詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「絵」

2010-10-04 20:47:28 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「絵」(朝日新聞2010年10月3日夕刊)

 谷川俊太郎の詩は、ときどき感想のことばがつながらない。どう感想を書けばいいのかわからない。
「絵」は短い作品である。

女の子は心の中の地平線を
クレヨンで画用紙の上に移動させた
手前には好きな男の子と自分の後姿(うしろすがた)
地平に向かって手をつないでいる

何十年も後になって彼女は不意に
むかし描いたその絵を思い出す
そのときの自分の気持ちを
男の子の汗くささといっしょに

わけも分からず涙があふれた
夫に背を向けて眠る彼女の目から

 最初は1連目のことばの動きに、夢見るこころをそのまま見るようで、そのことをなんとか書きたいと思った。「女の子は心の中の地平線を/クレヨンで画用紙の上に移動させた」というのは、どきどきするような美しさだ。地平線は、心の中ではどんな位置にあるのだろう。画用紙に引いた地平線と同じ位置だろうか。画用紙に移すとき、心の位置より高い位置にしたのだろうか。低い位置にしたのだろうか。地平線までの「距離」をどんなふうに「絵」にしたのだろうか。地平線は、少女と少年の頭上にあるのだろうか。あるいは、たとえばふたりの胴のあたりか。地平線の位置によって、ふたりの「未来」の大きさも違って見えるような気がする。
 こんなことを思うのは、2行目の「移動させた」ということばの力だ。画用紙の上で、地平線をどこに引こうか考えている少女が、ふと目に浮かぶのである。「未来」をどんなふうに描こうか、考えている少女の気持ち、喜びと不安が見えるように感じられるからだ。
 そのときは、喜びと不安は存在せず、単にきよらかな夢だったかもしれない。けれど何十年もたってみると、地平線を「移動させる」という行為のなかに、無意識の喜びと不安があったような気がする。少女はそんなことを感じたのではないのか、という気がしてくる。
 意識しなかったものが、いま、見える。
 見えるといっても、それは本当に見えるのか。それは錯覚かもしれない。
 そんなことを感想として書きたかった――と、実際に書いてはいるのだけれど、書きながら、もうひとつ別の感想も書きたい、という気持ちになるのだ。

 最終連の「わけも分からず」。このことばがとても印象に残る。ほんとうは「わかる」のだが、「わかる」にことばが追いつかない。こころは完全に「わけがわかっている」。わかりすぎている。説明の必要がない。でも、ことばが、「頭」が追いつかず、ことばとしてきちんとした形にならない。
 くやしいね。
 そして、そのことばにならないことがらに、最初に書いた「地平線」を「移動させた」が重なる。「不安」を、あのとき「わかっていた」のかもしれない。美しい夢が消えた――というだけではなく、不安の予感が、いま的中した。そのことを認めたくない。そんなこころはないだろうか。

 その、いま書いたふたつの感想を、溶け合わせる形で書けたらなあ、と思うのだが、うまい具合につながらない。


谷川俊太郎質問箱
谷川 俊太郎
東京糸井重里事務所

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秋山基夫「噴水」

2010-10-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「噴水」(「ペーパー」7、2010年08月01日発行)

 秋山基夫「噴水」は、かなり古くさい感じではじまる。そこに書いてあることばはけっして新しくない。

大理石の巨大な水盤の中央から 数本の水が一つの束になって空中高く噴き上げる 水は高く昇っていき その頂点で巨大な花のように開く 花びらは自らの重みに耐えかねて落下する

 どこかで読んだようなことばばかりである。そう思っていると、それに「ある噴水に関する回想」というタイトル(?)をもった別のことばが重なってくる。

わたしはかつてある詩人が書いた「赤い花」という詩を読んだことがある。その冒頭に一基の噴水についての簡単な記述があった。--ある人物が一種の西洋式庭園を訪れて、びっしりと蔦が絡みついたアーチ型の石門を潜り抜けると、常緑樹に囲まれた広大な芝生の空間が広がっていて、その中央に噴水は設置されていたのだった。ところがわたしが詩の記述にしたがってそこを訪れたときは噴水はすでに涸れていた。

