佐々木洋一『ここ、あそこ』(2)(土曜美術出版、2010年09月30日発行)
佐々木洋一『ここ、あそこ』には気持ちのいい詩がたくさんある。そのなかでも私は「さくら」がいちばん好きである。
春の日射しのなか桜の花びらが散っている。偶然通りかかった軽トラックがその花びらをのせて走っていく。それだけである。でも、いいなあ、と思う。
「ひらひらひらん」の読点「、」を挟みながらの音楽が楽しい。軽トラックも楽しい。「花びらを積」み、「加速」する軽トラックがとても楽しい。花びらの重さではなく、軽さのために軽トラックがさらに軽くなり、花びらとは違って宙を舞っていくようでもある。
この、明るく楽しい詩を、いいなあ、と思うのは、それが明るく楽しいからというのはもちろんだが、それ以外のことも私は考えた。
この詩に書かれている「思想」について考えた。佐々木にしか書けないことばがあると思った。
この1行が、佐々木の思想である。
きのう私は佐々木の詩を読みながら、「ぼんやり」とか「放心」とかということばで佐々木の思想を追いかけてみた。「ぼんやり」「放心」のなかで、「ふたつ」が「ひとつ」になる。そんなことを考えた。
この瞬間--それを、佐々木は「ちょうどその時」ということばで呼んでいるのだ。
「ぼんやり」「放心」しているとき、そこには「時間」というものはないように感じられる。「時間」を忘れてしまっているように感じられる。
「何をぼんやりしているんだ」と叱られるとき、それはたいてい、そんなことをしている「時間」ではないのだぞ、しっかり集中しろ、という意味である。「時間」をむだにするな、という意味でもある。
だが、この「ぼんやり」「放心」にも「時間」があるのだ。それは「ちょうどその時」を待っているのだ。あらゆる「もの」はそれぞれに動き回り、それぞれに「時間」を生きている。だから、それがうまい具合に出会うというのはなかなか難しい。あらゆる「もの」が、ちゃんとしたた「時間」に出会えなくて困っている。
「ちょうどその時」は、「ぼんやり」「放心」して待つしかないのである。
いや、そうではなく「ぼんやり」「放心」しているものだけが、どんな「時」でも「ちょうどその時」にかえることができるのだ。「ぼんやり」「放心」していないと、「ちょうどその時」には出会えないのだ。
この詩が、まさに、そのことを語っている。
桜の花びらが散っている。そのときの、聞こえるのか、聞こえないのかわからない「ひらひらひらん」という音楽にこころを解き放ち「放心」している、「ぼんやり」している。そんなふうに何も考えていないからこそ、軽トラックが花びらを積んで行った--というどうでもいいこと(? --どうでもいいこと、というのは実際の生活には無関係という意味である)が見えるのだ。そういう瞬間に立ち会うことができるのだ。
あらゆるできごとには、「ちょうどその時」がある。佐々木は、それを知っている。
ためしに、この詩から「ちょうどその時」という1行を削除してみると、佐々木の書いていることがはっきりするかもしれない。
「ちょうどその時」がなくても、この詩の「意味」はかわらない。トラックが桜の花びらを乗せて北へ走って行ったことがかわるわけではない。「ちょうどその時」というような堅苦しいことばがない方が、花びらとトラック、そして北へ向かうことの不思議な楽しさがわかりやすいかもしれない。
けれど、それでは佐々木の書きたいことが見えなくなってしまう。
ここにあるのは「ちょうどその時」という瞬間--永遠とつながっている「時」だけなのである。「ひらひらひらん」と散っている花びら。それも「無時間」のなかを、つまり「ぼんやり」「放心」した状態の時間のなかで散っているように見えるけれど、そうではなくて、それぞれが「ちょうどその時」を散っているのである。
同じように、そして「無時間」を散っているように見えてそうではない、ということを刻印するために読点「、」がある。音の呼吸がある。同じように見えても、それぞれの動きが少しずつ違う。それはそれぞれの花びらが
つまり自分にふさわしい「時」に宙を舞っているからである。
そして、佐々木のことばは、その花びらと同じように、「ちょうどその時」詩になる。そして、「ここ」から、たとえば「北」へ--つまり、その「時」が来るのを待っている「時」へと運ばれていくのだ。
佐々木洋一『ここ、あそこ』には気持ちのいい詩がたくさんある。そのなかでも私は「さくら」がいちばん好きである。
ひざしのはざまで
ひら、ひら、ひらん
