詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(147 )

2010-10-26 11:01:13 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には「哲学的」なことばがたくさんある。それはしかし同時に「音楽的」でもある。

たずねた人が留守であるほど
人間らしいなやみが
無限につづく
考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて
時間もなくなつて空間ばかり
が永遠にはてしなくつづいていて
それがまた自分のとたろへ
もどつて来る悲しみは
人間の生命となつてまた悲しむ

 ここに書かれていること、考えるとなんだか深刻なテーマであるような気がするが、私は、まあ、そんなことは考えない。
 ここに書かれていることばが私は大好きだが、ふたつ理由がある。
 ひとつは「たずねた人が留守であるほど/人間らしいなやみが/無限につづく」の奇妙なことばの動きである。たずねた人が留守なら、私の場合、がっかりする、空しい、というような感じだが、そういうどうでもいい(?)ことを「人間らしいなやみ」と深刻に動かすこと、そしてそれが「無限につづく」とおおげさにいうこと。その「わざとらしい」ことばの運動が、「がっかり」とか「むなしい」を異化する。あ、そうか、「がっかり」を「人間らしいなやみ」といってしまうと、ことばの動き方が変わってきて、そのいつもとは違うという感じが詩なんだな、と思う。
 もうひとつは、そのとに繰り返されることば--ことばの繰り返しの面白さである。
 ことばは繰り返すと、同じことばのままでは存在しえなくなる。繰り返すたびに、意識のなかに「ずれ」がうまれてくる。前のことばと、次のことばのあいだに、反復による深みがうまれて来る。その深みはさっかくかもしれないが、そう錯覚することが、なにやら「思考」している気分を高めるのである。また繰り返すことで、ことばにリズムが生まれ、「思考」というような重苦しいものが軽快なダンスのようにかわる。
 西脇が「意味」を書いているかどうか、私にはよくわからないが、

考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて

 という繰り返しは非常に楽しい。先に書いたこととは矛盾するのだが、繰り返しはまた、ことばから「意味」を剥奪してしまうのである。「深み」をうみながら、その「深み」を軽々と飛び越してしまう。
 この「深み」と「超越(飛躍、飛翔?)」の一種の矛盾が、西脇の詩を楽しくさせる。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小島数子『模様』

2010-10-26 00:00:00 | 詩集
小島数子『模様』(私家版、2010年10月22日発行)

 小島数子『模様』は深い呼吸が感じられる詩集である。深いのだが、あまりに静かな呼吸なので、動いていることがわからない。どこが動いたのかわからない。そして、わからないままに、深呼吸したあとの、新しい肉体に立ち会うことになる。
 「金魚」がいちばんおもしろい。

風も吹きつけるものが鈴なら
面白いだろう
軒下に吊るされた
少女の笑みのような
赤い金魚の絵が描かれたガラスの風鈴は
時折吹く風に鳴り
その音の中に
金魚を泳がせる
そして
たとえその音の中から
金魚がいなくなったとしても
咎めないだろう

 このとき小島は「風」なのだろうか。「音」なのだろうか。「金魚」なのだろうか。たぶん、区別はない。そのどれもであり、同時にどれでもない。完全に融合している。融合したまま、動いている。
 ことばが方向を変える瞬間が2回ある。
 「その音の中に」の「その」。まど・みちおの「リンゴ」の「この」と同じように、意識がある特定のものに集中する。集中は別のことばで言えば他のものを排除するということである。余分なものを排除し、ある特定ものに「純粋化」する。そのとき、どうしても、そこには「世界」の「異化」がはじまる。それまでの世界が、いわば小島と、小島の周辺にいる不特定多数の人々(そこには私、つまり、読者も含まれる)に共通する世界であるが、「その」から先は、小島だけが見つめたオリジナルな世界である。もちろん、それは言語化することで他者に対して開かれてはいるが、「その」から先は小島が切り開くことで見えてくる世界である。

