田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(3)(書肆山田、2010年10月10日発行)
「文体」と「思想」のことばかり書いてきたので、「内容」と「思想」についても書いておくべきかもしれない。
ここに田中の「書く」ということに対する「思想」というか「哲学」というか、ようするに考えていることが集約されている。書くということは、書く対象に接近していくことであり、その対象の内部にまで侵入していくことなのだが--それは何といえばいいのだろう、そんなに簡単なことではない。別なものが紛れ込んできて、ときには別なものが自己主張して、それに乗っ取られて自分自身が変わってしまう。
悲しくて、その悲しみをつきつめようとして書くのだが、その悲しみを書くということが喜びになってしまう。書く、ことばを動かすと、最初に狙っていたことと違ったところへ行ってしまう。それを、とめることができない。
そして、思想は、そのとめることのできないもののなかにあらわれる--と書きつないでしまうと、また「文体」論にもどってしまうのだけれど……。
つまり、「悲しみ」はひとつでも、それをどう書くと喜びに変わるか、というその「どう書く」ということのなかに、そのひとの「ひとがら」が出る。「ひとがら」というのは「思想」とは違うことばだけれど、私の考えでは「ひとがら」以上の「思想」はない。
人は思想というが、何か高尚なことばで語られる難しいものにひかれてある人に接近するのではない。その人を好きになるのではない。(まあ、好きになる人もいるかもしれないが)。人は人を好きになるとき、「ひとがら」にひかれて好きになる。そして硬く結びつく。人と人、他人と他人を結びつけてしまう何か以上の「思想」はない。「思想」は人と人を結びつけて、そのときはじめて「思想」になる--と私は考えているのだ。
で、田中の詩にもどると……。
ほんとうは違っているものが「肉体」のなかで変わってしまう。「肉体」のなかで、それが交錯し、違ったものになり、それなのに「肉体」はあいかわらず「肉体」のまま、そこに存在している。
「肉体」は、何か、不思議な「るつぼ」なのだ。そのなかには何でも入ってきて、そこで不思議な化学反応みたいなものを起こし、いろいろなことばとなって吐き出される。そして、そういうものを吐き出す「肉体」はといえば、あるものを飲み込んだ後も、そして吐き出した後も、前とつながったまま同じ「肉体」である。
「そだね。」のように、「肉体」が何かを肯定し(受け入れ)、それを何かに変える。その変化の「場」として「肉体」があり、そういう「肉体」を肯定して、ことばが動いていく。
あ、どうも、うまくことばが動いてくれない。
書き直そう。
この「変化」を拒否しない。それを「正しい」と断定する。そして、その、いわば「間違える正しさ」を田中は「思想」に育て上げている。
「悲しみ」を「喜び」にしてしまうなんて、ね、間違っているでしょ? 「悲しみ」なら最後まで「悲しみ」として、どっぷり、その「悲しみ」を生きなければ、「悲しみ」に対して申し訳ないでしょ? ほんとうに悲しいなら。
でもね、田中は、そんなことはできないというのだ。
「間違える」ことだけが正しい。何かを間違えて、ほんとうはそうではないものにまで行ってしまうことだけが人間のできることなのだ。それが、いわば「ふつう」の生き方なのだ。
先の3行は、次のようにつづいているのだ。
パウンドからメリルへのつながりは、「文学」という脈絡がある。けれど、「お金持ちだったでしょ。」はなんだろう。脈絡がない。ほんとうはあるんだが、すぐにはわからない。「悲しみ」が書いているうちに「喜び」にかわるというときぐらいに、論理的に考えると脈絡が見出せない。
その脈絡の見出せない部分ことが「肉体」なのだ。「肉体」のなかにある何かなのだ。それが、ふいに噴出してくる。つながってしまう。
つながってしまえば、それでいいのだ。つながってしまえば、それで存在するのだ。存在するものは何でも「思想」である。存在しえないものは「思想」ではない。
田中の、この詩のなかの「おしゃべり」は、文学の話、ゲイの話、食べ物の話など、すべて「つなげる」。つながってしまう。「悲しみ」と「喜び」のように、論理的に考えたらつながりようのないものまで、つながってしまう。
