詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビリー・ワイルダー監督「昼下がりの情事」(★★★★)

2010-10-25 23:56:40 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー

 役者が美しく見えるのは無理をしているときである--と言ったのはだれだったろうか。映画ではなく、舞台の上での肉体のことを言っているのだが、それは役者、舞台、肉体に限定されるとは限らないだろう。人間はだれでも無理をしているときに美しく見える。楽をしているときにもそれなりの美しさはあるだろうが、無理をしているときの方が輝く。
 この映画のなかでは、オードリー・ヘップバーンが演じる少女自体が「背伸び」しているのだが、この「背伸び」を見ていると、それが「役」なのかオードリー自身なのかわからなくなる瞬間がある。「背伸び」(無理)が少女を通り越して、オードリーを輝かせる。特に最後のホームでの涙はまるでダイヤモンドである。
 無理をしているから、体が痛む。こころが痛む。それが涙になってあふれだす。(髪をショールで多い、頭から顔だけを抜き出した「絵」が、また、強烈である。何もかもが消えて、ただ潤んだ目、見開かれた目と、その輝きだけ、という感じが強烈である。)
 このシーンは強烈に少女を感じさせる。

 と、書いたあとで、こんなことを書くのは変かもしれないが、オードリーの魅力のひとつは「少年性」にある、と思う。
 痩せて、背が高いせいかもしれないが、オードリーの肉体は「女性」を感じさせない。「少女」も感じさせない。まるで「少年」である。その肉体が、恋のために背伸びをするこころを演じるとき、それはそのまま少年になる。
 少女ももちろん背伸びをするだろうが、少年と少女を比較したとき、少女の方が早熟である。肉体が精神を追いこして成熟する。そのために、少女の背伸びは「こころ」よりも「肉体」の背伸びとして具体化されることが多いと思う。少年は、少女に比べると、肉体は遅れてやってくる。「妄想」が成熟するだけ成熟して(暴走するだけ暴走して?)、それを肉体が追いかける。
 この映画では、「肉体」はキス止まり。暴走しない。成熟しない。そのかわり、「妄想」はどんどん過激に突っ走る。それが少年っぽい。この少年性ゆえに、オードリーは女性にとても人気があるのでは、と、昔考えたことがある。
 オードリーに「女性」としてのライバル心を燃やさないのだ。逆に、異性として恋してしまうのだ。オードリーのような恋を夢見ながら、実はオードリーのなかに異性を感じている。つまり、オードリーのなかで、恋が完結する。相手はだれでもいいのである。ゲイリー・クーパーは見るからに「おじいさん」だが、オードリーの恋を見ている女性観客はきっとゲイリー・クーパーなど見ていない。オードリーだけを見ている。「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でも、オードリーからかけ離れた(?)グレゴリー・ペックやハンフリー・ボガートなど、きっと見ていない。見ていても恋の相手ではなく、オードリーの引き立て役としか見ていないだろう。観客が見ているのはオードリーのなかで完結する「恋」なのだ。彼女個人のなかで完結するから、「肉体」はキス止まり。それ以上は絶対に進まない。

 この不思議な完結性の美--それはまた別のことばで言えば、「未熟」の美しさかもしれない。未熟が美しいというのは奇妙な言い方だが、純粋ということでもある。完熟したものは矛盾を、毒を含んでいる。毒こそがあらゆる美の頂点かもしれないが、そういうものを排除した透明さ。そういう無理(人間が完熟することを拒むというのは、とても無理な生き方である)が、オードリーにはとても似合うということかもしれない。



 この映画を私は「午前十時の映画祭」で見直したのだが、1点、びっくりしたことがあった。原題が「Love in the Afternoon 」。私は「ファシネーション」と記憶していた。なぜだろう。昔、福岡の中州大洋で見たはずだが、そのとき「あ、原題は『ファシネーション』なんだ」と思ったことを鮮明に覚えている。なぜ、そんなふうに思い込んだのだろう。




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柏木静『囲む』

2010-10-25 00:00:00 | 詩集
柏木静『囲む』(ふらんす堂、2010年09月29日発行)

