詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「上昇」ほか

2010-10-07 11:00:46 | 詩(雑誌・同人誌)
ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「上昇」ほか(山崎佳代子訳)(「現代詩手帖」2010年10月号)

 きのうヴォイスラヴ・カラノヴィッチの詩の感想を書いたところ、blue snow さんからコメントが寄せられた。blue snow は女性。「夜」を「子宮回帰」に似たロマンチックな世界と受け止めた、と書いている。
 あ、ヴォイスラヴ・カラノヴィッチは女性なのか。
 詩に、そのことばに、男性・女性の区別はないだろうけれど、私は女性が書いたとは想像しなかった。男性が書いたとも意識しなかったけれど、無意識に男の立場でことばの運動を読んでいた。

 半分に割った林檎が月になる、その月は花びらを散らしながら時間の夜を昇っていく--それを種子が夢見ている。その不思議な上昇と下降の交錯。上昇することではじめて種子(いのち)そのもの、しかも内部(上昇とは逆方向)にある「いのち」そのものが見える。
 たしかに、これはセックスだね。上昇と下降の結びつきによって、いのちの内部がよりくっきりみえてくる。セックス以外の何物でもない。
 私は「肉体」とは別な、「肉体」を離れた、一種天上の音楽のようなものを感じたが、もっと肉体に密着した何か、肉体に根ざした「音楽」がそこに響いているのかもしれない。

 そうか、女性なのか。そう思って、また別の詩を読み返してみる。「上昇」。

小さな ささやかなものから
はじめなくては テントウムシの
羽の黒い点から はじめなくては
揺らやぐ草や
野薔薇の花をこえ
伸びたり縮んだりする爪
茂みからのぞく前足をこえ
太陽を隠す
雲をこえて、とらえがたい
ひとすじの霧をぬけ、しかめ面して
自分の中でちぎれる風のところまで
麓から出発しなくてはならない

 「小さな ささやかなものから/はじめ」る。まず「小さな」「ささやかな」ということばからはじめてしまう。そういう抽象的なことばの出発は、私には「男性」の癖のように思えるけれど、この「小さな」「ささやかな」はテントウムシの黒い点そのものの具体的な何かなのだろう。
 たとえて言えば、「夜」の「林檎の種子」のように、「内部」に「いのち」として存在するものなのだろう。何かと対比し、そのなかから「小さな」「ささやかな」を抽象するのではなく、逆に、存在の内部へ突き進み、そこで必然的にぶつかる「具体」としての存在なのだろう。
 そう意識して読むと、ことばの動きがたしかにはっきりする。
 前へ進む--というのは、自分自身の中へ(内部へ--たとえば子宮へ)進むということである。「自分の中でちぎれる風」というときの「自分」は「肉体」そのもなのだ。

雲をぬける光
森をぬける獣のように
頂まで 命が濃くなり
鋭くなり 死が薄められ
軽くなる その点まで そこからすべてが
ささやかで小さく見える 出発しなくては
ふたたびそこから 下へ
なにかの形にむかって でかけるため
言葉が砕ける
その小道をたどって

 この詩にも「夜」と同じように、上昇と下降の結びつきがある。上昇するのは下降するためである。下降とは上から下へではなく、外から内部へ、である。
 そして、矛盾した言い方になるが、上昇とは(頂をめざす)とは、実は「内部」をめざすということである。「内部」、いのちの源--そこから見ると、テントウムシの黒い点も野薔薇の花も「ちいさな ささやかなもの」である。小さく、ささやかではあるけれど、いのちの具体化した「かわいい」存在である。
 そのことをしっかり「肉体」としてつかみ取って、それからもう一度「内部」へもどる。
 たぶん、内部から出発して、真実をつかみ取る--そのつかみ取るということが「頂」へのぼることである。「外部」を獲得することである。言い換えると、「ことば」を獲得することである。その「ことば」から、もう一度「内部」(肉体)へ引き返す。
 ことばを媒体にして、ヴォイスラヴ・カラノヴィッチは上昇と下降、外部と内部の往復運動をしっかりと定着させるのだ。そして、その「根源」には、blue snow さんの指摘している「子宮」があるのかもしれない。

