金井雄二「円」(「独合点」103 、2010年09月20日発行)
きのう齋藤健一「中旬の日」の感想を書いている途中で、金井雄二「円」を思い出した。対極の位置にあるものとして、ふっと見えてきたのである。齋藤の肉体が、ぎりぎりのところでいのちと向き合っているのに対して、金井の肉体は肉体があることを忘れてしまっている。人間に肉体があるのはあまりに当然のことなので、いちいち意識しないのである。
「円」の全行。
最終行が象徴的である。「手」がぶつかるとは想像しなかった。自分に肉体があり、他人に肉体があり、それがぶつかるということが考えられていない。それだけ無意識なのである。健康な肉体は、そのまま思想として「あたりまえ」なのである。
こういうとき、ことばもまた自然な「肉体」で動いていく。
「お姉ちゃん」のお茶碗と前にでてくるが、手がぶつかるときは「お姉ちゃん」ではなく「姉ちゃん」になる。敬称というとおおげさになるけれど、まあ、ちょっとした尊敬、「お姉ちゃん」は弟の「ぼく」より偉い。だから「お姉ちゃん」。でも、肉体と肉体がぶつかったとき、そういう「形式的な精神」は瞬間的に消える。「お」が消えて、「姉ちゃん」になる。「お」姉ちゃんを立てる(?)前に、ぼくの「肉体」が前に出るのである。この動きがいいなあ。
「お姉ちゃん」「妹」という対比もいいし、お姉「ちゃん」に対して両親はお母「さん」お父「さん」というものいい。
これは「意識」とは呼ぶことのできない無意識--しっかりと肉体と一体化した精神である。ここでは肉体も精神も「意識」されずに動いている。別なことばで言うと、「意識」、あるいはことばはけっして「自分」へ帰って来ない。外へ外へと動いていく。(外ではアブラゼミ)の「外」へ、動いていく。姉の手とぼくの手がぶつかったときでさえ、ぼくの意識はぼくへは引き返さない。「姉ちゃん」と「お」を捨てるようにして、「姉ちゃん」そのものさえも払いのけようとしている。自己保存というとおおげさ過ぎるけれど、この本能のような肉体とことばの動きが肯定されている世界で、
あ、この行が美しい。すべてを圧倒している。肉体も精神も関係ない。そこには「もの」があり、「おいしい」がある。それを囲んで家族は「円」になる。そして無意識の肉体にとって、外はアブラゼミが鳴いている家の外だけではなく、家族が囲む丸いちゃぶ台もまた「外」である。その「外」で肉体がぶつかり、肉体が当然の権利として自己主張する。
まあ、その自己主張がとおるかどうかについては金井は書いていないが、それが通らなかったりするから人間はおもしろい。ことばは、そこからまた動いていかなければならなくなる。
家族、家庭は、たしかに最初の、最小の「世界」だね。
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きのう齋藤健一「中旬の日」の感想を書いている途中で、金井雄二「円」を思い出した。対極の位置にあるものとして、ふっと見えてきたのである。齋藤の肉体が、ぎりぎりのところでいのちと向き合っているのに対して、金井の肉体は肉体があることを忘れてしまっている。人間に肉体があるのはあまりに当然のことなので、いちいち意識しないのである。
「円」の全行。
白っぽい縁の
安っぽいお茶碗に
たきたてごはん
お母さんがお父さんに
ごはんを盛る
お茶碗にはごはんがつまってきらきら
木のお椀には
みそ汁が踊り
(外ではアブラゼミ)
お父さんのお茶碗
お姉ちゃんのお茶碗
ぼくのお茶碗
妹のお茶碗
そしてお母さんのお茶碗
ごはんがあって
(外ではアブラゼミ)
しょうゆを取ろうとしたときに
姉ちゃんの手とぼくの手が真ん中でぶつかった
最終行が象徴的である。「手」がぶつかるとは想像しなかった。自分に肉体があり、他人に肉体があり、それがぶつかるということが考えられていない。それだけ無意識なのである。健康な肉体は、そのまま思想として「あたりまえ」なのである。
こういうとき、ことばもまた自然な「肉体」で動いていく。
「お姉ちゃん」のお茶碗と前にでてくるが、手がぶつかるときは「お姉ちゃん」ではなく「姉ちゃん」になる。敬称というとおおげさになるけれど、まあ、ちょっとした尊敬、「お姉ちゃん」は弟の「ぼく」より偉い。だから「お姉ちゃん」。でも、肉体と肉体がぶつかったとき、そういう「形式的な精神」は瞬間的に消える。「お」が消えて、「姉ちゃん」になる。「お」姉ちゃんを立てる(?)前に、ぼくの「肉体」が前に出るのである。この動きがいいなあ。
「お姉ちゃん」「妹」という対比もいいし、お姉「ちゃん」に対して両親はお母「さん」お父「さん」というものいい。
これは「意識」とは呼ぶことのできない無意識--しっかりと肉体と一体化した精神である。ここでは肉体も精神も「意識」されずに動いている。別なことばで言うと、「意識」、あるいはことばはけっして「自分」へ帰って来ない。外へ外へと動いていく。(外ではアブラゼミ)の「外」へ、動いていく。姉の手とぼくの手がぶつかったときでさえ、ぼくの意識はぼくへは引き返さない。「姉ちゃん」と「お」を捨てるようにして、「姉ちゃん」そのものさえも払いのけようとしている。自己保存というとおおげさ過ぎるけれど、この本能のような肉体とことばの動きが肯定されている世界で、
みそ汁が踊り
あ、この行が美しい。すべてを圧倒している。肉体も精神も関係ない。そこには「もの」があり、「おいしい」がある。それを囲んで家族は「円」になる。そして無意識の肉体にとって、外はアブラゼミが鳴いている家の外だけではなく、家族が囲む丸いちゃぶ台もまた「外」である。その「外」で肉体がぶつかり、肉体が当然の権利として自己主張する。
まあ、その自己主張がとおるかどうかについては金井は書いていないが、それが通らなかったりするから人間はおもしろい。ことばは、そこからまた動いていかなければならなくなる。
家族、家庭は、たしかに最初の、最小の「世界」だね。
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