詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」(★★★★★)

2010-10-15 22:35:07 | 映画
監督・脚本 アスガー・ファルハディ 出演 ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ

 イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミが有名である。映像が非常に美しい。アッバス・キアロスタミを見ていたときは、なぜこんなに映像が美しいのか、その秘密がわからなかった。そして、きょう、アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」を見て、その秘密がわかったような気がした。アッバス・キアロスタミとアスガー・ファルハディは別人だから、アスガー・ファルハディを見てアッバス・キアロスタミがわかるというのは奇妙なことだが、共通のものを感じたのだ。
 想像力だ。
 映像が美しいのは、その映像に語るものが欠如しているからだ。欠如を想像力が補う。それは現実よりも想像力の世界の方が「完璧」である、「美しさにおいて完璧である」ということにつながる。
 この映画で私がいちばん好きなシーンはエリが凧揚げをするシーンである。それから、溺れたこども、行方不明になったエリを探す海のシーンも大好きである。そのシーンに共通することは、映像が不完全であるということである。
 エリが凧揚げをするシーンでは、エリと凧は1シーンのなかでは登場しない。エリは凧の糸をもっているが、凧まではいっしょに映らない。かわりに太陽の光のまぶしさと、海の濁った色と、波の音があふれる。凧の欠如を、海、波、音、風の過剰が補うのである。いや、補うを越えて、別の世界に独立して存在させるのである。
 凧はエリの姿とは切り離され、独立して、空中にはためく。それは風を受けてしなり、風を切る音を響かせている。それはほんとうに空に舞い上がった凧なのだが、それ以上にエリのこころのなかで、つまり想像力の世界ではためく凧なのだ。
 現実を越えて、想像力は「完璧な美しさ」を人間にもたらすのである。エリは、この瞬間、その美しさを見ている。糸によってエリと凧はつながっているが、それ以上に想像力がエリと凧をつないでいるのだ。荒々しい海、波、風ははためく凧の姿のなかで、完璧な美に昇華するのだ。
 これは幸福な想像力であり、幸福な「美しさ」である。
 一方、おぼれた子供を探して海を泳ぐシーン。どこにいるかわからないエリを探して海に人間が入っていくシーン、泳ぐシーンは、まったく逆の姿をみせる。想像力は空に舞う凧のように完結しない。「美しさ」となって結晶しない。かわりに、想像力を阻む過剰な水、暴れる波、自然という剥き出しの「現実」が押し寄せる。想像力を、それこそ「飲み込む」。飲み込んでしまう。--そして、その想像力を完璧に拒まれた映像、過剰な現実の力が暴れるシーンも、不思議なことにとても美しいのだ。
 人間を拒む自然があり、それが現実である。そう知っていても、そうわかっていても、それに人間は想像力をぶつけてしまう。想像力は、はね返され、たたきこわされるのだが、その瞬間に、不思議な美しさがある。剥き出しの世界が、いつでも、そこに存在するという美しさである。不幸な(?)美しさである。--想像力にとっては。
 世界は想像力によっては成り立っていない。そして、現実だけでも成り立っていないのだ。現実の存在と想像力がぶつかり合いながら、そのぶつかり合いのなかに、幾種類もの世界を出現させるのだ。そのあらわれ方は無限である。--イランの監督たちは、その「無限」というものを知っている。
 「千夜一夜」の「千」を知っているのだ。
 そして、この「千」が、つまり想像力と現実がぶつかりあってあらわれる世界が「無限」であるという哲学が、映画全体を動かしていく。

 エリって、だれ? どういう生活をしている? 何を考えている? 何を感じている? エリが行方不明になった。だれに知らせたらいい? 警察にはなんと説明すればいいのだろう。
 そういうことを考えはじめたとき、登場人物ひとりひとりの「現実」が浮かび上がってくる。
 エリはエリが空高く舞わせていた凧である。エリの完璧な姿を想像しながら、登場人物のひとりひとりは、彼自身の現実に飲み込まれていく--彼らを飲み込む現実が、エリを飲み込んだ海のように彼らを飲み込み、手におえない巨大な「水の塊」、「海のはらわた」のような現実を見せつける。
 だれのせい? なぜ隠す? 隠す理由は? なぜ嘘をつく?
 親しかった仲間の関係が崩れていく。愛し合っているはずの夫婦の関係が、憎しみという形で「完璧」になる。楽しみは悲しみに、悲しみは絶望に……。
 それは、見つめることしかできない「存在」である。自分を拒絶してくるものがある。そういうものがあるということを、受け入れ、見つめる。そこから自分自身の想像力を点検するしかないのである。
 そういう人間の運動を、イランの監督たちは映像と、そして音でくっきりと再現する。想像力を排除し、想像力を浮き彫りにするのである。
 知っていること、わかることは「世界」の一部である。だから、いつでも「世界」を一部として切り取る。
 スクリーンにエリが映る。凧をあげているようだが、凧は見えない。浜辺を走り回って風をつかもうとしているが、エリの走っている方向もわからない。向きを変えるのでまっすぐではないということだけがわかる。少年を、エリを探して人が海を泳ぐ。濁った水のなかをもぐる。そのスクリーンサイズの現実。その周囲に、その外にこそ世界はあるのだが、人間が向き合うことができるのは、いま、肉眼がとらえることのできる「事実」だけである。想像力は排除され、想像せよ、と呼びかけられている。