ひらひら、ひらん
ひら、ひら、ひらん
ちょうどその時
軽トラックが土手の小道を走ってきて
花びらを積むと
一気に加速し
北の方へ駆け抜けて行った
ひざしをつかむと
ひらひらひらん
ひらひら、ひらん
ひらひらひらん
春の日射しのなか桜の花びらが散っている。偶然通りかかった軽トラックがその花びらをのせて走っていく。それだけである。でも、いいなあ、と思う。
「ひらひらひらん」の読点「、」を挟みながらの音楽が楽しい。軽トラックも楽しい。「花びらを積」み、「加速」する軽トラックがとても楽しい。花びらの重さではなく、軽さのために軽トラックがさらに軽くなり、花びらとは違って宙を舞っていくようでもある。
この、明るく楽しい詩を、いいなあ、と思うのは、それが明るく楽しいからというのはもちろんだが、それ以外のことも私は考えた。
この詩に書かれている「思想」について考えた。佐々木にしか書けないことばがあると思った。
ちょうどその時
この1行が、佐々木の思想である。
きのう私は佐々木の詩を読みながら、「ぼんやり」とか「放心」とかということばで佐々木の思想を追いかけてみた。「ぼんやり」「放心」のなかで、「ふたつ」が「ひとつ」になる。そんなことを考えた。
この瞬間--それを、佐々木は「ちょうどその時」ということばで呼んでいるのだ。
「ぼんやり」「放心」しているとき、そこには「時間」というものはないように感じられる。「時間」を忘れてしまっているように感じられる。
「何をぼんやりしているんだ」と叱られるとき、それはたいてい、そんなことをしている「時間」ではないのだぞ、しっかり集中しろ、という意味である。「時間」をむだにするな、という意味でもある。
だが、この「ぼんやり」「放心」にも「時間」があるのだ。それは「ちょうどその時」を待っているのだ。あらゆる「もの」はそれぞれに動き回り、それぞれに「時間」を生きている。だから、それがうまい具合に出会うというのはなかなか難しい。あらゆる「もの」が、ちゃんとしたた「時間」に出会えなくて困っている。
「ちょうどその時」は、「ぼんやり」「放心」して待つしかないのである。
いや、そうではなく「ぼんやり」「放心」しているものだけが、どんな「時」でも「ちょうどその時」にかえることができるのだ。「ぼんやり」「放心」していないと、「ちょうどその時」には出会えないのだ。
この詩が、まさに、そのことを語っている。
桜の花びらが散っている。そのときの、聞こえるのか、聞こえないのかわからない「ひらひらひらん」という音楽にこころを解き放ち「放心」している、「ぼんやり」している。そんなふうに何も考えていないからこそ、軽トラックが花びらを積んで行った--というどうでもいいこと(? --どうでもいいこと、というのは実際の生活には無関係という意味である)が見えるのだ。そういう瞬間に立ち会うことができるのだ。
あらゆるできごとには、「ちょうどその時」がある。佐々木は、それを知っている。
ためしに、この詩から「ちょうどその時」という1行を削除してみると、佐々木の書いていることがはっきりするかもしれない。
「ちょうどその時」がなくても、この詩の「意味」はかわらない。トラックが桜の花びらを乗せて北へ走って行ったことがかわるわけではない。「ちょうどその時」というような堅苦しいことばがない方が、花びらとトラック、そして北へ向かうことの不思議な楽しさがわかりやすいかもしれない。
けれど、それでは佐々木の書きたいことが見えなくなってしまう。
ここにあるのは「ちょうどその時」という瞬間--永遠とつながっている「時」だけなのである。「ひらひらひらん」と散っている花びら。それも「無時間」のなかを、つまり「ぼんやり」「放心」した状態の時間のなかで散っているように見えるけれど、そうではなくて、それぞれが「ちょうどその時」を散っているのである。
同じように、そして「無時間」を散っているように見えてそうではない、ということを刻印するために読点「、」がある。音の呼吸がある。同じように見えても、それぞれの動きが少しずつ違う。それはそれぞれの花びらが
ちょうどその時
つまり自分にふさわしい「時」に宙を舞っているからである。
そして、佐々木のことばは、その花びらと同じように、「ちょうどその時」詩になる。そして、「ここ」から、たとえば「北」へ--つまり、その「時」が来るのを待っている「時」へと運ばれていくのだ。
さりらりら―詩集 (1984年) | |
佐々木 洋一 | |
青磁社 |