詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「ひよこの空想力飛行ゲーム」

2010-10-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ひよこの空想力飛行ゲーム」(「ココア共和国」4、2010年10月01日発行)

 田中宏輔は「そだね。」ということばで、世界をつなぐ。そして、それを「肉体」にしてしまう。
 秋亜綺羅は「つなぐ」ではなく「切る」。切断する。
 ことばが持っている無意識、読者のなかにある意識の連続性を断ち切る。そして、ことばを宙ぶらりんにする。ことばを、ではなく、肉体そのものを宙ぶらりんにする。そう言えるかもしれない。
 「ひよこの空想力飛行ゲーム」というのは舞台の「台本」というべきものかもしれない。活字として読まれるのではなく、役者の(人間の)声として提出されたことばである。そのなかに、秋亜綺羅の「切断する」ことばがでてくる。
 台本に、役者たちはとまどっている。

高橋史生
あの、すみません。おれは「コップの中で昼寝しろ!」って。あの、どうなの、これ。

セトトモコ
わたしは「コップに乗って空を飛べ!」って、それって…。

寺島広
「北朝鮮までコップを投げつける」

黒川麻衣
「海をひっくり返す」

斉藤ら真生
「コップを幸福に飼育する」

江目ひとみ
あたしなんか、「コップで観客をひとり殺す」ですよ。…これって…。

 かっこのなかは秋亜綺羅が指示した「行動」である。(と、思う。)その「指示」に役者たちはどうしていいかわからない。
 「コップの中で昼寝しろ!」そんなことはできない。コップのなかに自分のからだを入れることができない。入れないのに、そのなかで昼寝などできるはずがない。
 --というのは、実は、真実であるかどうか、わからない。わかるのは、ひとつ。高橋が、コップのなかには入れない、だからどうしていいかわからなくて、「あの、どうなの、これ。」という反応しかできなかったことだ。
 高橋だけではない、役者のすべてがどうしていいかわからない。
 わからない、というのは、それをどう「つなげる」べきなのかわからないということである。秋亜綺羅のことばを、どんなふうにして「肉体」につないでいけばいいのかわからない。自分のことばにつないでいいのかわからない。
 それは別なことばで言えば、役者たちは、「つながる」ことのできない「切断」に直面しているのである。彼ら自身のなかにある「つながり」を切られてしまって、彼ら自身が宙ぶらりんになっている。
 この宙ぶらりんが秋亜綺羅の「自由」である。
 切断され、ほうりだされた「肉体」。ことばは動いていかない。ことばは動かないけれど、ことば生まれてこないけれど、そのときもそこに「肉体」がある。そして、その「 肉体」は無力である。ことばとして動くことができない、「意味」として動くことができない、という意味で、無力である。
 無力、無意味--ただ切断されてあること(いること)。
 それを秋亜綺羅は、その無力にとどまるのではなく、それを利用しようとしているのだ。「切断」されてある瞬間、たしかに役者(ことばを発する肉体)は無力である。しかし、それは「ことば」の側から見ると--「ことば」の側といっても、役者自身のことばではなく、無意識を支配して動き回っている「常識的つながり」としての「ことば」だが--そういうことばから見ると、そのとき役者の「肉体」は「常識的つながり」(束縛)から解放されている。
 なにをしようと、「ことば」の側で、役者を「それは間違っている」と否定できないのだ。「つながり」などないのだから、その「つながり方」が間違っているということはありえない。そんなことを言う権利は「ことば」にはない。

 --あ、それはそのとおりなのだが。
 私は、秋亜綺羅のこの手法が、果たしていまも有効なのかどうか、よくわからない。
 私がいま書いたような戦法がことばとの闘いにおいて有効であるというとき、秋亜綺羅が向き合っているのはあまりにも「論理的」なことばである。無意味を語りながら、秋亜綺羅のことばは「意味」としてのことばと向き合い、それを「切断」しているだけかもしれないという疑念が残る。
 「合いかぎ」という詩。

世界の果てのわたしの村に
鍵屋さんがあたらしく出来たというので
記念に合いかぎをつくってもらった
記念にほんもののカギを、捨てた

ほんものを捨てたということは
合いかぎはにせものなのだろうか
もうひとつのカギ、なのだろうか

わたしは玄関に立ち
合いかぎのためのにせものの鍵穴をみつける

合いかぎを合い穴に入れて
合いドアを開ける

 ことばは「論理」「意味」として動いていく。秋亜綺羅のことばとともに、そこにいままで読者が(私が)考えなかった論理が動きはじめる。その常識をひっくりかえすような動き--そして常識がひっくりかえされるときの解放感、それがたぶん秋亜綺羅の詩なのだが、
 うーん、
 この「切断」のされ方が、なぜか「論理的」すぎる感じがするのだ。
 「肉体」の危険を犯していない、と言い換えてもいいかもしれない。過激な感じがしない。危険な感じがしない。
 この秋亜綺羅のことばの運動に比較すると、やはり田中宏輔のことばの運動の方が過激である。危険である。
 「そだね。」の軽いひとことで、文学もゲイのおしゃべりも「つなげ」てしまい、その接続の瞬間に、遠いものが突然結びつき、あ、世界にはかけ離れたものなど何もないと感じさせる。
 秋亜綺羅は、なんといえばいいのだろう、いわば「理解されない孤独」を生きるが、田中は「理解されない非孤独」を生きるのだ。秋亜綺羅はセンチメンタルだが、田中はセンチメンタルになれない悲しみを生きるのだ。
 秋亜綺羅の肉体は「孤独」の入れ物としての肉体だが、田中の肉体は「孤独」を捨てるための肉体である、という気がする。
 秋亜綺羅の場合、ほうりだされた肉体は傷つくが、そのことで「孤独」はより純粋になる。美しくなる。一方、田中の肉体は、愛撫され、なぐさめられるが、そのことで「孤独」はよごれてしまい、そのよごれた孤独が体液のように滲み出し他人を浸食する。そのとき「絶望」が「愉悦」の顔をして肉体を飾る。

 うまく言えないが、何か、あらゆるものが逆転している気がする。「時代」が変わってしまったのに、秋亜綺羅はかわらずに、「過去」を生きている--という具合にも感じてしまった。
 40年たって、あ、それでもなお秋亜綺羅は変わらないと感じ、そはそれでなつかしいが、40年前の「思想」でいまと向き合うのは、うーん、やはり無理があるなあ、と思うのだ。

季刊 ココア共和国vol.4
秋 亜綺羅,いがらし みきお,倉田 めば
あきは書館

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コメント (2)
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