 頂(外部)から下降する(内部へ回帰する)。そのとき「言葉が砕ける」。

 あ、これは美しい。ほんとうに美しい。
 男のことば、たとえばジョイスのことばを私は思い浮かべるのだが、男のことばは、ことばを突き破って外へ外へと広がる。広げようとする運動である。外への運動を加速するとき、ことばが加速に耐えられず分解する、砕ける。そのとき、詩が輝く。
 女のことばの砕け方は違うのだ。すくなくともヴォイスラヴ・カラノヴィッチは違うと考えているように思える。
 肉体の内部から出発した「いのち」は外部に触れることでことばを知る。そして、その知ったことをもう一度「内部」へ回帰させるとき、外部としてのことばは「砕ける」。そこに詩がある。そんなふうにして詩は誕生する。
 この哲学は強烈である。あざやかである。美しいとしかいいようがない。
 この美しさを教えてくれたblue snow さんに深く感謝したい。

 「静まりゆくもの」には、山崎佳代子の不思議なこころみがなされている。

ひとつひとつ
心臓の鼓動が擦れあう
砂の粒のように
僕といえば
身じろぎひとつしない
水底の砂の
ヒトデのように
静かに横たわる
僕をめぐる世界は
こんなに出来事ばかり
こんなに細部ばかり
僕は静かに
横たわる
僕をめぐる世界に

 「僕」と訳出されているのは「人称」ではないのかもしれない。「私」ではないのかもしれない。(女性なら--まあ、これは私の偏見なのだろうけれど、「僕」とは書かないだろう。)
 では、「僕」とは何者(何物)なのか。
 「上昇」に登場した「言葉」、それも砕けた「言葉」かもしれない。「砕けた言葉」と「肉体」の内部(子宮)を往復する何かを見つけ出したいと願っている静かな夢としての「いのち」。それが「僕」なのだろう。


現代詩手帖 2010年 10月号 [雑誌]
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野村喜和夫「眩暈原論(3)」

2010-10-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(3)」(「hotel  第2章」25、2010年09月01日発行)

 日本語の音--ということもないけれど、音が肉体に入ってくるときの快感、愉悦というものがある。きのう読んだヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「夜」(山崎佳代子訳)は、日本語の音がじゃまして、そこにあるべき音が聞こえてこない感じがした。そういうとき、なんだか、とてもつらい。詩は、「意味」ではなく、意味を超える何かである。もちろん意味もあるのだろうけれど、意味がわからなくても、そこに書かれていることばにぐいとひっぱられるときがある。そういうとき、そこに「音」が存在している。「音」に肉体がひっぱられて、意味ではないものに触れる。意味を超えたものに触れる。その瞬間に、快感、愉悦がある。そういう作品が私は好きである。
 野村喜和夫「眩暈原論(3)」は書き出しが音のよろこびに満ちている。