 私はわからない詩が好きである。たとえば、柏木静『囲む』の「石ころ」がわからない。

朝からつづいている時間は
とけゆく彫刻のたまり場で
にもつにもたれかかった太陽のひとみに
とがった爪をながしこもうとしている

 冒頭の1行を次の1行が破っていく。「破っていく」というのは「意味」をつなぎそうになりながら、そうしないこと、逆に1行目が「意味」になるのを破壊する運動を指すのに、私がでっちあげたことばである。
 3行目は2行目を、4行目は3行目を破る。
 ますます「意味」から遠ざかるのだが、それでもどんどん熱くなる真夏の太陽の光を感じる。それが石の彫刻の肌を、マイヨールの彫刻のような肌に絡みついている感じがする。
 なんだかよくわからないのだから、これは「誤読」である。勝手に私が考えた(感じた)ことばの世界である。融けるくらいにつやつやに光をあびて、その光が太陽に向かって逆襲している。そんな真夏の時間を感じる。

まがったやさしい群れは
まるで鉄柵を愛撫する大地のようで
その黒いぬまは
重たらしい消滅なのだ
おしよせる医者に
わたしから皺をさしだす
すぐにでも必要となる海水に
悲惨の証である創造をあたえる

 ぜんぜんわからないのだが、「まがったやさしい群れ」ということば、とくに「まがったやさしい」ということばのつながり具合は、お、つかってみたい、という気持ちにさせる。何かを見たとき、(その何かを私はうまくいえないけれど)、たとえば巨大な石の彫刻を見たとき(これは、前に書かれていた「彫刻」から引き出された感覚だ)、その曲線に「まがったやさしい」何かを感じたからかもしれない。「まがったやさしい」ということばには、「正確な意味」はまだないのだが、その「まだない」ことの「意味」が、私の肉体のなかで何かをつきうごかしている。
 こういう感じが好きなのだ。

都会の興奮から
泣きまねを圧迫される
建築の裏手には手ざわりを教える

 「都会の興奮」という興ざめするようなことばの一方、「建築の裏手には手ざわりを教える」という不思議な肉体感覚がある。「建築の裏手」「手ざわり」。この組み合わせも、詩を誘う。
 柏木がどんな建築と裏手を想定しているかわからないが、柏木の想定を無視して、私は私なりに「建築の裏手」を思い、そこに「手触り」を感じる。ひとの見ていない部分の、荒々しく強靱な力--それが一方にあり、他方に光の氾濫と戦う「彫刻」がある、のだと想像している。
 つかってみたいと感じることばが、かってに結びついて、かってな「世界」を作り上げるのだ。

だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい

 この1行は、この詩のなかでは、屈折している。1行ではなく、それ以上のことばが「改行」のタイミングを見失って1行に封じこめられている。その1行のなかで、「意味」を破る力がきちんと動かず絡み合い、ねじくれて、悲鳴を上げている。

 この

 というのは次の行である。
 「この」は「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」の長いリズムのあとで息継ぎをかねて、ふっと書かれた1行だ。「意味」はない。「意味」がないばかりか、それまでの「意味」を破る1行という働きもここでは中断している。
 ことばの運動は、こういう理不尽なこともする。
 けれど、この空白というか、息継ぎによって、ことばはまた復活するのである。こういう1行、そしてそれを挟んだことばの運動を見ると、ことばは「肉体」だと思わずにはいられない。
 「ことばの肉体」という表現を私はさまざまにつかっているが、「この」にも、そのうちのひとつの「性質」を感じる。「リズム」と関係する肉体がここにある。

ふてぶてしいインクの色が悲鳴をあげて
向こう脛に予知すると
わたしの胸から紐がぬける
はじめから憐れみがしたたり
ぽたぽたと太陽の意識に染みるのだ
風よけにいちど血のついた傷を軽く
拭いておいたらいい
雨の色、腐蝕された石ころ

 だが、どういうことだろう。「この」の転換のあと、そこにはつかってみたいと思うことばがない。ぐいと引きこまれることばがない。
 「だれかこのまま本名を鏡にいれて出なおしてくれればいい」までで、柏木はことばを使い果たしてしまったのかもしれない。




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