ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「夜」(山崎佳代子訳)(「現代詩手帖」2010年10月号)
ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「夜」(山崎佳代子訳)は不思議な作品である。書いてあることがわからない。書いてあることが、見える。見えるものと、ことばが、ことばとして動かない。文にならない。単語が、そこに「もの」を存在させるのだけれど、その「もの」は動かないのだ。
テーブルの上に林檎がある。割る。すると真っ白な円があらわれる。それは、空の月だ。林檎のなかにあった月が、半分に割られた瞬間、ぱっと空に浮かぶ。そして、その空の月が花びらを散らせる。ことばの順序とは違うのだが、空へ駆け上る月のスピード、そのときの風が花びらを散らせる。そして、その花びらは、これもなんだか順序が違うのだが、林檎が結実するときに散らせる花びらのように見える。花びらが散らないと林檎は結実しない。実った林檎は半分に割られない限り、その内部の月を見せることはないのだが……。
書かれていることばの順序をひっくりかえすようにして別の運動がある。
そのために、私にはこの詩がわからない。わからないのだけれど、林檎と月と花びらが見える。
林檎を割るとあらわれる月、それは花びらを散らしながら実を結ぶ林檎の、いま、ここには存在しない時間の形……。
そんなことを考えるとき、私は、ふと音楽を聴いたように思う。
あ、この音楽--私が聞いたことのない音楽がある。しかし、それは一度聞いたらきっとわすれることのできない音楽である。詩、純粋な詩そのものとしての音楽である。
それを、なんとか具体的に聞きたい。
たとえば、どんな音楽だろう。
そこまで考えたとき、ちょっと変なことが私に起きた。
美空ひばりの「りんご追分」を思い出してしまったのだ。
りんごの花びらが
風に散ったよな
月夜に 月夜に……
あ、しかし、これは違うなあ。絶対に違う音楽だなあ、とも思う。思うけれど、いったん「りんご追分」を思い出した瞬間、きいたと思った音楽が消えてしまったのである。
この変な体験をもとにしていうと、あまりに強引な論の展開になってしまうのだが、あえて、書いておきたいことがある。
私は、「夜」を日本語で読んだ。けれど、私の読んだ「夜」はほんとうは日本語ではなく、別のことばで書かれたものである。セルビア語で書かれたものである。もしかすると、私がきいたと感じた音楽は、セルビア語と関係があるかもしれない。セルビア語の詩がもっている音楽(音の響き、リズム)は、日本語の向こう側で静かに鳴り響こうとしていたのかもしれない。けれど、それが日本語をくぐると、何かにじゃまされてしまって聞こえなくなる。私の場合、じゃましたのは美空ひばりの歌である。歌を聴いた記憶である。それが、ほんとうなら書かれていることばの響きと音を消し、そして、そこに書かれたものがもっている、そこにしかない音楽を消してしまったのだ。
山崎佳代子の翻訳が悪いというわけではないのだが、翻訳によって、たしかに失われたものがある、と私は直感した。もし、この詩をセルビア語で読めば(セルビア人なら)、きっとそこに静かな音楽を聴くのだ、と感じてしまうのだ。
それはただ透明で美しい音楽とは違うという予感もする。最初の4行はたしかに透明で美しい。けれど2連目の3行には、不思議な粘りがある。粘着質のものがある。「種」といったん言った後、もう一度「林檎の種だ」と念押し、断定するときの音楽。
それは半分に割った林檎が月になる、その月は花びらを散らしながら時間の夜を昇っていく--という美しいイメージとともに、そのイメージを思い浮かべるのが、ほかならぬ「林檎の種」である、いのちが凝縮した「核」である告げる。月は種によって夢見られた存在なのだ。
ここには、何かしら激しい運動がある。激しい往復がある。美しい旋律だけではなく、それを否定してしまうような強いリズム、音を解体して、音以前にかえろうとする何かがある。それが複合して独特の音楽を作り上げている。
これは、しかし、私の幻想である。私は「夜」をセルビア語で聞いたことがない。私は日本語で黙読しているだけだ。
こういうとき、あ、外国語がわからないのはかなしいことだなあ、と感じる。
「この実」という作品にも、いま書いたことに通じるものを感じた。
月も桃の種も桃の果肉も見える。爪を(指を)ぬらし、したたる桃の汁も。それを見つめるときの幸福も。そのときも、ある音楽が聞こえたように思う。けれど、それは日本語では鳴り響かない音楽だ--聞こえない音楽、日本語とは違った形で肉体に入り込んでくる音楽だという、なんだか、無念な感じの気持ちが、ぽつんと取り残されてしまう。セルビア語を習いたいなあ、と、ふと思う。

