詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

2010-10-28 10:57:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

 「失われたとき」のつづき。「Ⅲ」のパート。

ああ生命のあるうちにまた
少し歩いてみたいものだ
くるみをかめる人間はもう来ない

 私は何度も読み返してしまう。そこにある音の不思議さに読み返してしまう。3行目になぜ「くるみ」が出てくるのか。博識の研究者は出典を見つけ出してくるかもしれないが、この音の不思議さは出典では解明できないことだ。

くるみをかめる

 くるみをかむ、ではなく「かめる」。「め」が入ることで「くるみ」と「かめる」の音が3音でそろい、同時にか行、ら行、ま行の音が交錯することになる。そうすると「意味」ではなく、音--いや、発音器官の筋肉、神経が喜ぶのだ。「肉体」のなかで「音楽」がはじまる感じがするのだ。
 この音楽は、しかし、3行目で急にはじまるわけではない。1行目から静かにはじまっている。

ああ生命のあるうちにまた

 これは発声練習のようなものだ。「あ」の音が繰り返される。「生命」は「せいめい」とひらがなでは書くが、発音器官は「せーめー(せえめえ)」とゆったり動く。それは「ああ」からはじまる、音の解放と、解放の持続である。声帯をゆっくりひろげて、声をのびやかに出して、「あるうちにまた」と「あ」ではじまり「ま」「た」と「あ・あ」という母音の繰り返しでおわる。
 こういう音のつながりは、その行の「意味」が「生命のあるうちに」といういわば深刻(?)なものであることを裏切って、とても美しい。(あ、変な日本語になってしまった。)--言い換えると、「意味」を無視して、音が音として「音楽」をめざして広がっていく。その音の解放感が美しい。
 「あ」の美しい響きを通りすぎた発声器官は、どうしたって2行目で「あ」のつづきをほしがるものだ。「歩いてみたい」。ここには「あ」の交錯(「歩」いて、み「た」い)と「い」の交錯(歩「い」て「み」た「い」)がある。「あ」は「ものだ」の「だ」にも含まれていて、それは1行目の「また」の「た」と響きあう。
 こういう交錯、呼びかけあいがあって、「くるみをかめる」という音が自然にはじまる。
 2行目「ものだ」、3行目「もう来ない」の「も」の繰り返しもおもしろい。

 西脇のことばは「意味」ではなく、音の響きあいで動いていく。だから、3行目の「もう」を引き継ぎながら、4行目。

もう無限に来ないパー!

 無意味にはじける。解放される。
 前の行で「もう」をつかったばかりなのに、次の行でまた「もう」をつかうというのは、「学校教科書」の「作文」では「へたくそ」の部類に分類されるかもしれない。「学校教科書文法」では「意味」が優先されるからである。
 「意味」を優先してしまえば、「パー!」は絶対に許されないことばだろう。
 「パー!」って、何?
 わからない。わからないけれど、ここで「パー!」と唇を破裂させ、のどを開いて音を出すと、気分がいい。人が来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい。

甘味にはちきれるいちじくの実も
黄金の栗も蟻とともに去つた
さいかちの古木の下に碑文を読む
流浪の学者も退職手当もなく去つた
存在するものも存在しないものも
問題でなくなりすべては去つて行く
すべてはせりふの音となつて
海の方へそよかぜのように去るパー!

 ここにも音そのものの繰り返しが何度もあらわれる。少しだけ取り上げると「去つた」「去つて行く」「去る」がある。「意味」としても繰り返されている。
 「すべて」の2行続けての登場という「へたくそ」作文も登場する。
 それは、すべて「せりふの音」--「音」そのものなのだ。
 「意味」ではなく、「音」がことばを動かしていく。

