佐々木洋一『ここ、あそこ』(土曜美術出版、2010年09月30日発行)
詩の書き方のスタイルはいろいろある。スタイルといってもややこしいことではなくて、改行がある詩と散文詩、とか句読点のある詩とない詩、という目で見てわかるスタイルのことだけれど。きっとそれなりの理由があるのだと思うけれど、その理由はよくわからない。よくわからないからこそ、そこにいちばん大切なものがあるはずだ。無意識のうちに書き手をそんなふうに動かしてしまう力が、そのスタイルにあるはずだ。
佐々木洋一『ここ、あそこ』には1行空きの詩が何篇かある。1行空きと書いたが、佐々木は1行1連の詩と呼ぶかもしれない。
「門」という作品。
なぜ、1行空きにしたのか。そのことについて考えるには、1行空きではないスタイルにしてみないとわからない。
読むスピードがまったく違ってくる。私は単純なのか、1行空きがあると、そこでひと呼吸おいてしまう。黙読なのに、声に出したときのように、そのひと呼吸の時間だけ、1行空きの方が長くなる。そして、その長くなった時間の間に何をしているかといえば、私は何もしていない。前の行を反芻して意味を考えるか、この空白はいったい何なのだろうか、とか考えない。
ただぼんやりしている。
そして、そのぼんやりを繰り返した後ではじめて、あ、この空きは「ぼんやり」するためにあったのだなあ、と思う。行のつまった詩では「ぼんやり」できない。
「ぼんやり」というのは放心ということである。自分というものを考えない。またそこにあるものについても考えない。ただ、それがあるんだなあ、くらいの、それでどうしたといわれると答えがないような状態である。
そういうことがしたかったんだなあ。きっと佐々木は。それも一回限りではなく、繰り返し繰り返し、ぼんやりしたかったんだなあ、と思う。
そう思ったとき、詩のなかに
ということばが出てくる。あ、これが佐々木の「思想」だ、「肉体」だ、と思った。この1行は何もいっていない。なくても同じである。でも、佐々木は思わず書いてしまった。「くりかえし」と書かずに「わたしがあなた」/「あなたがわたし」/女の子が子猫になっり/子猫が女の子になったり、ということばを重ねればいい。
でも。
というのは、先に書いたことと矛盾するのだけれど、佐々木の「くりかえしくりかえし」はほんとうの繰り返しではないのだ。そこでは「くりかえし」があるようで、「くりかえし」がない。
「わたしがあなた」「わたしがあなた」「わたしがあなた」「わたしがあなた」というのがほんとうの繰り返しだ。佐々木のやっていることは、実は、ひとつの繰り返しではない。ふたつのことを往復すること、詩の中でつかわれていることばをつかえば、「行き来」することを「くりかえし」と言っている。
それは「ひとつ」になるためではない。「ひとつ」に統一するためではない。「わたしがあなた(である)」は、その1行自体が「わたし」と「あなた」という「ふたつ」を「ひとつ」にすることばであるが、佐々木はそういうことばを書きながらも「ひとつ」をめざしていない。「ふたつ」をめざしている。
佐々木にとって、世界とは「ひとつ」ではない。複数なのだ。そして、その複数を複数として納得するために、それぞれを「独立」させながら、そのあいだを行き来する。その行き来を「くりかえす」。
こういうことをするために、1行空きは必要なのだ。
詩の行が1行ずつ独立していないと、往復できない。往復を「くりかえす」ことができない。往復を繰り返し、「わたし」でも「あなた」でもないものになる。「わたし」という「枠」にしばられないもの--放心そのものになる。
1行空きの、その空白は「放心」そのものなのだ。
この私の読み方(誤読の仕方)では「群青色の男」は説明(?)がつかないことになる。そういう指摘があるかもしれない。
この詩では「群青色」が繰り返され、「海猫」が繰り返され、「海」が繰り返され、「悲しみ」が繰り返されている。そして、その繰り返しは「往復」ではない。むしろ、ある「ひとつ」の方向へむかっている。「ひとつ」になるためのリズムである。
特に、行を変えずに「悲しみを、悲しみを映したんだ」ということばは、「悲しみ」を強調し、「悲しみ」そのものになろうとする強い感情含んでいる。ここには「門」のような「ふたつ」が存在しない。