それが「内容」でもある。
これを田中は別なことばで書いている。
書く自由とは「つなげる」自由である。書くというのは「頭脳」の行為かもしれないけれど、田中はその「頭脳」を「肉体」にしてしまっている。「肉体」が「頭脳」になってしまっている。つまり、それはつながっていて、切れていない。
ある人々の「頭脳」は「肉体」から切り離されて、「頭脳」として独立している。そういう人たちは、楽々と現代思想の用語を駆使している--他人のことばを楽々と自分のことばのように使っている。「頭脳」だけで「書く」ということをやってしまうので、そこでは「矛盾」はない。
でも、田中は違う。「頭脳」と「肉体」をつなげてしまって、区別しないので、ときどき「矛盾」してしまう。「悲しみ」が「喜び」になるように。この「矛盾」を「でたらめ」(なに書いたって詩になる--の「なに」、だね)と呼ぶことができるし、また「自由」と呼ぶこともできる。
自由とは、別のことばで言えば矛盾なのだ。そして、その矛盾をまた別のことばで言えば「エッジ」になる。
田中は、その「エッジ」を田中の「肉体」で、田中のことばで実践している。
そして、その「エッジ」を私は「そだね。」に感じている。「過剰な欠如」、欠如が過剰にあるということと、過剰なのに欠如しているということの同居--矛盾する自由を感じている。
--と、ここまで書けば、「文体」と「内容」について「つなげて」書いたことになるかなあ。
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「文体」と「思想」のことばかり書いてきたので、「内容」と「思想」についても書いておくべきかもしれない。
悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。
ここに田中の「書く」ということに対する「思想」というか「哲学」というか、ようするに考えていることが集約されている。書くということは、書く対象に接近していくことであり、その対象の内部にまで侵入していくことなのだが--それは何といえばいいのだろう、そんなに簡単なことではない。別なものが紛れ込んできて、ときには別なものが自己主張して、それに乗っ取られて自分自身が変わってしまう。
悲しくて、その悲しみをつきつめようとして書くのだが、その悲しみを書くということが喜びになってしまう。書く、ことばを動かすと、最初に狙っていたことと違ったところへ行ってしまう。それを、とめることができない。
そして、思想は、そのとめることのできないもののなかにあらわれる--と書きつないでしまうと、また「文体」論にもどってしまうのだけれど……。
つまり、「悲しみ」はひとつでも、それをどう書くと喜びに変わるか、というその「どう書く」ということのなかに、そのひとの「ひとがら」が出る。「ひとがら」というのは「思想」とは違うことばだけれど、私の考えでは「ひとがら」以上の「思想」はない。
人は思想というが、何か高尚なことばで語られる難しいものにひかれてある人に接近するのではない。その人を好きになるのではない。(まあ、好きになる人もいるかもしれないが)。人は人を好きになるとき、「ひとがら」にひかれて好きになる。そして硬く結びつく。人と人、他人と他人を結びつけてしまう何か以上の「思想」はない。「思想」は人と人を結びつけて、そのときはじめて「思想」になる--と私は考えているのだ。
で、田中の詩にもどると……。
悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。
ほんとうは違っているものが「肉体」のなかで変わってしまう。「肉体」のなかで、それが交錯し、違ったものになり、それなのに「肉体」はあいかわらず「肉体」のまま、そこに存在している。
「肉体」は、何か、不思議な「るつぼ」なのだ。そのなかには何でも入ってきて、そこで不思議な化学反応みたいなものを起こし、いろいろなことばとなって吐き出される。そして、そういうものを吐き出す「肉体」はといえば、あるものを飲み込んだ後も、そして吐き出した後も、前とつながったまま同じ「肉体」である。
「そだね。」のように、「肉体」が何かを肯定し(受け入れ)、それを何かに変える。その変化の「場」として「肉体」があり、そういう「肉体」を肯定して、ことばが動いていく。
