詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平井弘之『複数の信仰には耐えられない日蓮』

2010-10-12 00:00:00 | 詩集
平井弘之『複数の信仰には耐えられない日蓮』(ミッドナイト・プレス、2010年09月23日発行)

 平井弘之『複数の信仰には耐えられない日蓮』は、最初はどう読んでいいのかわからなかった。わからないまま読み進み「悪いところはどこもない」という詩までたどりついて、ほっとした。やっと「わかる」詩に出会えたからだ。

1968年9月18日
ぼくが生徒会室からガリ版の器械を盗んでいる頃
王はバッキーからデッドボールを食らって倒れていた
その後もふたたびみたびとビーンボールが王を襲い
王はバットを持ってバッキーに反撃した
ぼくが国際反戦デーになりかけた頃
巨人阪神戦は大乱闘騒ぎ
荒川コーチとバッキーが殴り合い退場となる
王は交代した投手ゴンドーからもデッドボール!
おいおいたいがいにしやがれ奥歯がたがたにかたろーか
盟友が担架で病院に運ばれて
4番長嶋が黙っているはずがない
これは喧嘩だ、喧嘩なら負けたことがない
燃えるオトコが燃えまくった
そして振り抜いた打球が外野席へ
35号3点本塁打、3ラン3ラン3ランホームランだっ!
<1968年9月18日長嶋敵討ちの一発>はこうして生まれた

 この詩がおもしろいのは、「ぼく」は「ぼく」でありながら「ぼく」ではなくなっているからだ。
 「ぼく」は「王」ではない。「長嶋」でもない。しかし、「ぼく」は混同している。書いているうちに「ぼく」は「長嶋」になっている。「ぼく」は「長嶋」ではないのは承知しているが、「長嶋」になっている。「これは喧嘩だ、喧嘩なら負けたことがない」は「長嶋」のことか、それとも「ぼく」のことかわからない。喧嘩に負けたことのない「ぼく」が「長嶋」の気分を乗っ取って、ホームランを打ってしまうのだ。
 「ぼく」の行為ではないのに、「ぼく」の行為として快感に酔ってしまう。「35号3点本塁打、3ラン3ラン3ランホームランだっ!」この喜び。
 そのとき、ことばは、どう動いているのか。どう人間に働きかけているのか。よくわからないが、そこではことばがことばではなく、「何か」が動いている。「何か」につきうごかされて、ことばは動き、その動きのなかで「ぼく」は「ぼく」ではなくなる。

 この詩を読んだ後で、私は急に「複数の信仰には耐えられない日蓮」という詩集のタイトルになっている巻頭の作品を読み返したくなった。気になることばがあったなあ、とふと、感じたのだ。

その通りには神社の名が付けられていて
部屋では憐れにもすべてが包装されていた
カバーを着けたまま本棚に並べ
あたしの自己的痛みとか刹那的視たいとか
木馬には伝説の都市の名前が付けられていて
何日もなんにちも遊び続けてしまったので蝋人形になってしまった

 「名前が付けられていて」。1行目と5行目に出てくる。1行目はそんなに気にならなかった。通りに名前がついている--ということは変わったことではないからだ。ところが「木馬には伝説の都市の名前が付けられて」はどうだろうか。ちょっと変である。
 あるものが別の名で呼ばれる--というのは、どういうことなのだろう。
 そう考えたとき、名前とはたとえて言えば「長嶋」なのだ、と気がついたのだ。「名前」をつけるとは、一種の「自己同一」なのだ。何かをそれ自身の名前ではなく、木馬を木馬ではなく、自分が知っている伝説の都市の名前で呼ぶというのは、その木馬を自分へと引き寄せてしまうこと、自己同一なのだ。
 「長嶋」はもとより「長嶋」なのだが、彼を「長嶋」という名前をつけて呼ぶとき、それは「自己」そのものなのである。そしてその「自己」には「喧嘩には負けたことがない」という付加価値(?)がつけられる。その「付加価値」こそ、「自己」であり、「長嶋」を「自己」に吸収してしまう力なのだ。
 ある存在を「長嶋」という名前をつけて呼び、「長嶋」のできること、その可能性のなかへと動いていく。「長嶋」なら、ここで「35号3点本塁打、3ラン3ラン3ランホームランだっ!」というわけである。野球の「事実」の上では、それは長嶋の記録だが、その記録を「35号3点本塁打、3ラン3ラン3ランホームランだっ!」とことばにした瞬間、それは長嶋の記録を超えて、「ぼく」の感情になる。「ぼく」そのものになる。
 あるものに「名前」をつけることで、「ぼく」はその「名前」のもっている可能性そのもののなかへ飛びこんでゆくのだ。
 そのとき、詩が炸裂する。

