誰も書かなかった西脇順三郎(149 )
「失われたとき」のつづき。「Ⅲ」のパート。
私は何度も読み返してしまう。そこにある音の不思議さに読み返してしまう。3行目になぜ「くるみ」が出てくるのか。博識の研究者は出典を見つけ出してくるかもしれないが、この音の不思議さは出典では解明できないことだ。
くるみをかむ、ではなく「かめる」。「め」が入ることで「くるみ」と「かめる」の音が3音でそろい、同時にか行、ら行、ま行の音が交錯することになる。そうすると「意味」ではなく、音--いや、発音器官の筋肉、神経が喜ぶのだ。「肉体」のなかで「音楽」がはじまる感じがするのだ。
この音楽は、しかし、3行目で急にはじまるわけではない。1行目から静かにはじまっている。
これは発声練習のようなものだ。「あ」の音が繰り返される。「生命」は「せいめい」とひらがなでは書くが、発音器官は「せーめー(せえめえ)」とゆったり動く。それは「ああ」からはじまる、音の解放と、解放の持続である。声帯をゆっくりひろげて、声をのびやかに出して、「あるうちにまた」と「あ」ではじまり「ま」「た」と「あ・あ」という母音の繰り返しでおわる。
こういう音のつながりは、その行の「意味」が「生命のあるうちに」といういわば深刻(?)なものであることを裏切って、とても美しい。(あ、変な日本語になってしまった。)--言い換えると、「意味」を無視して、音が音として「音楽」をめざして広がっていく。その音の解放感が美しい。
「あ」の美しい響きを通りすぎた発声器官は、どうしたって2行目で「あ」のつづきをほしがるものだ。「歩いてみたい」。ここには「あ」の交錯(「歩」いて、み「た」い)と「い」の交錯(歩「い」て「み」た「い」)がある。「あ」は「ものだ」の「だ」にも含まれていて、それは1行目の「また」の「た」と響きあう。
こういう交錯、呼びかけあいがあって、「くるみをかめる」という音が自然にはじまる。
2行目「ものだ」、3行目「もう来ない」の「も」の繰り返しもおもしろい。
西脇のことばは「意味」ではなく、音の響きあいで動いていく。だから、3行目の「もう」を引き継ぎながら、4行目。
無意味にはじける。解放される。
前の行で「もう」をつかったばかりなのに、次の行でまた「もう」をつかうというのは、「学校教科書」の「作文」では「へたくそ」の部類に分類されるかもしれない。「学校教科書文法」では「意味」が優先されるからである。
「意味」を優先してしまえば、「パー!」は絶対に許されないことばだろう。
「パー!」って、何?
わからない。わからないけれど、ここで「パー!」と唇を破裂させ、のどを開いて音を出すと、気分がいい。人が来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい。
ここにも音そのものの繰り返しが何度もあらわれる。少しだけ取り上げると「去つた」「去つて行く」「去る」がある。「意味」としても繰り返されている。
「すべて」の2行続けての登場という「へたくそ」作文も登場する。
それは、すべて「せりふの音」--「音」そのものなのだ。
「意味」ではなく、「音」がことばを動かしていく。
「そよかぜ」というのは、そよそよと吹く風のことだから、厳密には季節に関係があいかもしれない。けれど、「日本語」の「歴史」(肉体)は、「そよかぜ」を「春」と結びつけている。「意味」的には「春」になってしまう。「いちじく」「栗」は「春」ではなく「秋」だろう。
「意味」を重視してことばを動かせば、海の方へ去るのは「そよかぜ」ではなく、ほかの風になるだろう。
けれど、西脇は「そよかぜ」と書く。
それは、それまで動いてきたことば、その音のなかに「そよかぜ」の「そ」、さ行と呼び掛け合うことばがたくさん出てくるからである。
「失われたとき」のつづき。「Ⅲ」のパート。
ああ生命のあるうちにまた
少し歩いてみたいものだ
くるみをかめる人間はもう来ない
私は何度も読み返してしまう。そこにある音の不思議さに読み返してしまう。3行目になぜ「くるみ」が出てくるのか。博識の研究者は出典を見つけ出してくるかもしれないが、この音の不思議さは出典では解明できないことだ。
くるみをかめる
