監督・脚本 アスガー・ファルハディ 出演 ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ
イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミが有名である。映像が非常に美しい。アッバス・キアロスタミを見ていたときは、なぜこんなに映像が美しいのか、その秘密がわからなかった。そして、きょう、アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」を見て、その秘密がわかったような気がした。アッバス・キアロスタミとアスガー・ファルハディは別人だから、アスガー・ファルハディを見てアッバス・キアロスタミがわかるというのは奇妙なことだが、共通のものを感じたのだ。
想像力だ。
映像が美しいのは、その映像に語るものが欠如しているからだ。欠如を想像力が補う。それは現実よりも想像力の世界の方が「完璧」である、「美しさにおいて完璧である」ということにつながる。
この映画で私がいちばん好きなシーンはエリが凧揚げをするシーンである。それから、溺れたこども、行方不明になったエリを探す海のシーンも大好きである。そのシーンに共通することは、映像が不完全であるということである。
エリが凧揚げをするシーンでは、エリと凧は1シーンのなかでは登場しない。エリは凧の糸をもっているが、凧まではいっしょに映らない。かわりに太陽の光のまぶしさと、海の濁った色と、波の音があふれる。凧の欠如を、海、波、音、風の過剰が補うのである。いや、補うを越えて、別の世界に独立して存在させるのである。
凧はエリの姿とは切り離され、独立して、空中にはためく。それは風を受けてしなり、風を切る音を響かせている。それはほんとうに空に舞い上がった凧なのだが、それ以上にエリのこころのなかで、つまり想像力の世界ではためく凧なのだ。
現実を越えて、想像力は「完璧な美しさ」を人間にもたらすのである。エリは、この瞬間、その美しさを見ている。糸によってエリと凧はつながっているが、それ以上に想像力がエリと凧をつないでいるのだ。荒々しい海、波、風ははためく凧の姿のなかで、完璧な美に昇華するのだ。
これは幸福な想像力であり、幸福な「美しさ」である。
一方、おぼれた子供を探して海を泳ぐシーン。どこにいるかわからないエリを探して海に人間が入っていくシーン、泳ぐシーンは、まったく逆の姿をみせる。想像力は空に舞う凧のように完結しない。「美しさ」となって結晶しない。かわりに、想像力を阻む過剰な水、暴れる波、自然という剥き出しの「現実」が押し寄せる。想像力を、それこそ「飲み込む」。飲み込んでしまう。--そして、その想像力を完璧に拒まれた映像、過剰な現実の力が暴れるシーンも、不思議なことにとても美しいのだ。
人間を拒む自然があり、それが現実である。そう知っていても、そうわかっていても、それに人間は想像力をぶつけてしまう。想像力は、はね返され、たたきこわされるのだが、その瞬間に、不思議な美しさがある。剥き出しの世界が、いつでも、そこに存在するという美しさである。不幸な(?)美しさである。--想像力にとっては。
世界は想像力によっては成り立っていない。そして、現実だけでも成り立っていないのだ。現実の存在と想像力がぶつかり合いながら、そのぶつかり合いのなかに、幾種類もの世界を出現させるのだ。そのあらわれ方は無限である。--イランの監督たちは、その「無限」というものを知っている。
「千夜一夜」の「千」を知っているのだ。
そして、この「千」が、つまり想像力と現実がぶつかりあってあらわれる世界が「無限」であるという哲学が、映画全体を動かしていく。
エリって、だれ? どういう生活をしている? 何を考えている? 何を感じている? エリが行方不明になった。だれに知らせたらいい? 警察にはなんと説明すればいいのだろう。
そういうことを考えはじめたとき、登場人物ひとりひとりの「現実」が浮かび上がってくる。
エリはエリが空高く舞わせていた凧である。エリの完璧な姿を想像しながら、登場人物のひとりひとりは、彼自身の現実に飲み込まれていく--彼らを飲み込む現実が、エリを飲み込んだ海のように彼らを飲み込み、手におえない巨大な「水の塊」、「海のはらわた」のような現実を見せつける。
だれのせい? なぜ隠す? 隠す理由は? なぜ嘘をつく?