まず、眩暈へと、空間はふくらめ。命令形でよいのかと、そういう声も聞こえてくるが、ひとの言葉がわかる空間だって、どこかにあるだろう。ふくらめよ、眼ら、含めて。

 眩暈が眼に限定された現象であるかどうかは、私はよくわからない。けれどここでは、まず、眼から出発している。眼が見るもの--空間。空間がいまある形からかわるとき、その変化は眼に作用し、眩暈を引き起こすかもしれない。
 でも、まあ、そんな「意味」は、私にはどうでもいい。
 「空間はふくらめ」の「ふくらめ」が、とても美しい。「ふくらめ」というような命令形(?)を私はつかったことがない。はじめて聞く(眼にする)音である。そのはじめての音が、なめらかで、のびやかで、それこそ「枠」をこえてふくらんでくる。そのふくらみに、瞬間的につつみこまれてしまう。
 「意味」はわかるが、なんだか奇妙である。奇妙であるのだけれど、音が美しいので納得してしまう。
 「意味」はわかる--と書いたが、まあ、意味としては実際奇妙だと思う。「ふくらむ」は自動詞であり、他動詞としてつかうときは「ふくらませる」である。命令形は「ふくらませる」を活用させてつくると思う。「風船をふくらませよ」「腹をふくらませよ」という具合。風船に「ふくらめ」と命令しても、風船はふくらまないね。風船をふくらませる競争をしているとき、応援で「もっとふくらめ、ふくらめ」と声をかけることがあったとしても、それは実際には風船をふくらませているひとに対して「もっともっと」と声をかけているのに等しい。風船は、そういう呼びかけには答えようがない。
 「空間」も同じである。だからこそ野村は「ひとの言葉がわかる空間だって、どこかにはあるだろう。」と補足(?)しているのだが、それにしたって、どうやって? どうやって空間は自らふくらむことができる?
 「意味」はわかるけれど、ここにかかれていることは「理不尽」である。「頭」は「理不尽」だと主張する。私の場合は。
 しかし、私の「肉体」は、それを「理不尽」だとは判断しないのだ。耳がまず、その音の美しさを感じてしまう。そして眼は空間がふくらむのを見てしまう。命令されてふくらむ空間などないのだが、その存在しないものを眼は見てしまう。そして、その空間がふくらんでくる様子が「ふくらめ」という音と美しく調和するのである。
 「空間は膨張せよ」でも「意味」は同じだが、耳と眼は違う反応をしてしまう。「ふくらめ」の方が私にはぴったりくる。やわらかくて、なまめかしくて、うれしい感じがするのだ。どこにもやわらかさとか、なまめかしさというものは書かれていないのに、それを感じてしまう。それで、うれしくなる。
 そして、いま、どこにも書かれないないと書いたことと矛盾してしまうのだが--それは書かれているとも感じるのだ。

ふくらめよ、眼ら、含めて。

 空間がふくれるとき、ふくれるのは空間だけではない。眼がふくれる。眼がふくらんだ空間をとらえるとき、眼そのものもふくらんでいる(とらえる領域、視界がひろがっている)。空間に眼は含まれて、一緒にふくらんでいく。
 この一体感。
 そこには、眼だけではなく、耳だけではなく、喉や舌や口蓋もふくまれる。「ふくらめ」「ふくらめよ」と声に出すとき、舌や喉や口蓋が動くからである。ここには「肉体」の一体感がある。音が発せられるときの、「肉体」の一体感がある。
 そして、最後の「ふくらめよ」と「含めて」の音の重複に、ふしぎななまめかしさを感じてしまう。
 ふくらむことは、ふくむこと。何かをふくむことはふくらむこと。
 好色な(?)野村のことばに影響されているせいか、たとえば、こんなことを夢想する。男が女の乳房を口に含んでいる。そのとき男のほっぺたはふくらんでいる。それだけではなく、男の口の中で女の乳房がふくらんでいる。男の口にふくまれることで、女の乳房はふくらみ、育つのである。
 だから、女は「もっと、もっと」と口走る。この「もっと、もっと」を翻訳(?)すると、「もっと吸って」かもしれないが、それは「もっと含んで」かもしれない。そして、私の「学校教科書文法」はいいかげんだから、「もっと含んで」は「もっと含めて」であるかもしれないと感じてしまう。いや、野村の書いた最後の「含めて」は「もっと含んで(吸って)」と同じことではないだろうかとさえ思うのだ。
 だって、命令形は「……し(せ)て」という形をとるでしょ? もっと風船をふくらま「せて」(して)。
 そうであるなら、「含めて」は不思議な命令形なのである。眼を含めることを命じているのである。眼ら、であるから、それは眼だけではなく、肉体のあらゆる感覚を、ということかもしれない。
 あらゆる感覚を--というときの「あらゆる」は「一体感」そのものである。

 --野村は私がここで書いたようなことを書いていないかもしれない。私が書いたことはすべて「誤読」であるかもしれない。
 そうであっても、私はまったく気にしない。
 詩は「意味」ではないし、私が詩を読む(本を読む)のは、作者が何を感じているか、何を考えたかを知るためでもない。作者のことばに触発されて、私のことばがかってに動いていく--そのことが楽しくて、私は本を読む。「誤読」をするために、本を読む。




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