 想像力を排除せよ、そして想像せよ、--アッバス・キアロスタミも、アスガー・ファルハディも、そういう「矛盾」を強烈にぶつけてくる。だから、美しい。あらゆる美しさが絶対的に孤立して、孤立することで、存在の核に触れるのだ。





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田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(2)

2010-10-15 00:00:00 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(2)(書肆山田、2010年10月10日発行)

 きのうの、田中宏輔『The Wasteless Land. V 』の感想は、かなり中途半端で終わったかもしれない。私は目が悪いので1日に(1回に)書ける時間が限られている。一休みしてつづきを書こうとしたら、つづきが違ったものになってしまう。だから、中途半端でも時間内に書き終わったところで終わりにしてしまうのだ。
 と、書きながら、つづきを書いてしまう。
 いや、つづきかどうかわからないけれど、もう少し田中宏輔の詩について書いてみる。どんなにかけ離れたことを書いても、テキストがひとつなのだからそんなに遠くへは行かないだろう。きのう書いたこととどこかつながっているだろう。

 思想というものを考えるとき、私は、カントだとかデリダだとかマルクスだとか--そういうひとたちのうことばが出てくる文章がよくわからないからついつい敬遠してしまう。そういう「学校教科書」の「哲学」(思想)は、それはそれで意味があると思うが、私にはぴんとこない。
 そういうものとは違うところに、ひとの思想はあると思う。カントやデリダの思想は彼らのことばのなかにあるけれど、それは簡単には他人の思想にはならない。彼ら独自のものであって、それをどこかに引用しても、それは違ったものになってしまう、と思っている。

 で、これならわかる--というものだけを、私は勝手に「思想」と呼んでいる。たとえば田中宏輔の今度の詩集のなかに思想。それは「そだよ。」ということばにあらわれている。「そだよ。」が田中の肉体そのものである。これはもちろん「そうだよ。」がつまったことばである。口語である。肉体になってしまったことばである。
 変形バージョンに「そなの?」がある。
 「そだよ。」と「そなの?」は反対のことばの動き、肯定と疑問(反論?)に見えるが、ねっこは同じである。その根っこは、簡単にいってしまえば、前に話されたことばをきちんと引き継ぐということである。だれかが何かをいう。それに対して肯定するときは「そだよ。」になり、疑問を感じたり反論をいうときの出発点が「そなの?」になる。
 この、先行することばを引き継ぐというのは、相手に対する愛なのだ。無視しない。しっかり受け止める。受け止めた上で、自分のことばを動かす。どこだったか忘れたが、詩集のなかに、相手の目を見ないで言ってしまったことばがあって、それを申し訳ないと田中が思っているという数行があったが、相手をしっかり見て、相手のことばをしっかりと受け止めて、それに対して自分の言えることを言う--そういう生き方がつまっているのが「そだよ。」「そなの?」である。軽いことばに響くけれど、それは意味がないように響くけれど、実際、意味などない。ただ、そこには田中の具体的な肉体がある。相手の前に自分がいる、そのときの肉体がある。それは隠しようがない。隠そうにも隠せない。それを見せて、「私はここにいる」ということを相手にはっきり見せて、それからことばを動かす。 
 ここに田中の「正直」があり、これが田中の「思想」なのだ。ゆるぎのないものであり、田中のひとつの精神の到達点である。

 この「そだね。」のおもしろいのは、それが単に「肯定」だけに終わらないことだ。「そだね。」と肯定して、そこから出発して、先行することばを越えていく。台風の翌朝、鴨川の河川敷をジョギングしていたら足元がぬめる。ザリガニが這い上がってきて、それを自転車が踏み潰していくので、つぶされたザリガニがぬるぬるするのだ。そういう話の後、次のようにつづく。