親しかった仲間の関係が崩れていく。愛し合っているはずの夫婦の関係が、憎しみという形で「完璧」になる。楽しみは悲しみに、悲しみは絶望に……。
それは、見つめることしかできない「存在」である。自分を拒絶してくるものがある。そういうものがあるということを、受け入れ、見つめる。そこから自分自身の想像力を点検するしかないのである。
そういう人間の運動を、イランの監督たちは映像と、そして音でくっきりと再現する。想像力を排除し、想像力を浮き彫りにするのである。
知っていること、わかることは「世界」の一部である。だから、いつでも「世界」を一部として切り取る。
スクリーンにエリが映る。凧をあげているようだが、凧は見えない。浜辺を走り回って風をつかもうとしているが、エリの走っている方向もわからない。向きを変えるのでまっすぐではないということだけがわかる。少年を、エリを探して人が海を泳ぐ。濁った水のなかをもぐる。そのスクリーンサイズの現実。その周囲に、その外にこそ世界はあるのだが、人間が向き合うことができるのは、いま、肉眼がとらえることのできる「事実」だけである。想像力は排除され、想像せよ、と呼びかけられている。
想像力を排除せよ、そして想像せよ、--アッバス・キアロスタミも、アスガー・ファルハディも、そういう「矛盾」を強烈にぶつけてくる。だから、美しい。あらゆる美しさが絶対的に孤立して、孤立することで、存在の核に触れるのだ。
イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミが有名である。映像が非常に美しい。アッバス・キアロスタミを見ていたときは、なぜこんなに映像が美しいのか、その秘密がわからなかった。そして、きょう、アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」を見て、その秘密がわかったような気がした。アッバス・キアロスタミとアスガー・ファルハディは別人だから、アスガー・ファルハディを見てアッバス・キアロスタミがわかるというのは奇妙なことだが、共通のものを感じたのだ。
想像力だ。
映像が美しいのは、その映像に語るものが欠如しているからだ。欠如を想像力が補う。それは現実よりも想像力の世界の方が「完璧」である、「美しさにおいて完璧である」ということにつながる。
この映画で私がいちばん好きなシーンはエリが凧揚げをするシーンである。それから、溺れたこども、行方不明になったエリを探す海のシーンも大好きである。そのシーンに共通することは、映像が不完全であるということである。
エリが凧揚げをするシーンでは、エリと凧は1シーンのなかでは登場しない。エリは凧の糸をもっているが、凧まではいっしょに映らない。かわりに太陽の光のまぶしさと、海の濁った色と、波の音があふれる。凧の欠如を、海、波、音、風の過剰が補うのである。いや、補うを越えて、別の世界に独立して存在させるのである。
凧はエリの姿とは切り離され、独立して、空中にはためく。それは風を受けてしなり、風を切る音を響かせている。それはほんとうに空に舞い上がった凧なのだが、それ以上にエリのこころのなかで、つまり想像力の世界ではためく凧なのだ。
現実を越えて、想像力は「完璧な美しさ」を人間にもたらすのである。エリは、この瞬間、その美しさを見ている。糸によってエリと凧はつながっているが、それ以上に想像力がエリと凧をつないでいるのだ。荒々しい海、波、風ははためく凧の姿のなかで、完璧な美に昇華するのだ。
これは幸福な想像力であり、幸福な「美しさ」である。
一方、おぼれた子供を探して海を泳ぐシーン。どこにいるかわからないエリを探して海に人間が入っていくシーン、泳ぐシーンは、まったく逆の姿をみせる。想像力は空に舞う凧のように完結しない。「美しさ」となって結晶しない。かわりに、想像力を阻む過剰な水、暴れる波、自然という剥き出しの「現実」が押し寄せる。想像力を、それこそ「飲み込む」。飲み込んでしまう。--そして、その想像力を完璧に拒まれた映像、過剰な現実の力が暴れるシーンも、不思議なことにとても美しいのだ。
人間を拒む自然があり、それが現実である。そう知っていても、そうわかっていても、それに人間は想像力をぶつけてしまう。想像力は、はね返され、たたきこわされるのだが、その瞬間に、不思議な美しさがある。剥き出しの世界が、いつでも、そこに存在するという美しさである。不幸な(?)美しさである。--想像力にとっては。
世界は想像力によっては成り立っていない。そして、現実だけでも成り立っていないのだ。現実の存在と想像力がぶつかり合いながら、そのぶつかり合いのなかに、幾種類もの世界を出現させるのだ。そのあらわれ方は無限である。--イランの監督たちは、その「無限」というものを知っている。
「千夜一夜」の「千」を知っているのだ。
そして、この「千」が、つまり想像力と現実がぶつかりあってあらわれる世界が「無限」であるという哲学が、映画全体を動かしていく。
エリって、だれ? どういう生活をしている? 何を考えている? 何を感じている? エリが行方不明になった。だれに知らせたらいい? 警察にはなんと説明すればいいのだろう。
そういうことを考えはじめたとき、登場人物ひとりひとりの「現実」が浮かび上がってくる。
エリはエリが空高く舞わせていた凧である。エリの完璧な姿を想像しながら、登場人物のひとりひとりは、彼自身の現実に飲み込まれていく--彼らを飲み込む現実が、エリを飲み込んだ海のように彼らを飲み込み、手におえない巨大な「水の塊」、「海のはらわた」のような現実を見せつける。
だれのせい? なぜ隠す? 隠す理由は? なぜ嘘をつく?
親しかった仲間の関係が崩れていく。愛し合っているはずの夫婦の関係が、憎しみという形で「完璧」になる。楽しみは悲しみに、悲しみは絶望に……。
それは、見つめることしかできない「存在」である。自分を拒絶してくるものがある。そういうものがあるということを、受け入れ、見つめる。そこから自分自身の想像力を点検するしかないのである。
そういう人間の運動を、イランの監督たちは映像と、そして音でくっきりと再現する。想像力を排除し、想像力を浮き彫りにするのである。
知っていること、わかることは「世界」の一部である。だから、いつでも「世界」を一部として切り取る。
スクリーンにエリが映る。凧をあげているようだが、凧は見えない。浜辺を走り回って風をつかもうとしているが、エリの走っている方向もわからない。向きを変えるのでまっすぐではないということだけがわかる。少年を、エリを探して人が海を泳ぐ。濁った水のなかをもぐる。そのスクリーンサイズの現実。その周囲に、その外にこそ世界はあるのだが、人間が向き合うことができるのは、いま、肉眼がとらえることのできる「事実」だけである。想像力は排除され、想像せよ、と呼びかけられている。
想像力を排除せよ、そして想像せよ、--アッバス・キアロスタミも、アスガー・ファルハディも、そういう「矛盾」を強烈にぶつけてくる。だから、美しい。あらゆる美しさが絶対的に孤立して、孤立することで、存在の核に触れるのだ。
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