ヴォイスラヴ・カラノヴィッチ「夜」(山崎佳代子訳)は不思議な作品である。書いてあることがわからない。書いてあることが、見える。見えるものと、ことばが、ことばとして動かない。文にならない。単語が、そこに「もの」を存在させるのだけれど、その「もの」は動かないのだ。
あたたかくて それは林檎の
実のなかみたい 高みには
花びらが散り
かがやく、それこそが月
この思いこそ
林檎の苦い
種、林檎の種だ
テーブルの上に林檎がある。割る。すると真っ白な円があらわれる。それは、空の月だ。林檎のなかにあった月が、半分に割られた瞬間、ぱっと空に浮かぶ。そして、その空の月が花びらを散らせる。ことばの順序とは違うのだが、空へ駆け上る月のスピード、そのときの風が花びらを散らせる。そして、その花びらは、これもなんだか順序が違うのだが、林檎が結実するときに散らせる花びらのように見える。花びらが散らないと林檎は結実しない。実った林檎は半分に割られない限り、その内部の月を見せることはないのだが……。
書かれていることばの順序をひっくりかえすようにして別の運動がある。
そのために、私にはこの詩がわからない。わからないのだけれど、林檎と月と花びらが見える。
林檎を割るとあらわれる月、それは花びらを散らしながら実を結ぶ林檎の、いま、ここには存在しない時間の形……。
そんなことを考えるとき、私は、ふと音楽を聴いたように思う。
あ、この音楽--私が聞いたことのない音楽がある。しかし、それは一度聞いたらきっとわすれることのできない音楽である。詩、純粋な詩そのものとしての音楽である。
それを、なんとか具体的に聞きたい。
たとえば、どんな音楽だろう。
そこまで考えたとき、ちょっと変なことが私に起きた。
美空ひばりの「りんご追分」を思い出してしまったのだ。
りんごの花びらが
風に散ったよな
月夜に 月夜に……
あ、しかし、これは違うなあ。絶対に違う音楽だなあ、とも思う。思うけれど、いったん「りんご追分」を思い出した瞬間、きいたと思った音楽が消えてしまったのである。
この変な体験をもとにしていうと、あまりに強引な論の展開になってしまうのだが、あえて、書いておきたいことがある。
私は、「夜」を日本語で読んだ。けれど、私の読んだ「夜」はほんとうは日本語ではなく、別のことばで書かれたものである。セルビア語で書かれたものである。もしかすると、私がきいたと感じた音楽は、セルビア語と関係があるかもしれない。セルビア語の詩がもっている音楽(音の響き、リズム)は、日本語の向こう側で静かに鳴り響こうとしていたのかもしれない。けれど、それが日本語をくぐると、何かにじゃまされてしまって聞こえなくなる。私の場合、じゃましたのは美空ひばりの歌である。歌を聴いた記憶である。それが、ほんとうなら書かれていることばの響きと音を消し、そして、そこに書かれたものがもっている、そこにしかない音楽を消してしまったのだ。
山崎佳代子の翻訳が悪いというわけではないのだが、翻訳によって、たしかに失われたものがある、と私は直感した。もし、この詩をセルビア語で読めば(セルビア人なら)、きっとそこに静かな音楽を聴くのだ、と感じてしまうのだ。
それはただ透明で美しい音楽とは違うという予感もする。最初の4行はたしかに透明で美しい。けれど2連目の3行には、不思議な粘りがある。粘着質のものがある。「種」といったん言った後、もう一度「林檎の種だ」と念押し、断定するときの音楽。
それは半分に割った林檎が月になる、その月は花びらを散らしながら時間の夜を昇っていく--という美しいイメージとともに、そのイメージを思い浮かべるのが、ほかならぬ「林檎の種」である、いのちが凝縮した「核」である告げる。月は種によって夢見られた存在なのだ。
ここには、何かしら激しい運動がある。激しい往復がある。美しい旋律だけではなく、それを否定してしまうような強いリズム、音を解体して、音以前にかえろうとする何かがある。それが複合して独特の音楽を作り上げている。
これは、しかし、私の幻想である。私は「夜」をセルビア語で聞いたことがない。私は日本語で黙読しているだけだ。
こういうとき、あ、外国語がわからないのはかなしいことだなあ、と感じる。
「この実」という作品にも、いま書いたことに通じるものを感じた。
ざらざらとした桃の種と
月の表面には
さほど違いはない
慣れた人の眼に
映るほどには
ほんとうさ 爪を
皮にたてて、月の果肉を割くがいい
それから見つめるんだ
たとえば、こどもが
桃にみとれるように
月も桃の種も桃の果肉も見える。爪を(指を)ぬらし、したたる桃の汁も。それを見つめるときの幸福も。そのときも、ある音楽が聞こえたように思う。けれど、それは日本語では鳴り響かない音楽だ--聞こえない音楽、日本語とは違った形で肉体に入り込んでくる音楽だという、なんだか、無念な感じの気持ちが、ぽつんと取り残されてしまう。セルビア語を習いたいなあ、と、ふと思う。
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