くるみをかむ、ではなく「かめる」。「め」が入ることで「くるみ」と「かめる」の音が3音でそろい、同時にか行、ら行、ま行の音が交錯することになる。そうすると「意味」ではなく、音--いや、発音器官の筋肉、神経が喜ぶのだ。「肉体」のなかで「音楽」がはじまる感じがするのだ。
この音楽は、しかし、3行目で急にはじまるわけではない。1行目から静かにはじまっている。
ああ生命のあるうちにまた
これは発声練習のようなものだ。「あ」の音が繰り返される。「生命」は「せいめい」とひらがなでは書くが、発音器官は「せーめー(せえめえ)」とゆったり動く。それは「ああ」からはじまる、音の解放と、解放の持続である。声帯をゆっくりひろげて、声をのびやかに出して、「あるうちにまた」と「あ」ではじまり「ま」「た」と「あ・あ」という母音の繰り返しでおわる。
こういう音のつながりは、その行の「意味」が「生命のあるうちに」といういわば深刻(?)なものであることを裏切って、とても美しい。(あ、変な日本語になってしまった。)--言い換えると、「意味」を無視して、音が音として「音楽」をめざして広がっていく。その音の解放感が美しい。
「あ」の美しい響きを通りすぎた発声器官は、どうしたって2行目で「あ」のつづきをほしがるものだ。「歩いてみたい」。ここには「あ」の交錯(「歩」いて、み「た」い)と「い」の交錯(歩「い」て「み」た「い」)がある。「あ」は「ものだ」の「だ」にも含まれていて、それは1行目の「また」の「た」と響きあう。
こういう交錯、呼びかけあいがあって、「くるみをかめる」という音が自然にはじまる。
2行目「ものだ」、3行目「もう来ない」の「も」の繰り返しもおもしろい。
西脇のことばは「意味」ではなく、音の響きあいで動いていく。だから、3行目の「もう」を引き継ぎながら、4行目。
もう無限に来ないパー!
無意味にはじける。解放される。
前の行で「もう」をつかったばかりなのに、次の行でまた「もう」をつかうというのは、「学校教科書」の「作文」では「へたくそ」の部類に分類されるかもしれない。「学校教科書文法」では「意味」が優先されるからである。
「意味」を優先してしまえば、「パー!」は絶対に許されないことばだろう。
「パー!」って、何?
わからない。わからないけれど、ここで「パー!」と唇を破裂させ、のどを開いて音を出すと、気分がいい。人が来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい。
甘味にはちきれるいちじくの実も
黄金の栗も蟻とともに去つた
さいかちの古木の下に碑文を読む
流浪の学者も退職手当もなく去つた
存在するものも存在しないものも
問題でなくなりすべては去つて行く
すべてはせりふの音となつて
海の方へそよかぜのように去るパー!
ここにも音そのものの繰り返しが何度もあらわれる。少しだけ取り上げると「去つた」「去つて行く」「去る」がある。「意味」としても繰り返されている。
「すべて」の2行続けての登場という「へたくそ」作文も登場する。
それは、すべて「せりふの音」--「音」そのものなのだ。
「意味」ではなく、「音」がことばを動かしていく。
「そよかぜ」というのは、そよそよと吹く風のことだから、厳密には季節に関係があいかもしれない。けれど、「日本語」の「歴史」(肉体)は、「そよかぜ」を「春」と結びつけている。「意味」的には「春」になってしまう。「いちじく」「栗」は「春」ではなく「秋」だろう。
「意味」を重視してことばを動かせば、海の方へ去るのは「そよかぜ」ではなく、ほかの風になるだろう。
けれど、西脇は「そよかぜ」と書く。
それは、それまで動いてきたことば、その音のなかに「そよかぜ」の「そ」、さ行と呼び掛け合うことばがたくさん出てくるからである。
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西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫 | |
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