「失われたとき」のつづき。
西脇の詩には「哲学的」なことばがたくさんある。それはしかし同時に「音楽的」でもある。
ここに書かれていること、考えるとなんだか深刻なテーマであるような気がするが、私は、まあ、そんなことは考えない。
ここに書かれていることばが私は大好きだが、ふたつ理由がある。
ひとつは「たずねた人が留守であるほど/人間らしいなやみが/無限につづく」の奇妙なことばの動きである。たずねた人が留守なら、私の場合、がっかりする、空しい、というような感じだが、そういうどうでもいい(?)ことを「人間らしいなやみ」と深刻に動かすこと、そしてそれが「無限につづく」とおおげさにいうこと。その「わざとらしい」ことばの運動が、「がっかり」とか「むなしい」を異化する。あ、そうか、「がっかり」を「人間らしいなやみ」といってしまうと、ことばの動き方が変わってきて、そのいつもとは違うという感じが詩なんだな、と思う。
もうひとつは、そのとに繰り返されることば--ことばの繰り返しの面白さである。
ことばは繰り返すと、同じことばのままでは存在しえなくなる。繰り返すたびに、意識のなかに「ずれ」がうまれてくる。前のことばと、次のことばのあいだに、反復による深みがうまれて来る。その深みはさっかくかもしれないが、そう錯覚することが、なにやら「思考」している気分を高めるのである。また繰り返すことで、ことばにリズムが生まれ、「思考」というような重苦しいものが軽快なダンスのようにかわる。
西脇が「意味」を書いているかどうか、私にはよくわからないが、
という繰り返しは非常に楽しい。先に書いたこととは矛盾するのだが、繰り返しはまた、ことばから「意味」を剥奪してしまうのである。「深み」をうみながら、その「深み」を軽々と飛び越してしまう。
この「深み」と「超越(飛躍、飛翔?)」の一種の矛盾が、西脇の詩を楽しくさせる。

西脇の詩には「哲学的」なことばがたくさんある。それはしかし同時に「音楽的」でもある。
たずねた人が留守であるほど
人間らしいなやみが
無限につづく
考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて
時間もなくなつて空間ばかり
が永遠にはてしなくつづいていて
それがまた自分のとたろへ
もどつて来る悲しみは
人間の生命となつてまた悲しむ
ここに書かれていること、考えるとなんだか深刻なテーマであるような気がするが、私は、まあ、そんなことは考えない。
ここに書かれていることばが私は大好きだが、ふたつ理由がある。
ひとつは「たずねた人が留守であるほど/人間らしいなやみが/無限につづく」の奇妙なことばの動きである。たずねた人が留守なら、私の場合、がっかりする、空しい、というような感じだが、そういうどうでもいい(?)ことを「人間らしいなやみ」と深刻に動かすこと、そしてそれが「無限につづく」とおおげさにいうこと。その「わざとらしい」ことばの運動が、「がっかり」とか「むなしい」を異化する。あ、そうか、「がっかり」を「人間らしいなやみ」といってしまうと、ことばの動き方が変わってきて、そのいつもとは違うという感じが詩なんだな、と思う。
もうひとつは、そのとに繰り返されることば--ことばの繰り返しの面白さである。
ことばは繰り返すと、同じことばのままでは存在しえなくなる。繰り返すたびに、意識のなかに「ずれ」がうまれてくる。前のことばと、次のことばのあいだに、反復による深みがうまれて来る。その深みはさっかくかもしれないが、そう錯覚することが、なにやら「思考」している気分を高めるのである。また繰り返すことで、ことばにリズムが生まれ、「思考」というような重苦しいものが軽快なダンスのようにかわる。
西脇が「意味」を書いているかどうか、私にはよくわからないが、
考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて
という繰り返しは非常に楽しい。先に書いたこととは矛盾するのだが、繰り返しはまた、ことばから「意味」を剥奪してしまうのである。「深み」をうみながら、その「深み」を軽々と飛び越してしまう。
この「深み」と「超越(飛躍、飛翔?)」の一種の矛盾が、西脇の詩を楽しくさせる。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ) |
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