私が書いた「門」に対する感想は、見当違いということになる。誤読ということになる。
のだけれど。
私は、この詩でも、やはり1行空きは「ぼんやり」「放心」をめざしているのだと考えた。(感じた、というより考えた--つまり、ここでは私は少しむりをしながら、無理を承知でことばを動かしているのであるけれど……。)
この詩の1行空きは、「ぼんやり」「放心」をめざしてはいるのだけれど、それが「門」のようには佐々木をつつんでくれなかった。なぜなら、この詩の主人公「男」は
「悲しみ」を生きているからである。「悲しみ」というもの、その感情は「ひとつ」である。悲しくて悲しくて、こころが千々に乱れても、そのこころは「ひとつ」である。そういう状態が、「こころ」にはある。「こころ」は「ひとつ」でしかない。
だからこそ、そこから「ふたつ」への願いが生まれてくる。かなわぬ夢が生まれてくる。
「悲しみ」と、それがつくりあげる「ひとつ」によって、1行空きの形式は「形式」として存在するだけで、往復(行き来)という運動の「場」になっていないが、そのことが逆に佐々木のほんとうの祈り(思想)を浮かび上がらせる。「悲しみ」のなかで「ひとつ」になってしまうのではなく、「わたし」と「あなた」という「ふたつ」を「くりかえしくりかえし」行き来する--そして、その往復の中で「ぼんやり」「放心」して生きる。その「ぼんやり」「放心」は、愛、ということかもしれないが。
「ぼんやり」とか「ほうしん」とか、何もしないときにこそ、そこに「思想」があるのだ。
詩の書き方のスタイルはいろいろある。スタイルといってもややこしいことではなくて、改行がある詩と散文詩、とか句読点のある詩とない詩、という目で見てわかるスタイルのことだけれど。きっとそれなりの理由があるのだと思うけれど、その理由はよくわからない。よくわからないからこそ、そこにいちばん大切なものがあるはずだ。無意識のうちに書き手をそんなふうに動かしてしまう力が、そのスタイルにあるはずだ。
佐々木洋一『ここ、あそこ』には1行空きの詩が何篇かある。1行空きと書いたが、佐々木は1行1連の詩と呼ぶかもしれない。
「門」という作品。
門の内で
女の子と子猫が会話している
わたぼうしが行き来し
会話に耳を傾けている
「わたしがあなた」
「あなたがわたし」
女の子が子猫になったり
子猫が女の子になったり
くりかえしくりかえし
「ニャアがニャアニャア」
「ニャアニャアがニャア」
門の外では
相変わらず
わたしがあなたを
あなたがわたしを
狙っている
なぜ、1行空きにしたのか。そのことについて考えるには、1行空きではないスタイルにしてみないとわからない。
門の内で
女の子と子猫が会話している
わたぼうしが行き来し
会話に耳を傾けている
「わたしがあなた」
「あなたがわたし」
女の子が子猫になったり
子猫が女の子になったり
くりかえしくりかえし
「ニャアがニャアニャア」
「ニャアニャアがニャア」
門の外では
相変わらず
わたしがあなたを
あなたがわたしを
狙っている
読むスピードがまったく違ってくる。私は単純なのか、1行空きがあると、そこでひと呼吸おいてしまう。黙読なのに、声に出したときのように、そのひと呼吸の時間だけ、1行空きの方が長くなる。そして、その長くなった時間の間に何をしているかといえば、私は何もしていない。前の行を反芻して意味を考えるか、この空白はいったい何なのだろうか、とか考えない。
ただぼんやりしている。
そして、そのぼんやりを繰り返した後ではじめて、あ、この空きは「ぼんやり」するためにあったのだなあ、と思う。行のつまった詩では「ぼんやり」できない。
「ぼんやり」というのは放心ということである。自分というものを考えない。またそこにあるものについても考えない。ただ、それがあるんだなあ、くらいの、それでどうしたといわれると答えがないような状態である。
そういうことがしたかったんだなあ。きっと佐々木は。それも一回限りではなく、繰り返し繰り返し、ぼんやりしたかったんだなあ、と思う。
そう思ったとき、詩のなかに
くりかえしくりかえし