その音の中に
金魚を泳がせる

 これは、創造の世界である。実際の金魚はガラスの風鈴に描かれた絵であるから泳ぐことはできない。けれど、想像は、その現実をゆがめて、実際に泳ぐ金魚を思い描くことができ、また、ことばはそのありえないものをことばにすることができる。そしてことばにしてしまうと、そこには、いままでそこには存在しなかった世界が成立してしまう。
 ここから、もう一度小島のことばは方向を変える。

たとえその音の中から

 「たとえ」。これは「たとえ……しても」という文脈を必然的にかかえこむ。
 金魚が泳ぐがすでに想像、空想の世界であるのに、その空想に対して、もう一度「たとえ……しても」と仮定をつけくわえる。想像の世界から、もういちど想像の世界へと進むのである。
 この瞬間に、小島の深呼吸は、激しく、底なしに、世界そのものを吸収する。「空気」のすべてを吸い込んでしまう。もう、ここからは、小島の、さらに先に進んだ小島が見る世界である。。それはことばによってしか成立しない世界である。

たとえその音の中から
金魚がいなくなったとしても
咎めないだろう

 「その音」の中に「金魚」が泳いでいる。そして、その「金魚」が消えてしまういなくなる。「たとえ」そういうことがあった「としても」、「咎めない」。
 だが、咎めないというのは、だれが? 何を?
 これが不思議で、とても「深い」部分だ。

 小島は小島の想像力を咎めない、と私は読む。想像力は小島を裏切る形でおわるかもしれない。けれども、その想像力が(ということは、ことばの運動が、というのに等しいが)、たとえ小島を裏切ったとしても、小島はそれを咎めない。なぜか。想像力の動くままにことばを動かす、そのとき見えてくることばだけが可能な世界に、小島は、瞬間的に触れ、そのすべてと「一体」になるからだ。その深い体験のなかで、小島は、小島しか知らない世界とたしかに出会うからだ。

 ことばをとおして、ことばでしか出会えない世界に出会う。その世界は、たとえ小島を裏切ることになっても、小島はことばを咎めない。詩を咎めない。ことば、あるいは詩は裏切ることで人間を豊かにするのものなのだ。

 「地上」という作品に、とてもおもしろいことばがある。

三月のある朝
家の前の道に出ると
どこからかかすかにペンキの匂いがしてきたので
どこへ塗っているのか
どんな色なのか
想像しなければならなかった

 そんなことを「想像しなければならな」い、ということはまったくない。そんなことを想像しなくても人間は生きていけるし、それこそ誰からも咎められない--と一般的にはいえる。けれど、小島は小島自身に対して、そう言えないのだ。
 ペンキのにおいに肉体が反応する。その瞬間、ことばは動かなければならない。肉体をほうりだしたまま、そこにじっとしているわけにはいかない。想像し、それをことばにしなければ、小島の肉体は小島の肉体ではなくなってしまう。
 たとえ、その想像が小島を裏切ってしまうとしても、小島はそれを咎めない。咎めるかわりに、一瞬の、濃密な詩を生きる。そして、生まれ変わる。
 「地上」のつづき。

首を回して
空に響かせる頸骨の音
空にとって地上は
どうなってもかまわないものではないだろう

躰と心は
残すところなく
行くことを求めて

 「躰と心は/残すところなく/行くことを求めて」。どこへ行く? わからない。だが、それが「生まれ変わる」ことなのだ。ことばを動かし、そのことばを追いかける。現実の世界から、想像へ、さらにその想像の先の世界へ。それは、想像を突き破ってもう一度現実の世界を噴出させるということかもしれない。その世界で、小島は生まれ変わるのだが、そういう「再生」は「行く」という運動だけがたしかなのであって、「目的地」ははっきりしない。
 ただ「行く」ということだけが、小島にとっての「いのち」なのである。



詩集 等身境
小島 数子
思潮社


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする