監督 ビリー・ワイルダー 出演 オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー
役者が美しく見えるのは無理をしているときである--と言ったのはだれだったろうか。映画ではなく、舞台の上での肉体のことを言っているのだが、それは役者、舞台、肉体に限定されるとは限らないだろう。人間はだれでも無理をしているときに美しく見える。楽をしているときにもそれなりの美しさはあるだろうが、無理をしているときの方が輝く。
この映画のなかでは、オードリー・ヘップバーンが演じる少女自体が「背伸び」しているのだが、この「背伸び」を見ていると、それが「役」なのかオードリー自身なのかわからなくなる瞬間がある。「背伸び」(無理)が少女を通り越して、オードリーを輝かせる。特に最後のホームでの涙はまるでダイヤモンドである。
無理をしているから、体が痛む。こころが痛む。それが涙になってあふれだす。(髪をショールで多い、頭から顔だけを抜き出した「絵」が、また、強烈である。何もかもが消えて、ただ潤んだ目、見開かれた目と、その輝きだけ、という感じが強烈である。)
このシーンは強烈に少女を感じさせる。
と、書いたあとで、こんなことを書くのは変かもしれないが、オードリーの魅力のひとつは「少年性」にある、と思う。
痩せて、背が高いせいかもしれないが、オードリーの肉体は「女性」を感じさせない。「少女」も感じさせない。まるで「少年」である。その肉体が、恋のために背伸びをするこころを演じるとき、それはそのまま少年になる。
少女ももちろん背伸びをするだろうが、少年と少女を比較したとき、少女の方が早熟である。肉体が精神を追いこして成熟する。そのために、少女の背伸びは「こころ」よりも「肉体」の背伸びとして具体化されることが多いと思う。少年は、少女に比べると、肉体は遅れてやってくる。「妄想」が成熟するだけ成熟して(暴走するだけ暴走して?)、それを肉体が追いかける。
この映画では、「肉体」はキス止まり。暴走しない。成熟しない。そのかわり、「妄想」はどんどん過激に突っ走る。それが少年っぽい。この少年性ゆえに、オードリーは女性にとても人気があるのでは、と、昔考えたことがある。
オードリーに「女性」としてのライバル心を燃やさないのだ。逆に、異性として恋してしまうのだ。オードリーのような恋を夢見ながら、実はオードリーのなかに異性を感じている。つまり、オードリーのなかで、恋が完結する。相手はだれでもいいのである。ゲイリー・クーパーは見るからに「おじいさん」だが、オードリーの恋を見ている女性観客はきっとゲイリー・クーパーなど見ていない。オードリーだけを見ている。「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でも、オードリーからかけ離れた(?)グレゴリー・ペックやハンフリー・ボガートなど、きっと見ていない。見ていても恋の相手ではなく、オードリーの引き立て役としか見ていないだろう。観客が見ているのはオードリーのなかで完結する「恋」なのだ。彼女個人のなかで完結するから、「肉体」はキス止まり。それ以上は絶対に進まない。
この不思議な完結性の美--それはまた別のことばで言えば、「未熟」の美しさかもしれない。未熟が美しいというのは奇妙な言い方だが、純粋ということでもある。完熟したものは矛盾を、毒を含んでいる。毒こそがあらゆる美の頂点かもしれないが、そういうものを排除した透明さ。そういう無理(人間が完熟することを拒むというのは、とても無理な生き方である)が、オードリーにはとても似合うということかもしれない。
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この映画を私は「午前十時の映画祭」で見直したのだが、1点、びっくりしたことがあった。原題が「Love in the Afternoon 」。私は「ファシネーション」と記憶していた。なぜだろう。昔、福岡の中州大洋で見たはずだが、そのとき「あ、原題は『ファシネーション』なんだ」と思ったことを鮮明に覚えている。なぜ、そんなふうに思い込んだのだろう。
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