吉岡誠二『森の泉』(アビアランス工房、2010年08月10日発行)
吉岡誠二『森の泉』は感想を書こうかどうしようか、迷った詩集である。吉岡の書いていることばには、いわゆる思想のことばが混じりこんでいる。それも露骨に、誰が見てもわかる形で書かれている。私は、そういうことばに詩を感じることができない。
「追想」という作品。
吉岡にとって重要なことは「意味」を「知る」ことなのだと思う。「意味」を「知る」ことは思想を身につけることであり、その思想から世界を見つめなおしたときに動くことばが吉岡にとっての詩なのだろう。
そうなのかもしれないけれど、私はそういうことばの運動には疑問を持っている。いや、正確ではないなあ、こういう言い方は。
もし、吉岡のめざしているものがそういうものであると仮定して、それでも私には疑問が残ると言い換えるべきなのかもしれない。
ハイデガーのことば、仏教の概念--そういうものを「知る」というとき、吉岡は何をとおして「知る」のだろうか。私は、「意味」を「知る」と吉岡が書いているとき、そこに「肉体」を感じることができない。「頭」だけを感じてしまう。「頭」のなかだけで動いて、「頭」のなかで完結することば。
それは、「現実の負荷を帯び」ていないことばなのだろう。
私は、「肉体」の負荷を帯びていない、と言い換えたい気持ちにかられているけれど……。
私は、そういうものには、どうもついていけない。そこに詩があるとは思えない。そんな「透明」なことばの運動に詩を感じることができない。
ハイデッガーのことば、「投企する」だの「世界開在性」だの「現存在」だのということばは、とてもかわったことばである。そのことばにたどりつくまで、ハイデッガーはいろいろな体験をし、彼自身の肉体を酷使していると思う。その肉体を吉岡はどう追体験したのか。どう吸収したのか。それが感じられないのである。
「意味」は「知る」ものではなく、「肉体」のなかに吸収して、それが何であるかわからなくなるものであると、私は思っている。
野菜を食べる。肉を食べる。それはどんなふうにして「肉体」のなかで私たちの筋肉になり、血になり、骨になるのか、まったくわからない。その「わからない」に達したとき、ほんとうに野菜を食べた、肉を食べたという状態になるのだと思う。
ことばも、そういうものでなければならないと私は思っている。
誰のことばであってもいいけれど、そしてそれがどんなに先駆的なことばであったとしても、その「意味」を「知る」というのは、「生きる」ということとはあまり関係がないなあ、と思う。詩とは関係がないなあ、と思う。
吉岡は、ことばを、ことばそのものとして「意味」にしている。そして、自分はこれだけ「意味」を知っている。それは、これだけ「世界」を知っているということと同じである--と考えるのかもしれない。
たしかに、知っているのだろうなあ。
けれども、吉岡が知っていることなど、私は別に知りたくない。特に、それがハイデッガーのことばそのままなら、吉岡ではなく、ハイデッガーを読んだ方がいいかなあ、と思う。(難しい本は苦手なので、私は、きっと読まないだろうけれど……。)
私は、むしろ吉岡の知らないことばを読みたい。いま書いていることばが何を書いているのかわからない、ということばを読みたい。
別な言い方をしてみよう。「森の泉」という作品。
吉岡は「美しい」の「意味」を「知っている」。「意味」を「知っている」から、「美しい」と書けば、その「意味」がそのことばのなかからあふれてくる、そして読者に(たとえば私に)伝わると考えている。
でも、そうじゃなんだ。
吉岡がどれだけ知っていようと、それは吉岡の「頭」のなかで完結しているので、私にはぜんぜん見えてこない。吉岡が「美しい」ということばで「美しい」を追いかけているという運動しか見えてこない。
「意味」は見えない、触れない。そういうものを、ことばだけで追いかける吉岡に私はついてはいけない。「美しい」ということばの「意味」が、吉岡と私とでは同じであるという保証はどこにもない。
「意味」ではなく、「もの」が私は見たいのだ。
ちょっともとに戻って言いなおすと……。
たとえばハイデッガーのことば「投企する」ということばの「意味」。その「意味」が吉岡の知っているものと、私がかってに想像しているもの(ハイデッガーなんて、私は読んでいないので、勝手に想像する)が同じであるという保証はどこにもない。吉岡の知っている「意味」は、他の人が知っている「意味」ともまったく違うかもしれない。あることばの「意味」が同じであるという保証はどこにもない。
それなのに「知っている」(知る)ということを出発点にされても、私にはどうしていいのかわからない。
「頭」で書く詩人は吉岡以外にも大勢いるように私には感じられる。そういう詩人のことばは、私には、よくわからない。詩を感じることができない。

吉岡誠二『森の泉』は感想を書こうかどうしようか、迷った詩集である。吉岡の書いていることばには、いわゆる思想のことばが混じりこんでいる。それも露骨に、誰が見てもわかる形で書かれている。私は、そういうことばに詩を感じることができない。
「追想」という作品。
