監督 マルタン・プロヴォスト 出演 ヨランド・モロー、ウルリッヒ・トゥクール
とても不思議な体験をした。
ラストシーン。丘の上に一本の木がある。セラフィーヌは椅子をもってその木の下へゆく。木がゆったりと揺れている。そのシーンで、スクリーンから風が吹いてくるのを感じたのだ。少し冷たい風だ。ひんやりした感じがした。映画館の締め切った空間、その澱んだ(?)空気を清めるような風だ。
スクリーンにのめりこんでいて気づかなかった映画館の中の「冷房(?)」に気がついたということかもしれないが、(実際、「映画館、寒いね」という声をそのあとに聞いたのだが……)、あ、風が吹いてきた--とほんとうにそう感じたのだ。そして、この風にセラフィーヌも吹かれているのだ、と。体を洗うように吹いていく風に、新しいいのちをもらっているのだ、と。
この映画は、それまでのシーンも好きだが、このラストの不思議な体験で、忘れられない作品になった。大好きを通り越して、大切な映画になった。
この映画の自然は非常に美しい。私はフランスの自然を直接見たことはないのだが、この映画のとおりであってほしいと思う。道や橋や家はあるけれど(そして、それは石の文化だけれど)、そのまわりに手つかずの自然がある。野放図な(でもないのかもしれないけれど)緑の氾濫と、その氾濫する緑だけがつくりだす調和がある。やさしくて、乱暴で、輝かしい。
セラフィーヌの絵は(私は実物を見たことがない)、その自然のなかから乱暴といえばいいのか、まだどんな制御もくわえられていない「なま」の自然を純粋化してとりだしてきたような印象がある。
映画が映し出す現実の自然はセラフィーヌの絵に比べるとずいぶんやさしく、愛情に満ちている。セラフィーヌの絵は、そのやさしさと愛情の中で、思う存分遊んでいる「こども」の「いのち」のような感じである。「自由」が剥き出しである。汚れがない。
そのくせ、セラフィーヌの絵には、何か不思議な統一感がある。セラフィーヌは絵の具を手作りしているのだが、その手作り--というか、肉体を潜り抜けることで獲得した統一感がある。「いのち」の剥き出しの部分があるのだが、剥き出しでありながら「肉体」を持っている。(言語をつかう作家で言えば「文体」のようなものを持っている。)
そういう感じ--現実の自然と、セラフィーヌの絵の自然の対比というか、違いが浮き彫りになるところがこの映画のすばらしい部分である。現実の自然のなかには、セラフィーヌの「文体」がとりだした自然があるのだ、と教えてくれる。
この映画は、人間関係というか、人間のドラマも描かれるのだが、そういうものは何か映画の「枠」を成り立たせるための一種の道具のような感じがする。ヨランド・モローの肉体もおもしろいはおもしろいけれど、それをはるかに通り越して、フランスの自然とセラフィーヌの絵の自然(芸術の持っている自然)がおもしろい。

とても不思議な体験をした。
ラストシーン。丘の上に一本の木がある。セラフィーヌは椅子をもってその木の下へゆく。木がゆったりと揺れている。そのシーンで、スクリーンから風が吹いてくるのを感じたのだ。少し冷たい風だ。ひんやりした感じがした。映画館の締め切った空間、その澱んだ(?)空気を清めるような風だ。
スクリーンにのめりこんでいて気づかなかった映画館の中の「冷房(?)」に気がついたということかもしれないが、(実際、「映画館、寒いね」という声をそのあとに聞いたのだが……)、あ、風が吹いてきた--とほんとうにそう感じたのだ。そして、この風にセラフィーヌも吹かれているのだ、と。体を洗うように吹いていく風に、新しいいのちをもらっているのだ、と。
この映画は、それまでのシーンも好きだが、このラストの不思議な体験で、忘れられない作品になった。大好きを通り越して、大切な映画になった。
この映画の自然は非常に美しい。私はフランスの自然を直接見たことはないのだが、この映画のとおりであってほしいと思う。道や橋や家はあるけれど(そして、それは石の文化だけれど)、そのまわりに手つかずの自然がある。野放図な(でもないのかもしれないけれど)緑の氾濫と、その氾濫する緑だけがつくりだす調和がある。やさしくて、乱暴で、輝かしい。
セラフィーヌの絵は(私は実物を見たことがない)、その自然のなかから乱暴といえばいいのか、まだどんな制御もくわえられていない「なま」の自然を純粋化してとりだしてきたような印象がある。
映画が映し出す現実の自然はセラフィーヌの絵に比べるとずいぶんやさしく、愛情に満ちている。セラフィーヌの絵は、そのやさしさと愛情の中で、思う存分遊んでいる「こども」の「いのち」のような感じである。「自由」が剥き出しである。汚れがない。
そのくせ、セラフィーヌの絵には、何か不思議な統一感がある。セラフィーヌは絵の具を手作りしているのだが、その手作り--というか、肉体を潜り抜けることで獲得した統一感がある。「いのち」の剥き出しの部分があるのだが、剥き出しでありながら「肉体」を持っている。(言語をつかう作家で言えば「文体」のようなものを持っている。)
そういう感じ--現実の自然と、セラフィーヌの絵の自然の対比というか、違いが浮き彫りになるところがこの映画のすばらしい部分である。現実の自然のなかには、セラフィーヌの「文体」がとりだした自然があるのだ、と教えてくれる。
この映画は、人間関係というか、人間のドラマも描かれるのだが、そういうものは何か映画の「枠」を成り立たせるための一種の道具のような感じがする。ヨランド・モローの肉体もおもしろいはおもしろいけれど、それをはるかに通り越して、フランスの自然とセラフィーヌの絵の自然(芸術の持っている自然)がおもしろい。
