詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルタン・プロヴォスト監督「セラフィーヌの庭」(★★★★)

2010-10-05 22:03:53 | 映画
監督 マルタン・プロヴォスト 出演 ヨランド・モロー、ウルリッヒ・トゥクール

 とても不思議な体験をした。
 ラストシーン。丘の上に一本の木がある。セラフィーヌは椅子をもってその木の下へゆく。木がゆったりと揺れている。そのシーンで、スクリーンから風が吹いてくるのを感じたのだ。少し冷たい風だ。ひんやりした感じがした。映画館の締め切った空間、その澱んだ(?)空気を清めるような風だ。
 スクリーンにのめりこんでいて気づかなかった映画館の中の「冷房(?)」に気がついたということかもしれないが、(実際、「映画館、寒いね」という声をそのあとに聞いたのだが……)、あ、風が吹いてきた--とほんとうにそう感じたのだ。そして、この風にセラフィーヌも吹かれているのだ、と。体を洗うように吹いていく風に、新しいいのちをもらっているのだ、と。
 この映画は、それまでのシーンも好きだが、このラストの不思議な体験で、忘れられない作品になった。大好きを通り越して、大切な映画になった。

 この映画の自然は非常に美しい。私はフランスの自然を直接見たことはないのだが、この映画のとおりであってほしいと思う。道や橋や家はあるけれど(そして、それは石の文化だけれど)、そのまわりに手つかずの自然がある。野放図な(でもないのかもしれないけれど)緑の氾濫と、その氾濫する緑だけがつくりだす調和がある。やさしくて、乱暴で、輝かしい。
 セラフィーヌの絵は(私は実物を見たことがない)、その自然のなかから乱暴といえばいいのか、まだどんな制御もくわえられていない「なま」の自然を純粋化してとりだしてきたような印象がある。
 映画が映し出す現実の自然はセラフィーヌの絵に比べるとずいぶんやさしく、愛情に満ちている。セラフィーヌの絵は、そのやさしさと愛情の中で、思う存分遊んでいる「こども」の「いのち」のような感じである。「自由」が剥き出しである。汚れがない。
 そのくせ、セラフィーヌの絵には、何か不思議な統一感がある。セラフィーヌは絵の具を手作りしているのだが、その手作り--というか、肉体を潜り抜けることで獲得した統一感がある。「いのち」の剥き出しの部分があるのだが、剥き出しでありながら「肉体」を持っている。(言語をつかう作家で言えば「文体」のようなものを持っている。)
 そういう感じ--現実の自然と、セラフィーヌの絵の自然の対比というか、違いが浮き彫りになるところがこの映画のすばらしい部分である。現実の自然のなかには、セラフィーヌの「文体」がとりだした自然があるのだ、と教えてくれる。

 この映画は、人間関係というか、人間のドラマも描かれるのだが、そういうものは何か映画の「枠」を成り立たせるための一種の道具のような感じがする。ヨランド・モローの肉体もおもしろいはおもしろいけれど、それをはるかに通り越して、フランスの自然とセラフィーヌの絵の自然(芸術の持っている自然)がおもしろい。


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フランコ・ゼフィレッリ監督「ロミオとジュリエット」(★★★+★)

2010-10-05 13:58:10 | 午前十時の映画祭

監督 フランコ・ゼフィレッリ 出演 オリヴィア・ハッセー、レナード・ホワイティング

 「時分の花」ということばを思い出してしまった。
 初公開は1968年。もう40年以上も前のことである。このときのオリヴィア・ハッセーととにかく若かった。輝いていた。あの当時、古いファッションの胸元から見える「胸の谷間」にどきどきしたことを覚えているが、いま見るとそんなに大きくない。(深くない?)40年の間に若い女性の体型も変わってきたのかもしれない--ということは「時分の花」とはあまり関係ないか。(ある、かも。)
 最初に見たとき、いちばん印象に残ったのは、オリヴィア・ハッセー、レナード・ホワイティングが、教会でキスするシーンである。結婚式を控えている。ふたりは式のことは忘れたみたいに、会えたよろこびで(きのう会ったばかりだけれど)、キスしようとする。それを神父が引き離す。引き離されても引き離されても、その引き離しをかいくぐりキスしようとする。引き離されれば引き離されるほどキスをしたくなる。このときの動きがすばらしい。とてもいきいきしている。
 シェークスピアの台詞に傷つくことなく(そのシーンに台詞がないのだから、あたりまえといえばあたりまえだが)、その輝かしい肉体、その眼、その黒髪が、いっそう輝く。とくに眼が、ほんとうに恋人をみつめている。まるで演技ではなく、キスしたくてたまらない少女、キスをはじめて知った少女のような「夢中」という感じが、とても美しい。
 この若さがあるから、とても不思議なことが起きる。シェークスピアの台詞そのものは、とても若いオリビア・ハッセーには手におえない。「ロミオ、なぜあなたはロミオ」のような独白はいいけれど、恋の駆け引きというか、男とのことばのやりとりは、どうしても「意味」が浮き上がってしまう。
 はずである。
 実際、「肉体」のなかに、ことばが踏みとどまらない。
 だけれど、これが不思議なことに美しい。恋のために背伸びしているという印象ではなく、オリビア・ハッセーのなかから見知らぬだれかが生まれてくる--そういう印象に変わる。オリビア・ハッセーはこのとき演技しているのではなく、「恋人」として生まれている。
 恋人に出会い、新しく生まれるように、ことばに出会い、そこであたらしく「恋する少女」として生まれつづける。一生で一度だけの、幸福な「映画」との出会いが、そこにはある。そう思える。