 「そよかぜ」というのは、そよそよと吹く風のことだから、厳密には季節に関係があいかもしれない。けれど、「日本語」の「歴史」(肉体)は、「そよかぜ」を「春」と結びつけている。「意味」的には「春」になってしまう。「いちじく」「栗」は「春」ではなく「秋」だろう。
 「意味」を重視してことばを動かせば、海の方へ去るのは「そよかぜ」ではなく、ほかの風になるだろう。
 けれど、西脇は「そよかぜ」と書く。
 それは、それまで動いてきたことば、その音のなかに「そよかぜ」の「そ」、さ行と呼び掛け合うことばがたくさん出てくるからである。



最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社
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青山かつ子『野菜のめぐる日』

2010-10-28 00:00:00 | 詩集
青山かつ子『野菜のめぐる日』(水仁舎、2010年10月25日発行)

 「比喩」を超えることばがある。「比喩」は、いま、ここにないものを借りて、いま、ここにあるものを特別な存在にかえることばの運動だが、そういうときの「いま」とか「ここ」とか「ある」とか「ない」という意識をたたきこわして、「肉体」をぐいとむきだしにすることばがある。
 青山かつ子『野菜のめぐる日』の「父」。

父の骨をひろう
「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」
自分の骨をつまみながら
父はしきりに感心している
とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに
いっしょにつまんだ骨を骨壺に入れる

 ここに書かれている「父」は「比喩」ではない。つまり、「いま」「ここ」にいないのではなく、まさに「いま」「ここ」にいる。それは骨になって「いま」「ここ」にいるのではなく、青山の「肉体」になって、「いま」「ここ」にいる。青山の「肉体」は青山であって、青山ではない。青山と「父」とが「一体」になって、「いま」「ここ」で父の骨をひろっている。
 この「一体」の状態を、青山は「いっしょに」ということばにしている。
 「いっしょに」ということばが、たぶん、青山の「思想」なのである。

 青山は、昔、父から何度も足の骨を折ったという話を聞かされたのかもしれない。足の骨を何度も折ったけれど、ちゃんと歩いて、働いている。たいした骨ではないかそういう記憶が「肉体」のなかから甦って、父がこの骨を見たら、きっと「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」というに違いない。その「確信」が「いっしょに」ということにつながるのだが、青山の「いっしょに」はそれだけではない。
 きのう読んだ、つる見の「一体」に「なる」の「なる」とは、ずいぶん違っている。

とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに

 「一体」のなかでも青山の、青山自身であることは消えない。「一体」とはいうものの、融合しない。「父」がいて「青山」がいる。ふたりがいる。つまり、「区別」が存在する。
 ひとつの「肉体」なのに。そしてひとつの「こころ」なのに。
 でも、これは、不思議ではなく、当然のことなのかもしれない。和泉式部は、恋を歌って、こころは千々に砕けるけれど、ひとつも失せはしないと嘆いた(苦しみ、同時に喜びを感じた)が、青山の「いっしょに」は、その砕けたこころの数のようなものである。対立(?)したまま、同時に存在することができる。
 それは、少し角度をかえて見つめなおすと、「肉体」は対立するもの(矛盾)を「いっしょに」かかえこむことができる力をもったものであるということにある。
 「対立」を「いっしょに」かかえこんでいるからこそ、2連目がある。

のど仏を入れ終えると
父は熱い骨壺を抱いてはなさない
わたしが持っていくというと
自分の始末は最後まで自分でするといってきかない
頑固さは死んでもなおらない

 「青山」と「父」は「いっしょに」いると必ず「対立」する。そして、その「対立」を青山は、「死んでもなおらない」と思っている。思いつづけていた。だから、父が死んだいまも、青山の「肉体」のなかで、「父」は我を張っている。そして、それに対して「青山」は同じように我を張って、「頑固さは死んでもなおらない」と言い放っている。
 いいなあ、この関係。
 「肉体」は家族が住む一軒の家のように、また複数の人間といっしょに住む「場」なのだ。そして、我というか、こころというか、そういものは「対立」していても、家族が「いっしょに」一軒の家にいるように、他者もまた青山の「肉体」にいっしょにいることができる。
 青山の「肉体」は人間とは(あるいは、そのこころは、というべきなのか)、対立するものであると知っている。対立するものだからこそ、別々の肉体を持って生きている。けれども、その肉体は互いに触れ合い、触れ合うことで他者を自分のうちに招き入れ、「いっしょに」生きるということができる。「肉体」は何でも受け入れることができるのだ。特に、愛していれば。愛、なんて、特別に意識もしないままに。