現実の世界で通用する言葉を自分に禁じた 自分の使う言葉は現実の負荷を一切帯びず別の負荷を帯びた言葉 真っ白な言葉あるいは余分な重力を帯びた言葉だと感じ続けた この体験が実は仏教の空の体験と同じものであるらしいことを ハイデッガーの現象学的還元と同種のものであるらしいことを やがてようやく知った 自己を投企するという言葉の意味 世界開在性 現存在(ダーザイン)という言葉の意味を知った
吉岡にとって重要なことは「意味」を「知る」ことなのだと思う。「意味」を「知る」ことは思想を身につけることであり、その思想から世界を見つめなおしたときに動くことばが吉岡にとっての詩なのだろう。
そうなのかもしれないけれど、私はそういうことばの運動には疑問を持っている。いや、正確ではないなあ、こういう言い方は。
もし、吉岡のめざしているものがそういうものであると仮定して、それでも私には疑問が残ると言い換えるべきなのかもしれない。
ハイデガーのことば、仏教の概念--そういうものを「知る」というとき、吉岡は何をとおして「知る」のだろうか。私は、「意味」を「知る」と吉岡が書いているとき、そこに「肉体」を感じることができない。「頭」だけを感じてしまう。「頭」のなかだけで動いて、「頭」のなかで完結することば。
それは、「現実の負荷を帯び」ていないことばなのだろう。
私は、「肉体」の負荷を帯びていない、と言い換えたい気持ちにかられているけれど……。
私は、そういうものには、どうもついていけない。そこに詩があるとは思えない。そんな「透明」なことばの運動に詩を感じることができない。
ハイデッガーのことば、「投企する」だの「世界開在性」だの「現存在」だのということばは、とてもかわったことばである。そのことばにたどりつくまで、ハイデッガーはいろいろな体験をし、彼自身の肉体を酷使していると思う。その肉体を吉岡はどう追体験したのか。どう吸収したのか。それが感じられないのである。
「意味」は「知る」ものではなく、「肉体」のなかに吸収して、それが何であるかわからなくなるものであると、私は思っている。
野菜を食べる。肉を食べる。それはどんなふうにして「肉体」のなかで私たちの筋肉になり、血になり、骨になるのか、まったくわからない。その「わからない」に達したとき、ほんとうに野菜を食べた、肉を食べたという状態になるのだと思う。
ことばも、そういうものでなければならないと私は思っている。
誰のことばであってもいいけれど、そしてそれがどんなに先駆的なことばであったとしても、その「意味」を「知る」というのは、「生きる」ということとはあまり関係がないなあ、と思う。詩とは関係がないなあ、と思う。
吉岡は、ことばを、ことばそのものとして「意味」にしている。そして、自分はこれだけ「意味」を知っている。それは、これだけ「世界」を知っているということと同じである--と考えるのかもしれない。
たしかに、知っているのだろうなあ。
けれども、吉岡が知っていることなど、私は別に知りたくない。特に、それがハイデッガーのことばそのままなら、吉岡ではなく、ハイデッガーを読んだ方がいいかなあ、と思う。(難しい本は苦手なので、私は、きっと読まないだろうけれど……。)
私は、むしろ吉岡の知らないことばを読みたい。いま書いていることばが何を書いているのかわからない、ということばを読みたい。
別な言い方をしてみよう。「森の泉」という作品。
あなたが森を歩いていく。あなたの美し
い存在そのものが、世界の苦悩のあかし。
あなたの静かな歩みが、あなたの悲しみを
めざめさせ、森の美しさをしみじみと心に
悟らせる。あふれる涙がこの泉をつくった
のだ。
吉岡は「美しい」の「意味」を「知っている」。「意味」を「知っている」から、「美しい」と書けば、その「意味」がそのことばのなかからあふれてくる、そして読者に(たとえば私に)伝わると考えている。
でも、そうじゃなんだ。
吉岡がどれだけ知っていようと、それは吉岡の「頭」のなかで完結しているので、私にはぜんぜん見えてこない。吉岡が「美しい」ということばで「美しい」を追いかけているという運動しか見えてこない。
「意味」は見えない、触れない。そういうものを、ことばだけで追いかける吉岡に私はついてはいけない。「美しい」ということばの「意味」が、吉岡と私とでは同じであるという保証はどこにもない。
「意味」ではなく、「もの」が私は見たいのだ。
ちょっともとに戻って言いなおすと……。
たとえばハイデッガーのことば「投企する」ということばの「意味」。その「意味」が吉岡の知っているものと、私がかってに想像しているもの(ハイデッガーなんて、私は読んでいないので、勝手に想像する)が同じであるという保証はどこにもない。吉岡の知っている「意味」は、他の人が知っている「意味」ともまったく違うかもしれない。あることばの「意味」が同じであるという保証はどこにもない。
それなのに「知っている」(知る)ということを出発点にされても、私にはどうしていいのかわからない。
「頭」で書く詩人は吉岡以外にも大勢いるように私には感じられる。そういう詩人のことばは、私には、よくわからない。詩を感じることができない。