ということばが出てくる。あ、これが佐々木の「思想」だ、「肉体」だ、と思った。この1行は何もいっていない。なくても同じである。でも、佐々木は思わず書いてしまった。「くりかえし」と書かずに「わたしがあなた」/「あなたがわたし」/女の子が子猫になっり/子猫が女の子になったり、ということばを重ねればいい。
でも。
というのは、先に書いたことと矛盾するのだけれど、佐々木の「くりかえしくりかえし」はほんとうの繰り返しではないのだ。そこでは「くりかえし」があるようで、「くりかえし」がない。
「わたしがあなた」「わたしがあなた」「わたしがあなた」「わたしがあなた」というのがほんとうの繰り返しだ。佐々木のやっていることは、実は、ひとつの繰り返しではない。ふたつのことを往復すること、詩の中でつかわれていることばをつかえば、「行き来」することを「くりかえし」と言っている。
それは「ひとつ」になるためではない。「ひとつ」に統一するためではない。「わたしがあなた(である)」は、その1行自体が「わたし」と「あなた」という「ふたつ」を「ひとつ」にすることばであるが、佐々木はそういうことばを書きながらも「ひとつ」をめざしていない。「ふたつ」をめざしている。
佐々木にとって、世界とは「ひとつ」ではない。複数なのだ。そして、その複数を複数として納得するために、それぞれを「独立」させながら、そのあいだを行き来する。その行き来を「くりかえす」。
こういうことをするために、1行空きは必要なのだ。
詩の行が1行ずつ独立していないと、往復できない。往復を「くりかえす」ことができない。往復を繰り返し、「わたし」でも「あなた」でもないものになる。「わたし」という「枠」にしばられないもの--放心そのものになる。
1行空きの、その空白は「放心」そのものなのだ。
この私の読み方(誤読の仕方)では「群青色の男」は説明(?)がつかないことになる。そういう指摘があるかもしれない。
男は、群青色が好きなんだ
立ち上がって、腕を開いた
群青色がその中から、飛び立った
海猫のように
海猫の背後の、海のように
海の広さの、果てのように
男はね、それから帆のようにはためこうと思ったが
海の底から、群青色の深さが群がり
男のね、悲しみを、悲しみを映したんだ
この詩では「群青色」が繰り返され、「海猫」が繰り返され、「海」が繰り返され、「悲しみ」が繰り返されている。そして、その繰り返しは「往復」ではない。むしろ、ある「ひとつ」の方向へむかっている。「ひとつ」になるためのリズムである。
特に、行を変えずに「悲しみを、悲しみを映したんだ」ということばは、「悲しみ」を強調し、「悲しみ」そのものになろうとする強い感情含んでいる。ここには「門」のような「ふたつ」が存在しない。
私が書いた「門」に対する感想は、見当違いということになる。誤読ということになる。
のだけれど。
私は、この詩でも、やはり1行空きは「ぼんやり」「放心」をめざしているのだと考えた。(感じた、というより考えた--つまり、ここでは私は少しむりをしながら、無理を承知でことばを動かしているのであるけれど……。)
この詩の1行空きは、「ぼんやり」「放心」をめざしてはいるのだけれど、それが「門」のようには佐々木をつつんでくれなかった。なぜなら、この詩の主人公「男」は
「悲しみ」を生きているからである。「悲しみ」というもの、その感情は「ひとつ」である。悲しくて悲しくて、こころが千々に乱れても、そのこころは「ひとつ」である。そういう状態が、「こころ」にはある。「こころ」は「ひとつ」でしかない。
だからこそ、そこから「ふたつ」への願いが生まれてくる。かなわぬ夢が生まれてくる。
「悲しみ」と、それがつくりあげる「ひとつ」によって、1行空きの形式は「形式」として存在するだけで、往復(行き来)という運動の「場」になっていないが、そのことが逆に佐々木のほんとうの祈り(思想)を浮かび上がらせる。「悲しみ」のなかで「ひとつ」になってしまうのではなく、「わたし」と「あなた」という「ふたつ」を「くりかえしくりかえし」行き来する--そして、その往復の中で「ぼんやり」「放心」して生きる。その「ぼんやり」「放心」は、愛、ということかもしれないが。
「ぼんやり」とか「ほうしん」とか、何もしないときにこそ、そこに「思想」があるのだ。
アンソロジー 佐々木洋一 (現代詩の10人) | |
佐々木 洋一 | |
土曜美術社出版販売 |