詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ローラン・カンテ監督「パリ20区、僕たちのクラス」(★★★★★)

2010-10-08 12:25:53 | 映画
監督 ローラン・カンテ 出演 フランソワ・ベゴドー

 映画なのだが、映画を見ている感じがしない。教室の様子があまりにリアルなので、まるでその教室にいる気持ちになる。
 国語(フランス語)教師と中学生の、互いに相手を信頼しない。
 興味深いのは、フランス語がかわってきているという事実である。なかに接続法をめぐるやりとりが出てくる。日本語には接続法がないが、国語がこの接続法をもっているか、もっていないかというのは思考の基本、哲学にかかわる問題である。その接続法をめぐって、生徒が「そんな気取った言い方をいまはだれもしない」という。これは、正確には「だれもしない」ではなく、そんな言い方はしたくないという主張である。教師の方でも「スノップに聞こえるかもしれない、気取って聞こえるかもしれないが云々」というようなことをいう。
 これは、この映画の、ある意味での「テーマ」だと思った。直感的に、そう感じた。
 接続法にはいろいろな用法があるが、簡単に言えば「事実」ではないものを語るのに接続法がつかわれる。生徒たちは、それを拒絶する。ただ「事実」だけを問題にしている。その「事実」をどんなふうに整理し、論理建て、そこから「世界」をつくりあげるかというようなことは考えない。拒絶する。彼らは、自分たちが差別されている。抑圧されている。大人によって、ある「形式」を強いられている。そして、それは「接続法」のように、具体的にはみえない。ことばのなかの文法のように、みえない力で、抑圧してくる。みえない力なので、生徒たちは、それとどう戦っていいかわからない。わからないから、ただ不満をぶつける。だらしない形で反抗する。「規制」からずるずるはみだすことだけを生きる頼りにしようとしているさえみえる。
 大人は(フランス語教師は)、「世界」は見えるものと見えないものから成り立っている。直説法で表現できる世界は、いわば「見える」世界だが、世界を支配しているのはそういう「見える事実」ではなく、「事実を奥で動かす見えない力」である、と大人は考える。そして、その「見えない力」のいちばん大きなものは、「現実」をある仮定のもとで統一しようとする力--理想(夢想)である。そこに存在しないものを「出現」させるための「方法」である。
 このぶつかり合いは、とてもおもしろい。
 このぶつかり合いは、そして、最初は噛み合わない。けれど、教師がだらしない女子生徒ふたりを「タペス(?)」とかなんとか呼んだ瞬間から、激しく噛み合うというか、衝突する。フランス語はわからないので「タペス」だったかどうかもはっきりしないが、日本語の字幕では「娼婦」「情婦」「売春婦」というような訳がついていた。女子生徒のだらしない態度を、まるで「娼婦・情婦」のようだと教師が口走ってしまう。
 「侮蔑である」と生徒はいっせいに批判する。
 それに対して教師は、それは「比喩」であって、直接女子生徒を「情婦・娼婦・売春婦」と言ったわけではない、という。
 生徒たちが「事実」として問題にしていることを、教師は「事実」ではなく「比喩」(仮定、接続法)の世界であると言うことで、言い逃れようとする。生徒たちは、そのとき、その「言い逃れ」を問題にする。「娼婦」ということばをつかい、生徒を定義づけたというのは「事実」である。「娼婦」ということばをどういう「意味」でつかったか、なぜそのことばをつかったかは問題ではない。「事実」だけが問題なのだ。言ったことをなぜ、「言った」と言わないのか。ごまかすのか。
 大人たちは、簡単に言えば「事実」をごまかすために、ことばをつかう。その最たるものが「接続法」である。中学生たちは、そう考えている。

 この、「ことば」の闘いを、中学生たちは、どうやったら勝ち抜いていけるか。中学生にかぎらず、移民国家であるフランスの、フランスに住む移民はどうやって勝ち抜いていける。自分たちのことばを確立できるか。