 別なことを、平井の詩のなかに探せば、まだあるはずなのだが、平井の詩からはなれて、ちょっと書いておきたい。(具体例を探しているあいだに、忘れてしまいそうになるから……。)
 たとえばコップに「バラの花」と名前をつける。そしてコップを描写しはじめる。そのとき、コップをコップと呼んだときとは違う意識が動く。そこに存在しないもの、まだ存在していないものへ向けてことばが動く。それはコップが「バラの花」になろうとする動き--その運動の形に似ている。
 詩は、そういう動きのなかにある。そういう動きのなかで詩は炸裂する。

 だから。

 というのは、ずいぶん乱暴な私の「誤読」なのだが、平井が「日蓮」とか「長嶋」とかの名前を詩のなかに持ち込んでくるとき--それはほんとうの日蓮や長嶋ではなく、別の何かなのだ。別の何かを「日蓮」と呼び、別の何かを「長嶋」と呼ぶ。それがたとえ日蓮を指して「日蓮」と呼び、長嶋を指して「長嶋」と呼ぶときでさえ、そうなのである。
 「これは喧嘩だ、喧嘩なら負けたことがない」とか「おいおいたいがいにしやがれ奥歯がたがたにかたろーか」はほんとうの長嶋のことであるとか、ほんとうの長嶋が思ったことであるとか--そういことではなく、平井が、そう感じたかっただけのものなのである。感じたかったものだけ--というのは、ちょんと語弊のある言い方だが、そういうものを「目の前」に出現させたくて、平井はそういうことばを書く。そのとき、それはほんものの長嶋ではなく、平井の思いが乗り移った、平井の思いが長嶋を乗っ取ってしまった「長嶋」なのだ。そして、その平井に乗っ取って動きはじめた「長嶋」が「35号3点本塁打、3ラン3ラン3ランホームランだっ!」と叫ぶとき、平井と長嶋は「一体」である。
 日蓮についても、平井は、長嶋に対してやったことと同じことばの運動を試みているのだと思う。だが、私は野球以上に日蓮がわからないので、そういうことをやろうとしているのだろうな、としか言えない。

 「悪いところはどこもない」にもどる。その最後の部分。

未だにあの星をうらんでいる
背中に漂う兇悍の火山活動は収まらず
よわい力でなにかが曲がってしまった
ヤキュウの上に星がある
ヤキュウの上に星がある
未だになにかをだきしめている

 この「未だ」と「なにか」。ことばになっていないものがある。それがあるから、平井はことばを動かすのだ。「名前」をつけ、そのなまえと一体になる運動をとおして、「なにか」としか言えないものを彼自身の「肉体」のなかに取り込むのだ。名前へ向かって動くという運動のなかで。
 何かへ向かいながら何かを取り込む。その矛盾した動き--そこでことばが炸裂するのだ。「複数の信仰……」のなかには、その向き合った対立する(?)運動が凝縮されたことばで書かれている。

やってはいけないことがある
日蓮を撮る
こころにさかしまを教えてしまう
日蓮を取る

 「撮る」と「取る」。同じ音のことばのなかで、平井はだれも動いていない動きそのものになろうとしている。




複数の信仰には耐えられない日蓮
平井 弘之
ミッドナイト・プレス

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