 秋山(あるいは、「わたし」)が問題にしている「記述」とは、何を指しているのだろう。「--」の後に書かれていることなのか。あるいは、作品の冒頭に書かれていた古くさい噴水の描写なのか。それとも、ここには書かれていないのか。
 答えは、あるいはどうでもいいのだろう。
 秋山が書きたいのは「記述」である。「記述」というものがこの世界に存在する。そして、その「記述」は、「わたし」が記述通りの噴水を見つけられなかったように(あるいは、その記述を裏切る形で噴水が存在していたように)、現実・ものとは重なり合わない。それが「宿命」である。
 「記述」は「現実」や「もの」とは重ならない。「記述」はただ「記述」とのみ重なる。「記述」はどんな「記述」についても重ねることができる。
 秋山がしているのは「記述」に「記述」を重ねるということである。冒頭の古くさいことばに、「ある噴水に関する回想」というタイトルを挟んで、別の「記述」を重ねる。そのとき、秋山にとっての「リアル」な噴水は、前の「記述」のなかに存在するのか、それとも重ね合わせたあとの「記述」のなかに存在するのか。
 秋山は、この作品ではさらに構造を階層化している。噴水の設計図を探し、噴水の工事をしたひとを探し、噴水の持ち主を探す。そのたびに、「記述」が増える。噴水は徐々に噴水から遠くなる。つまり、ますます水を噴き上げる噴水ではなくなる。そして、「記述」としての噴水が噴水でなくなればなくなるほど、秋山(わたし)のなかで、噴水が「願望」(欲望)として存在しはじめる。
 「記述」はそういう願望や欲望を明確にするためのもの--願望、欲望を掘りあてるためのものなのだ。

 と、ここまで書いてくれば、秋山のやっていることがわかる。
 冒頭の噴水はどれだけ古くてもかまわない。既視感のあることばであってもかまわない。その古びたことばにことばを重ねる、「記述」を重ね、重ならないことを増やしながら、秋山は彼自身の願望・欲望を掘り進むのである。
 「記述」に「記述」を重ねることは、「記述」から「記述」を引き剥がすことと同じなのだ。いや「記述」に「記述」を重ね合わせないことには、「記述」を動かしている欲望にたどりつけない。何が同じで何が違うかということを少しずつ追い詰めていくことが、自分自身の(秋山自身の)「記述」を探し出すこと、秋山自身が「噴水」になって、ことばを噴き上げ、そのことばの重みで自らの花びらを散らすといういのちを生きることなのだ。
 そういう意味では、秋山にとっては「噴水」よりも、同じ「ペーパー」に掲載されている「戦争の語り方」のようなエッセイの方が「詩」なのである。「戦争の語り方」ではまず瀬尾育生が引用されている。瀬尾育生のことば(記述)に対する秋山の「記述」が重ねられる。瀬尾の考えを明らかにしながら、秋山の考えを明らかにしていく。そのときの、同一と差異--そのどこまでも動いていく亀裂としていの「記述」。それが、まあ、「噴水」なのである。

 秋山は、存在、ものから詩をはじめるのではない。「記述」から詩をはじめる。「記述」に「記述」を重ねることで、ことばを破壊する。生成させる。「記述」に「記述」を重ねつづけることが、秋山にとっての詩である。だから、秋山のことばはどこまでもどこまでも長くなる。終わりをもたない。完結しない。未完であることが、秋山の詩にとっては「必然」である。そして「自然」である。
 だから、あえていうのだが、「噴水」の最後、その一行を紀貫之の歌でしめくくるとき、それは「自然」ではなくなる。涸れてしまった「噴水」になる。涸れることが噴水の必然だとしても、それは秋山の「記述」の運動の「自然」ではない--と私は思う。
 引用で「記述」を閉じるのは、秋山の場合、完全に自己否定になると、私は思う。


詩行論
秋山 基夫
思潮社

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