 この映画は、結局「接続法」が勝ちを収める形でしめくくられているが、それを肯定しているわけではない。「接続法」が勝ちを収めているが、そんなものを生徒たちは納得していない。そして観客も納得しないことを前提として、終わる。
 つまり、観客にこの問題をどうやって乗り切れるか、乗り越えるつもりかと問いかけて終わる。
 これは、難しい。
 いま大阪地検特捜部の証拠隠滅や小沢議員の資金問題がニュースになっているが、そこでも「事実」とそれを「語ることば」が最終的に問題になる。ことばとは「事実」であると同時に「世界」の「仮説」である。「仮説」をどうやって「事実」にしていくか。そこに「世界」の問題がある。
 一方に「仮説」を「世界」にかえていくときの、独自の「文法」(文体)がある。他方に、「文体」を拒絶して「事実」を積み重ねようとする「未生の文体」がある。
 どちらに与するか。
 --いや、その「未生の文体」のために、ひとりひとりが何をできるか。そういうことを、映画は問いかけているように思える。
 映画の舞台は、パリ20区の、移民が大勢いる中学校だが、それは映画が映画になるための舞台であって、そこで起きていること(起きたこと)は、世界のいたるところで起きているのである。



 抽象的に書きすぎてしまった。
 この映画の魅力は、なによりも中学生である。逸脱する中学生の姿は、最近では日本の映画では「告白」に描かれている。しかし、それはあまりに紋切り型だ。逸脱が演じられているだけだ。しかし、「パリ20区」は違う。まるで脚本が(ストーリーが)ないかのように中学生たちが動く。次に何が起きるかわからない。実際、そこにあるのは「接続法」で制御されたストーリーではなく、伏線もなにもなく、ただ「事実」がある。中学生がいる。彼らは大人を信用していないという「事実」だけがある。大人を信用しないことだけが、彼らの生きる方法であり、思想なのだ。
 この中学生を「移民」と置き換えてみると、いまの世界がリアルになるかもしれない。移民は「国家」という「接続法」で制御で成り立つものを信じない。いま、彼の目の前のだれかが彼に対して何をするか、という「事実」だけと真剣に向き合う。
 「事実」と「事実」の直接的な触れ合いから、そこにまた「事実」をつくっていく--そのことが生きるということなのだ。「移民」という状況を生きるときには。

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フォレスト・ガンダー「アフター・ハギワラ」ほか

2010-10-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
フォレスト・ガンダー「アフター・ハギワラ」ほか(吉田恭子ほか訳)(「現代詩手帖」2010年10月号)

 詩に男女はない。ことばの運動に男女はない。--そう「頭」ではわかっていても、なかなかそのとおりには「肉体」が反応しない。男を感じたり、女を感じたりする。そしてときには、この男、女ぽい(この女、男っぽい)と感じ、それが「嫌い」ではなく「好き」と感じてしまったりするので、ちょっと面倒くさい。面倒くさい、というのは、つまり、自分がわからなくなるということである。あれ、私は男が好きなのかなあ、女が好きなのかなあ、区別がなくごちゃごちゃになったものが好きなのかなあ。そのくせ、その面倒くさいことから出発して、少しずつ私自身のことばを動かしていくとき、その面倒くさいことをするのが--あ、こういう面倒くさいことをするのが、けっこうおもしろいなあ、と思うのである。何がなんだかわからないまま、ともかく書いてみよう。ことばがどこまで動いていくか追いかけてみよう、と思う瞬間--面倒だけれど、好きだなあ。

 ちょっと変なことを書いてしまったが、ブログの読者、blue snow さんからヴォイスラヴ・カラノヴィッチの詩の感想に対するコメントをいただいて、詩人の性とことばについて考えたのである。日本人の場合、たいてい名前から男女の区別がつく。そして、ついつい、この詩は男性が書いた、この詩は女性が書いたと無意識に判断し、その判断の上に立って感想を書いてしまう。私は実際にあったことがある詩人はほとんどいないし、その性別を確認したことがあるかと言われれば、そのうちの誰一人の正確な性別を判断する証拠(?)もないのだけれど、まあ、そうなんだろうと思っている。
 いいかげんだし、偏見のかたりと言われれば、たしかにそうなんだけれど。
 外国人の場合、名前から性別はまったくわからないのだけれど、それでもなぜかこれは男、これは女の詩と思って読むのだが、そういう場合でも、あれ、この男は男? 女っぽくないかなあ。女? それにしては男っぽいなあ、と思ったりする。
 フォレスト・ガンダーは、男だろう。(「フォレスト・ガンプ」という映画があって、この主演はトム・ハンクスという男優であった。アカデミー賞の主演男優賞をとっているから、男だろう。)その男、フォレスト・ガンダーの「アフター・ハギワラ」がおもしろい。