 この「肉体感覚」はすごいなあ、と思う。この「肉体の思想」はすごいものだと思う。そういうすごい思想を、青山は「とうさんはもう死んでいるのよ/ともいえず」とか「頑固さは死んでもならない」とか、日常のことばそのままで、言語化してしまう。
 こういうことは、流行の(もう、流行もしていないか……)フランス現代思想のややこしいことばよりもはるかに強烈で、すごい。
 青山がこの詩で書いたことばは、100 年たとうが200 年たとうが、父と娘が生きている限り、同じようにして甦る(生きつづける)ことばである。「肉体」として引き継がれていくことばである。

 このあとも、とてもおもしろい。(おもしろい、という表現が的確かどうかわからないけれど……。)

奪い合っているうちに落としてしまった
割れて散らばる骨
頭蓋骨 鎖骨 胸骨 肋骨
なきながら形のない骨をつまむ
大腿骨 座骨 頸骨 手骨…
なみだはまたたくまに
白い骨にしみこんでいく

父はかすかに笑いながら
むこうに消えた

 骨をひろい、骨壺をだれが抱えるか--というところまでは、「父」が「青山」の「肉体」に入ってきていた。ところが、骨壺を落とし、骨をあらたにひろいはじめると、直だが零れ、その涙となって、青山は「父」の「骨(これは、父の残された肉体である)」に「しみこんでいく」。
 青山は父の骨のなかで「いったいに」なる。骨といっしょに生きる。
 「父」が消えたのではなく、ほんとうは「青山」が消えたのだ。このとき青山は「肉体」を失っている。涙になってしまっている。涙だけが存在し、肉体は消えている。
 けれど、それを「父は(略)/むこうへ消えた」と書いてしまう。「父」と「青山」は、いつでも「いっしょに」いるから、それは、どう書いても同じだ。だから、そう書いてしまったのだ。

 父と青山はいつでも「いっしょに」いる。父はむこうへ消えたふりをしながら、いつでも、「ここ」へ帰ってくる。「五月」という作品。

風呂場から鼻歌が聞こえる
いつ戻ったのか
父は籾をつめた麻袋のかたちで
湯船につかっている

あの世にいっても
今頃になるとじっとしていられないのは
いかにも貧乏性の父らしい
肩に湯をかけながら
いちども背中を流したことがなかった と思う

-そろそろだな--
みると籾の先端が割れて
うっすらと父の体が萌えている

ホタルブクロが咲き
かっこうが鳴いている

父のいのちが
いちめんのみどりにそよいでいる

秋になったら
まっさきに「ひとめぼれ」を供え
わたしはつややかに光る
父をたべる

 青山は父といっしょにこめづくりをしたことがある。(手伝ったことがあるのだろう。)五月になれば、父がしていたことが思い出される。肉体のなかに父が甦る。その父は、「父」という作品にでてきた父そのままに、「精神」なんかではなく、やっぱり「肉体」である。その「肉体」は、どこかで、つる見の肉体にもつながった部分をもっていて、父は父であると同時に、種籾であり、そこから育っていく稲であり、米である。父は父がつくっている「米」と「一体」である。(いっしょに、ではない。)
 だから、青山は、秋になって新米がでれば、それを「父」としてたべるのである。そうして、青山の「肉体」にとりこむ。
 そのとき「米」と「肉体」は「一体」になる。けれど、きっと、父は「一体」にはならず、「どうだ、おれのつくった米うまいだろう」と「いっしょに」青山とごはんをたべるんだろうなあ。青山は「何いってんの、わたしが炊いたからおいしいのよ」と口答えするかもしれない。

*

 詩集発行元の水仁舎の住所は
 東村山市久米川町2-36-41



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