 その後、オリビア・ハッセーの映画を何本見ただろうか。ベトナムかどこかを舞台にしたジャングル映画。タイトルも忘れた恐怖映画。何か日本映画にも出ていたはずである。(ぜんぜん、思い出せないのだから、どれもいい作品とは言えないのだろう。)そして、最新作は「マザー・テレサ」だろうか。これも、マザー・テレサの格好をしていた、ということしか思い出せない。
 「時分の花」だけの役者だったのかもしれない。そうであるけれど、この「時分の花」というのは、すごい力だなあ、とも思う。やっぱり、引きつけられてしまう。
                       (「午前十時の映画祭」35本目)


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岸田将幸「粉々に」

2010-10-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「粉々に」(「現代詩手帖」2010年10月号)

 岸田将幸「粉々に」を読むと、抒情というものがなつかしくよみがえってくる。

僕は一つの元凶だ、なお

 「元凶」というものはほんらい肯定されるべきものではない。それを「元凶だ」と断定する。その断定のなかには、矛盾がある。否定すべきものを存在として認めるという矛盾がある。
 「なお」は、この矛盾を強調する。
 「元凶」でないあり方がどこかに思い描かれている。
 この矛盾、いまあるものを「否定」すべき形で存在させながら、そうではないものを夢想するときの--その抒情がなつかしい。

 抒情とはいつでも矛盾だったのだ、と思い出す。

君がいない時間を僕は数えない、これはぼくの時間ではないから
これは君に帰する時間、僕は君が数える時間を所有しない
君の不在、これに耐えることが何に決定的に耐えなかったことの結果なのか、僕はずっと考えている

 「耐えること」「耐えなかったこと」が、ここでは強烈な結びつきの中で語られる。「元凶だ、なお」というときの「断定」と同じ強さである。
 「断定」が強いから--断定の強さにことばがひっぱられて、ふつうではないことばになる。「学校教科書」の文法では理解できないものを、存在の「必然」として見せてしまう。
 ことばが、そう動くなら、ことばの動いた通りに「世界」は「ある」。あらねばならない。

僕は一つの元凶だ、それは失われない消えるだろう

 しかし、この「失われない」と「消えるだろう」の結びつきは何だろうか。矛盾だろうか。必然だろうか。それはふたつのありようではなく、もしかすると「消えるだろう」ということが「失われない」ということかもしれない。
 消える「こと」が失われない。
 書かれない「こと」があるのだ。

 消える「こと」が失われない。失われない「こと」として消えるという「こと」がある。それは、つまり、永遠に「消える」という「こと」でもある。永遠に消えるのに、「消える」という「こと」自体は失われない。
 そこには「こと」がある。そして、それは矛盾である。そしてそれを岸田は「断定」している。

 抒情とは「もの」ではなく「こと」である。「もの」は失われるが、「こと」は失われない。「こと」はそして、消えるふりをしながら、つまり消えながら、消えるという「こと(葉)」のなかに生きつづける。「もの」は失われ、消えても、「こと」はことばとなって、失われない。

 次の部分がおもしろい。

僕は電車に乗って、
人を愛することは、その人の生地を愛することであることを確かめようとしている
十歳くらいだろうか、女の子が「あんな高いところに文字が書かれている、see you!」と外へ手を振っている
そうだね、see you だよね、僕らが耐えなければならないことは、あなたともともと分かれて在ることだよ
ね、だから文字はあんな高いところに書かれてあるんだよね、僕らの子供ではない子がたくさん載っているね、この「ね」だけを君に伝えたかった

 「こと」ということばがたくさんつかわれている。けれど、そこに書かれている「こと」よりも、

僕は一つの元凶だ、それは失われない消えるだろう

 の1行の中に書かれなかった「こと」があるように、この部分にも書かれなかった「こと」がある。それがおもしろい。「こと」と書かれずに「ね」と書かれている。
 「ね」は「こと」である。
 文字があんなに高いところに書かれてあるんだ、という「こと」
 僕らの子供ではない子がたくさんのっている、という「こと」
 ことの確認が「ね」である。
 断定のかわりに、ここでは確認が動いている。

 岸田のことばのなかには「こと」があふれている。書かれないないことによって、その「こと」は増殖していく。「こと」とは「精神」と「感情」がとけあった状態であり、それは私には「抒情」に感じられる。
 それがなつかしい--というのは、たぶん、私が詩を読みはじめたころ、詩の「こと・は」は「こと」を巡って精神と感情がしっかり融合して、精神でありながら感情である、つまり一種の矛盾の結合として存在していたからだと思う。
 いま、それを、岸田のように、溶け合って、見えない「こと」(書かれない「こと」)として書く詩人は、ちょっと思い出せない。




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