「ザリガニの死骸がびっしりの河川敷ね。
でも
ザリガニって鴨川にもいるんや。
ふつうは池だよね。」
「いると思わないでしょ?」
「そだね。
むかし
恋人と雨の日に琵琶湖をドライブしてたら
ブチブチ、ブチブチっていう音がして
これ、なにってきいたら
カエルをタイヤが轢いてる音
って言うから
頭から血がすーって抜けてく感じがした。
わかる?
頭から
血が抜けてくんだよ。
すーっと下にね。」

 「そだね。」としっかり相手の言い分を肯定して、それからまた自分の言いたいことを語りはじめる。それは前の話とつながってはいるが、少し変わってもいる。ザリガニのかわりに、カエルがつぶされる。どちらもつぶされる小さな生き物というところではつながっているが、違っている部分もある。ザリガニのぬめる道は走ると危ないので歩いた。でも、カエルのつぶされる道は、そのまま車で走った。あらら。ずいぶん、違うねえ。さらに、その道が危険化どうかではなく、田中は「頭から血がすーって抜けてく感じがした。」と自分の感覚の方にことばを動かしてしまっている。
 こういう「ずれ」は、しかし「ずれ」とはなかなか意識されないなあ。そこがいわゆる「哲学書(思想書)」のことばの運動と違うところで、そこに田中の思想のいちばんいいところがある。
 話はどんなにずれても、逸脱しても、いつでも「肉体」をくぐってことばが動いているのだ。肉体のなかではすべてがつながっている。「ブチブチ、ブチブチ」という音を聞いたのは耳である。そして「カエルをタイヤが轢いてる」という説明を聞いたとき、その「耳」が聞いている音は、車が轢いている音ではなく、きっと田中の足が(肉体が)踏み潰している音なのだ。田中は足の裏にカエルが潰れていくときの感触を感じている。靴を履いてじゃなくて、きっと裸足で。だから、それは肉体に直接響いてくる。頭から血がすーっと抜けていくというのは、そういうことだ。
 田中はいつでも、「精神」ではなく、「肉体」をさらけ出すのである。「肉体」こそが思想なのである。

 「そだね。」は相手のことばを肯定しながら、いったん引き継いだ後は、田中自身の肉体になって、どうしても「ずれ」ていく。「頭」で受け止める抽象的な哲学用語(思想のキーワード)はずれるとたいへんだけれど(話が通じなくなるけれど)、肉体は「ずれ」ても平気だ。もともと「肉体」は他人と共有していない。共有できない。それぞれ独立したものだ。違っていてあたりまえだ。
 それで、というのは変な飛躍なのだが。
 「そだね。」に似たことばで、違うことばもある。「そだ。」これは、「そうだ。」と同じ。ただし、相手への「同意」ではなく、自分自身への「同意」である。
 次のようにつかわれる。

「野生化してるんですよ、
オーストラリアのラクダって。
馬じゃ、あの大陸、横断できなくて
ラクダを連れてきたんですけど。
いまじゃ、オーストラリアから
アラブに輸出しています。」
「そだ。
このあいだ
2ちゃんねるでさ。
外国の詩の雑誌にも投稿欄があるのかどうか
きいてたひとがいたけど、
外国の詩の雑誌にも投稿欄って、あるの?」

 「そだ。」からはじまるのは、前の会話とは関係がない。オーストラリアのラクダとは関係がない。けれども。ここには引用しなかったが、その前にある行と関係している。エリオットやらパウンドやらたくさんの詩人の名前が出てくる。「そだ。」は田中自身の「記憶」(2ちゃんねるで見かけた質問)と関係しているだけのようだが、深いところで、それまで知人と話した内容ともつながっている。
 それはラクダへと逸脱したことばをパウンドやエリオットへと引き戻す具合に動いている。パウンドやエリオットの存在は田中には「肉体」になってしまっているから、そういうことが起きるのだ。「そだ。」と突然思いついたことへ逸脱がはじまるのだが、その逸脱は結局田中の肉体の奥へと帰っていく。 

 あるときは「そだね。」と肯定し、あるときは「そなの?」と疑問(反論)をし、あるときは「そだ。」と飛躍する。けれど、そのことばは全部、田中の肉体のなかを通り、田中の肉体をさらけ出させる。そこにあるものが田中の肉体そのものであることを語る。ただそれだけのためにことばは動く。
 ことばは肉体となって、田中として、そこにある。
 こういうことばを、私は「思想」と呼ぶ。そして、こういう思想のことばの動きを「文体」と呼んでいる。




The Wasteless Land. 2
田中 宏輔
書肆山田

The Wasteless Land. 3
田中 宏輔
書肆山田

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