子供が湖から引きずり出された。
同級生らは互いの耳に囁いた。
同級生らは互いの奇妙な貝の形をした耳に
猥らな話を囁いた。
風がおさまる。
ベッドに横たわる女がひとり。
女の顔には、
眼がふたつ。
                         (吉田恭子訳)

 萩原朔太郎を意識したしだろうか。前半の4行に、何がどうしてとは言えないのだけれど、朔太郎の「におい」を感じた。耳、貝、というこだわりに、朔太郎を感じた。
 詩は、溺死した同級生が湖から引き揚げられるのを目撃した子供たちの、子供特有の残酷さを一瞬のうちに切り取った美しさがある。前半に、それを強く感じた。
 この部分は--私にとっては、朔太郎(男)のことばの運動である。
 ところが、後半の4行が微妙である。
 ヤォレスト・ガンダーという署名がなかったら、私は、この詩を男の書いた詩と感じただろうか。女が書いたと感じただろうか。

女の顔には、
眼がふたつ。

 この2行が特にわからない。たぶん、自分の子供が溺死したということを知らされた(遠くでみんなが騒いでいる)女の描写だろう。動かない。動けない。虚空をみつめている。泣きたいけれど、泣けない。もうこころのなかで泣いてしまっているので涙も出ない。その女の顔がくっきりと見える。
 女の耳は描写されていないが、女は子供たちの囁きをしっかり聞いている。それは囁きではなく、大声となって耳の中で響いている。だから、それを遮るように、眼を開いている。虚空を見ることで、聴覚を拒絶しようとしている。虚空を見ることで、現実を見ることを拒絶している。
 そうした状態を

眼がふたつ。

 ただ、それだけで言ってしまう。この強さは、私には女特有のものに見える。前半の「耳」が「話」というものによって、さらにその話が「猥らな」という修飾語をもつことによって具体化されるのは--これは男の文体である。男の文体は、どうしても何かをつけくわえることで成立するのだ。ことばにことばをつけくわえることで動くのだ。女の文体は、むしろ、剥ぎ取る。存在からあらゆることばを剥ぎ取り、存在そのものになる。そして、自分をだしてしまう。さらけ出してしまう。
 そういう剥き出しのものに、私は一瞬たじろぐが、でもスケベだから、それがいい、とも思ってしまう。
 「眼がふたつ。」には、そういう感じがある。
 「耳」の描写もいいけれど、この「眼」の描写はいいなあ。すごいなあ、と思う。この詩人は女かな、と思う。

 一方、「序曲」。

たいてい僕が想うのは君の躰
僕の指を流れ抜けていった
地下で赫(あか)く燃える河のように

地下で赫く燃える河のように
その河には時も言語もなく
その融けた灼熱の赫(かがや)きから逃れるすべも、音楽もまるでなく

その河には時も言語もなく
生成の理論と実践だけが
河口の赫(かがや)きを放出する
                           (梶原照子訳)

 これは男の文体である。「僕」ということばがあるから、そういうのではない。
 前の連の1行を取り込みながら次の連を構成する。こういう詩の文体(形式)に男・女の区別はないはずなのだが、男を感じさせる。あるもの踏み台にしてことばを飛躍させる。前にあるものを利用しながら、それを叩きこわし、その叩きこわしたものがさらに叩きこわされる。そうやって、一種の弁証法を展開する。
 この、暴力は、きわめて男くさい。
 全体の構造だけではなく、1連だけに絞った方が「男」の明確にできるかもしれない。
 「僕が想うのは君の躰」と書いた後、「僕の指を流れ抜けていった」と書く。「僕」は「僕の指」と具体的に言いなおされることで、「君の躰」は「肌」(裸の肉体)から別のことばに書き換えられる。「地下で赫く燃える河のように」。このとき、男はもう「肌(裸)」を見ていない。それを叩きこわして、それ以上のものを見ようとしている。「地下で」ということばが象徴的だが、それは目では見えないものである。目で見えないものを見るために、「もの」(存在、いのち)を叩きこわし、動いていくのである。
 そして生まれるのが2連目。
 「時」「言語」「赫き」「音楽」。おおおい。「指」で触れられないものばかりじゃないか。そんなものは「指を流れ抜けていった」と言えるのか。1連目の「指」はなんのために指なんだ。「君の躰」に触れたのか? ほんとうに触れようとしたのか? そんな意地悪が言いたくなってしまう。
 こんなことばの運動は、どうしたって男のものだねえ。

現代詩手帖 2010年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

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