘップバーンがグレゴリー・ペックのアパートへ行って、「ここはエレベーター?」と聞くシーンもおもしろいなあ。これと逆が「チャンス」にある。ピーター・セラーズがエレベーターのなかで、「ここにはテレビはないの?」と聞く。エレベーターと部屋の区別がつかない。この混同が「高貴」の象徴であるらしい。
                          (午前十時の映画祭37本目)
 
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佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」

2010-10-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」(「すぴんくす」11、2010年09月20日発行)

 秋亜綺羅の書く「切断」とは違った「切断」を、急に思い出した。佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」が書いているのは、やはり「論理」というか、「精神」、あるいは「想像力」に関したことがらだが、秋亜綺羅とはまた違ったことばの動きである。運動である。

マイケルは えいえんに六十歳にならない。
コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。

 この「マイケル」は六十歳にならずに死んでしまったマイケル・ジャクソンのことである。死んでしまったのだからもちろん六十歳になることはない。そのことが「コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。」と佐伯は書く。
 ことばは、「えいえん」ではない--そういうときの「えいえん」の定義はどういうものだろうか。「永遠」にたどりつけない、マイケルが六十歳になれないように、ことばは「永遠」には到達できないというとき、とてもおもしろいのは、「永遠」が存在すると想定されていることである。「永遠」はある。けれど、それにことばはたどりつけない。
 それは、それでいいのだけれど。認識として、あるいは想像として、そういうことを仮定するのは別に問題がないのだけれど。
 でも、その「永遠」(佐伯はひらがなで書いているのだけれど--ひらがなで書くことで、普通にいう「永遠」とは違うということを強調しているのだけれど、私はふつうの「永遠」から逆に佐伯のことばを追いかけてみたいので、あえて漢字で書いておく)--その「永遠」という存在を、佐伯は何によって認識するのだろう。定義するのだろう。
 「永遠」はある。そして、その「永遠」にことばがたどりつけないなら、ことばが「永遠」と合致できないのだとしたら(「えいえんでありえない」の「ある」を、私は「合致」と読んでいる)、ことばは「永遠」を定義できない。ことばでは語れない。
 最初から、何かが矛盾している。そして、この矛盾は、対立というよりも、ぶつかることができない矛盾である。切断されているというより、離されている。「分離」である。
 マイケルが「六十歳」と「分離」されており、絶対に、その「想像力」(ことば?)では書くことができるものに「接続」できないように、ことばが「永遠」から「分離」しているだとしたら、ことばが「そのままでえいえんでありえない」ということが、たとえ真理であっても、何かを考えることの起点にはなりえない。無意味である。
 佐伯は、なにやら、とてもややこしいところから出発しているのである。

(「言葉は肉体から出ている」と演劇人が呼吸をするように言う
(肉体が (言葉を超えると?
(そのとき (コトバは?

老いない伝説は
過去の伝説になるか未来の伝説になるか
(すくなくとも 現在は存在しない という

(現在が不在とうい
(喪失感
(この空洞は

 「永遠」から「分離」されてしまったことば。それは秋亜綺羅のことばが「過去」(意味という構造、その無意識の歴史)を切断し、「現在」のなかに「肉体」だけをほうりだすのとは逆に、「現在」を見出すことができずに、そこにほうりだされている。
 佐伯のことばは、ことばでは書けないけれど「永遠」を知っている。ことばでは書けないので、佐伯は「永遠」という文字ではなく、「えいえん」という「音」を、いま、便宜上書いているだけなのである。そして、このことば(文字)として書けないことを「現在の不在」、「喪失感」と呼んでいる。「永遠」はある、ということを「現在」において、つまり、いま認識する。しかし、その認識はそれこそ永遠に、「永遠」とは結びつかない。つながらない。つながらないことだけが、「現在」から書くことのできることがらである。佐伯は「つながる・つながらない」ということばは書いていないが、この「つながり」の「不在」が「喪失」であり、「空洞」である。

 こんなことを延々と書いていると、何がなんだかわからなくなってしまう。言いなおそう。もっと簡単に断定してしまおう。
 秋亜綺羅のことばは人を「過去」から切り離し、現在のなかにほうりだし、そこからもう一度、肉体でことばを動かせ、と迫る。
 佐伯はそうではなく、永遠(これを「未来」と考えるとわかりやすい--マイケルのたどりつけない「未来」としての六十歳のようなものと考えるとわかりやすいかもしれない)からことばが切り離されているのだから、そのことばにとっては「現在」が存在しないことになる。「現在」はあくまで、「未来」とつながり、未来へ向かうことができるからこそ現在なのである。「未来」を失って、どうやって「現在」を生きることができる。「未来」を失えば「現在」は不在である。肉体は、その「空洞」のなかにほうりだされている。
 秋亜綺羅は、未来をそんなふうには考えない。ことばを縛りつける「過去」を切り捨てる。そうすると、そこには「過去」からの延長ではとらえることのできない「時間」、ほんとうの「未来」、「自由」が出現する。それを手に入れろ、と肉体を励ますのである。
 「空洞」「不在」のなかにほうりだされた「肉体」はどう生きることができるか。佐伯の向き合っているのは、そういう問題である。

狂気のおどり狂喜する(し )
視氏刺市志誌師次紙士史思指詞雌示子肢資歯至私梓仕嗣孜覗糸脂嗜摯賜
支使姿屍伺自施斯飼試茨四柿紫祇弛匙仔祀旨司始姉矢指此枝諮滓恣止翅

狂気の死
狂喜の詩

一分の狂いもなくおどりきる。
生ききる。

 「おどりきる」「生ききる」の「きる」。それは完遂するという意味の「きる」だが、それは「切る」という文字をあけることができる。そして、それは「つきる」「なくなる」という「意味」とも重複する。
 「不在」の「現在」、「空洞」としての「現在」。そのなかで、自己を「つかいきる」「つかいはたす」。残されている生き方(?)は、それしかない。「いのち」のあり方は、そういう燃焼といえばいいのか、消尽といえばいいのか、そういうものしかない。
 それは、どういうことなのか。実際には、どんなことなのか。
 ことばの例として、佐伯は「し」にいつくもの漢字を当てている。そこに書かれている「し」という文字が、すべての漢字であるかどうか私はしらないが、そんなふうにしてともかく自分がもっているものを、「いま」、ここで使い果たしてしまう。
 秋亜綺羅は「一回」で「過去」を切断するのだけれど、佐伯は果てし無く繰り返しながら「過去」を使い果たす。そうすると、過去がなくなり、「不在」の現在が「無」という形で「永遠」になるのかもしれない。

 「いま」につながる「過去」(知識)をつかいきる。そのとき「いま」に残されるのはなんだろう。「肉体」である。「過去」が使い果たされれば、「現在」というものもなくりる。「現在」を支える基盤がなくなる。宙ぶらりんの、一瞬の「とき」だけがあらわれる。それは、もしかすると「永遠」かもしれない。
 佐伯は、マイケルの生涯に、そういうまぼろしを見たのかもしれない。
 すべてを使い「きる」。そのとき、その「きる」という運動が「永遠」と交錯する。うーん。なにやら、バタイユを思い出してしまった。




果て
佐伯 多美子
思潮社

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