あ、どうも、うまくことばが動いてくれない。
書き直そう。
悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。
この「変化」を拒否しない。それを「正しい」と断定する。そして、その、いわば「間違える正しさ」を田中は「思想」に育て上げている。
「悲しみ」を「喜び」にしてしまうなんて、ね、間違っているでしょ? 「悲しみ」なら最後まで「悲しみ」として、どっぷり、その「悲しみ」を生きなければ、「悲しみ」に対して申し訳ないでしょ? ほんとうに悲しいなら。
でもね、田中は、そんなことはできないというのだ。
「間違える」ことだけが正しい。何かを間違えて、ほんとうはそうではないものにまで行ってしまうことだけが人間のできることなのだ。それが、いわば「ふつう」の生き方なのだ。
先の3行は、次のようにつづいているのだ。
悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。
でも、あの歴史的な悲劇
第二次世界大戦というあの悲劇と
パウンド自体が招いた悲劇のせいで
余裕がないように見えるよね。
メリルは、その点
歴史的な悲劇を被っていなかったということでラッキーだったし
しかも
お金持ちだったでしょ。」
パウンドからメリルへのつながりは、「文学」という脈絡がある。けれど、「お金持ちだったでしょ。」はなんだろう。脈絡がない。ほんとうはあるんだが、すぐにはわからない。「悲しみ」が書いているうちに「喜び」にかわるというときぐらいに、論理的に考えると脈絡が見出せない。
その脈絡の見出せない部分ことが「肉体」なのだ。「肉体」のなかにある何かなのだ。それが、ふいに噴出してくる。つながってしまう。
つながってしまえば、それでいいのだ。つながってしまえば、それで存在するのだ。存在するものは何でも「思想」である。存在しえないものは「思想」ではない。
田中の、この詩のなかの「おしゃべり」は、文学の話、ゲイの話、食べ物の話など、すべて「つなげる」。つながってしまう。「悲しみ」と「喜び」のように、論理的に考えたらつながりようのないものまで、つながってしまう。
それが「内容」でもある。
これを田中は別なことばで書いている。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ読んでさ
パウンドやジェームズ・メリル読んだらさ
ほんとに、もう
なんだっていいんだ
なに書いたって詩になるんだ
って思わせられるよね。
自由に書くってことね。
書く自由かな?
書く自由とは「つなげる」自由である。書くというのは「頭脳」の行為かもしれないけれど、田中はその「頭脳」を「肉体」にしてしまっている。「肉体」が「頭脳」になってしまっている。つまり、それはつながっていて、切れていない。
ある人々の「頭脳」は「肉体」から切り離されて、「頭脳」として独立している。そういう人たちは、楽々と現代思想の用語を駆使している--他人のことばを楽々と自分のことばのように使っている。「頭脳」だけで「書く」ということをやってしまうので、そこでは「矛盾」はない。
でも、田中は違う。「頭脳」と「肉体」をつなげてしまって、区別しないので、ときどき「矛盾」してしまう。「悲しみ」が「喜び」になるように。この「矛盾」を「でたらめ」(なに書いたって詩になる--の「なに」、だね)と呼ぶことができるし、また「自由」と呼ぶこともできる。
自由とは、別のことばで言えば矛盾なのだ。そして、その矛盾をまた別のことばで言えば「エッジ」になる。
芸術ってさ
欠けているとこがあるんだよね。
アンバランスというかさ
不均衡なところがあるんだよね。
過剰な欠如もあるし
過剰なの
でも
欠如してるの。
それがエッジなの。
田中は、その「エッジ」を田中の「肉体」で、田中のことばで実践している。
そして、その「エッジ」を私は「そだね。」に感じている。「過剰な欠如」、欠如が過剰にあるということと、過剰なのに欠如しているということの同居--矛盾する自由を感じている。
--と、ここまで書けば、「文体」と「内容」について「つなげて」書いたことになるかなあ。
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