齋藤健一「中旬の日」(「乾河」59、2010年10月01日発行)
齋藤健一「中旬の日」を繰り返し読んでしまった。読んでしまった、というのは変な言い方かもしれないが、書き出しがとても好きである。
入院している生活であろう。「水が流れている。海はここから遠い。屋上に。あがることができない。」の「屋上に。」の句点「。」が私にはとても美しく見える。感じられる。そのために繰り返し繰り返し読んだ。全部の行をではなく、「水が流れている。海はここから遠い。屋上に。あがることができない。」ばかりを繰り返し読んでしまったのだ。
ふつうの、つまり「学校教科書」の文法では屋上に「、」あがることができない。句点「。」ではなく読点、」と書くべきところを齋藤は句点「。」にしている。そこでは「ひと呼吸」よりも深い、いわば「深呼吸」の間がある。
そして、その「深呼吸」に「海」がやってくる。深呼吸する胸の中にある「海」を齋藤は肉眼で見ようとしている。水--たぶん近くにある蛇口からにおう水のにおいが、齋藤に広い広い海を思い出させる。それを、「思い出」ではなく、肉眼で見ようとして、ゆっくり、確実に深呼吸する。胸そのものを実感するようにして深々と呼吸する。
そのリズム。
そのリズムのなかだけに、海が見えるのだ。
屋上にあがることを諦め、屋上から見える海を、思うのではなく、「見る」。そういう肉眼を、自分の肉体の中から引き出すための、深呼吸。句点「。」である。
その海が見えたから齋藤は動きだすのか。見えななくとも、動きだせば、その動く肉体、肉体の動きの中に、海と響きあうものが生まれるはずである。「肉眼」はそれを見てしまう。齋藤の眼が見るのは「父が忘れた古い眼鏡のひかり」というように、細部にかぎられているけれど、「肉眼」は「海」を見てしまう。見えないものを見てしまう。そして、「肉眼」は、その「見えないもの」の先に満開の桜--ではなく「むかえる」という美しい「時間の充実」を見る。
ここに書かれている「深呼吸」は「充実の時間」に変わるのである。
その充実を共有したくて、私は何度も何度も同じ部分を読み返してしまった。
「海岸線」にも、はっとする美しいことばがある。
書き出しの、「色は白く。見える。」にも齋藤ならではの句点「。」がある。「白く。」ということばまでは、色覚が齋藤を支配している。それを齋藤は「見える。」ということばと、深呼吸を挟んで結びつける。ひとつの決意のようにして結びつける。「見える」(見る)ということばは、色覚の「白」よりも一歩深く「肉眼」とかかわる。「白い。」だけなら齋藤が見なくても「白い」。その「白」を「肉眼」に、「肉体」に奪ってくる。そのとき、「肉体」がいのちをもつ。「肉体」がいのちを実感する。
そして、そこに「肉体」のいのちが生きているからこそ、そのあとの「長靴のゴム底に寒い気圧が伝染する。」の「伝染する」という動詞がなまなましく動く。あざやかに動く。あまりのあざやかさに、ほんらい「美しい」ことではないのに、それを美しいと感じてしまう。
現実ではない。文学が、このとき生きている。詩が生きている。
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齋藤健一「中旬の日」を繰り返し読んでしまった。読んでしまった、というのは変な言い方かもしれないが、書き出しがとても好きである。
水が流れている。海はここから遠い。屋上に。あがるこ
とができない。しかしぼくは歩くために起きる。オシキ
フルの揺れる朝七時。枕元へひろがる看護師の小さな微
笑と。蛇口へちかづく。三角形のレバー。父が忘れた古
い眼鏡のひかり。床に踵を突く。桜はもうじきに満開を
むかえるのである。
入院している生活であろう。「水が流れている。海はここから遠い。屋上に。あがることができない。」の「屋上に。」の句点「。」が私にはとても美しく見える。感じられる。そのために繰り返し繰り返し読んだ。全部の行をではなく、「水が流れている。海はここから遠い。屋上に。あがることができない。」ばかりを繰り返し読んでしまったのだ。
ふつうの、つまり「学校教科書」の文法では屋上に「、」あがることができない。句点「。」ではなく読点、」と書くべきところを齋藤は句点「。」にしている。そこでは「ひと呼吸」よりも深い、いわば「深呼吸」の間がある。
そして、その「深呼吸」に「海」がやってくる。深呼吸する胸の中にある「海」を齋藤は肉眼で見ようとしている。水--たぶん近くにある蛇口からにおう水のにおいが、齋藤に広い広い海を思い出させる。それを、「思い出」ではなく、肉眼で見ようとして、ゆっくり、確実に深呼吸する。胸そのものを実感するようにして深々と呼吸する。
そのリズム。
そのリズムのなかだけに、海が見えるのだ。
屋上にあがることを諦め、屋上から見える海を、思うのではなく、「見る」。そういう肉眼を、自分の肉体の中から引き出すための、深呼吸。句点「。」である。
その海が見えたから齋藤は動きだすのか。見えななくとも、動きだせば、その動く肉体、肉体の動きの中に、海と響きあうものが生まれるはずである。「肉眼」はそれを見てしまう。齋藤の眼が見るのは「父が忘れた古い眼鏡のひかり」というように、細部にかぎられているけれど、「肉眼」は「海」を見てしまう。見えないものを見てしまう。そして、「肉眼」は、その「見えないもの」の先に満開の桜--ではなく「むかえる」という美しい「時間の充実」を見る。
ここに書かれている「深呼吸」は「充実の時間」に変わるのである。
その充実を共有したくて、私は何度も何度も同じ部分を読み返してしまった。
「海岸線」にも、はっとする美しいことばがある。
色は白く。見える。雀の頭がみぞれの中で動く。急ぐよ
うにしてペダルは回る。長靴のゴム底に寒い気圧が伝染
する。
書き出しの、「色は白く。見える。」にも齋藤ならではの句点「。」がある。「白く。」ということばまでは、色覚が齋藤を支配している。それを齋藤は「見える。」ということばと、深呼吸を挟んで結びつける。ひとつの決意のようにして結びつける。「見える」(見る)ということばは、色覚の「白」よりも一歩深く「肉眼」とかかわる。「白い。」だけなら齋藤が見なくても「白い」。その「白」を「肉眼」に、「肉体」に奪ってくる。そのとき、「肉体」がいのちをもつ。「肉体」がいのちを実感する。
そして、そこに「肉体」のいのちが生きているからこそ、そのあとの「長靴のゴム底に寒い気圧が伝染する。」の「伝染する」という動詞がなまなましく動く。あざやかに動く。あまりのあざやかさに、ほんらい「美しい」ことではないのに、それを美しいと感じてしまう。
現実ではない。文学が、このとき生きている。詩が生きている。
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