詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トム・フォード監督「シングルマン」(★★)

2010-10-21 19:48:43 | 映画

監督 トム・フォード 出演 コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、マシュー・グード、ニコラス・ホルト

 コリン・ファースのかけている眼鏡が非常に気になった。どうみても「ダテ眼鏡」にしか見えない。レンズではなくガラスが入っている。うその眼鏡。目の表情を隠す、というのが一般的な「ダテ眼鏡」の利用方法だと思うが、コリン・ファースの場合、というか、この映画の場合は違うような感じがする。
 隠すという要素もあるけれど、視線を目に集中させるという役割も果たすかもしれない。日本人とは違い西洋人は目の輪郭が淡い。目がどこにあるか分からない。ジュリアン・ムーアがアイシャドーで目のラインを濃く描くシーンが象徴的だ。コリン・ファースはゲイだが、さすがにアイラインを描くことはできない。そのかわりに、黒縁のくっきりした眼鏡で目のありかをはっきりさせる。
 それにあわせるように、映像全体が、ちょうどコリン・ファースの眼鏡枠の目のように、意識的なフレームで切り取られアップになってスクリーンに広がる。スクリーンに映し出される映像は、ほんとうはもっと周囲を抱えている。広いはずである。けれど、それを特別な距離で切り取り、独立させ、目のように、「こころ」が見えるまで覗き込む。
目はこころの窓ということばがあるが、切り取られたアップは存在の「こころ」の窓であり、またあらゆる対象(もの)はほんらい「こころ」を持たない存在だから、切り取られたアップは、それを見つめる人の目を、目をとおして「こころ」を映し出す「鏡」かもしれない。
あらゆるものが「こころ」をのぞかせ、あらゆるものが「こころ」を映し出す――そういう苦しい世界をコリン・ファースは生きている。見つめることで「こころ」を告げ、見つめ返してくるのもに相手の「こころ」を覗き見ると同時に、自分の「こころ」を鏡に映して見るように見つめてしまう。
この映画の映像は異様に美しいが、それはコリン・ファースの「こころ」が美しいというよりは、美しいものしか認めないという偏狭さをあらわしているかもしれない。だから、美しいことは美しいが、誘い込まれるような官能性がない。なまめかしく切り取ろうとしているけれど、何か「肉感」に欠ける。健康さに欠ける。言い換えると、人工的すぎる。その人工的、嘘っぽい、というところが、「ダテ眼鏡」につながる。

最後、若い学生との一夜のシーンだけ、コリン・ファースは「ダテ眼鏡」をかけず、その目を素通しで見せているが、それまで苦しみぬいて、やっと「枠」のなかで自分を見せる、「枠」を通して世界を見つめるということをやめた――ということなのだろう。それは、いわば世界との和解だが、和解の直後、心筋梗塞(?)で死んでしまうというのは、ああ、いったい何だろうなあ。
何か、妙なものを隠しているなあ。ゲイであるとカミングアウトしている。それでもなおかつ、まだ何かを隠す。そういう変な「不全感」が残るなあ。

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工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』

2010-10-21 00:00:00 | 詩集
工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』(編集工房ノア、2010年08月01日発行)

 工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』は、工藤が幼い時期にすごした島の記憶である。記憶であるのだけれど、ひとつの特徴がある。「いま」「ここ」に工藤がいてテニアン島を思い出しているのではない。
 「足裏の記憶」の全行。

裸足で歩くのは
何十年ぶりだろうか
波が足跡を消していく

珊瑚の死骸が波に砕かれ
揉まれ揉まれて打ち寄せる浜
ざらざらした砂粒が
足裏を刺す
甦る記憶

ここは私の島
私の生まれた島
砂浜を駆ける
少女の私が見える

 2連目。「足裏を刺す」が工藤の特徴である。「いま」「ここ」--日本にいてテニアン島を思い出すのではなく、テニアン島へ行って、肉体でその土地に触れ、テニアン島の過去を思い出すのである。
 そこには失われた過去がある。そして、その過去は工藤のものであると同時に、他人の過去を含む。他人と語り合う。
 「目印」。

--この手で確かに埋めたのです
父親を埋めた場所を探して
ジャングルの中を掘り続けている人がいる

--これで四度目です 島へきて土を掘るのは
  どうしても諦めきれなくて
当時十四歳だった彼は
六十年経たいまも父親の遺骨を探し続けている

 多くの人がテニアン島の記憶を持っている。そして、その記憶と肉体でかかわろうとしている。「頭」のなかに置いておくだけではなく、直に、その土地に触れ、土を掘る。
 砂浜を裸足で歩いた工藤には、その他人の語ることば、「彼」のことばが単なる「記憶を語ることば」ではなく、肉体としてわかる。工藤は無意識に「彼」になって、同じようにジャングルの土を掘るのだ。
 そうやって他人と記憶を肉体化する。
 こういうことは単にテニアン島においてだけではない。同じテニアンの記憶をもつ人、テニアンから引き揚げてきたひとの、日本における記憶も工藤は肉体化している。
 引き揚げてきて、神戸にいたという「あなた」を工藤は肉体で追いかけている。

あなたが確かに歩いた
メリケン波止場への坂道を降り
海へ出ました
沖へ沖へと延びる澪に
あなたの記憶を追い続けます

 「あなた」は「あなた」であって「あなた」ではない。工藤にとっては「あなた」は「彼」と同様「私たち」なのだ。
 工藤の詩は「私たち」のことばで書かれているのだ。
 工藤は「私」であるけれど、「私」であることを望んではない。むしろ「私たち」になろうとしている。「私たち」になることでしか取り返せないものがある。そして、「私たち」になるために、ことばを書くとき、肉体を重視しているのだと思う。

 詩をことばの冒険、完全に独立した個人のことばを確立する運動という点から見ていけば、工藤の詩は、まったく逆行している。そのために現代詩ではない、と定義することができる。(批判することができる)。しかし、そういう批判は無意味である。工藤は、そういうことを最初から狙っていない。「私たち」になることでしか伝えられないものがあるのだ。
 それは--声として認めてもらえない「個人」の声である。声にならない声である。だれもが声を出せるわけではない。声を出しているけれど、その声がきちんとした「意味」をもち、他人に働きかけるのに充分な力をもっているとは限らない。声にならない声というのは、そういうものである。それは、いわば、区別のない「声」である。
 けれど、その区別できない声、小さな声もひとつひとつ肉体をもっている。
 声にならない声を無視するひとは、また、そういう肉体としての人間を無視するということでもある。
 工藤は声高には書いていないが、そういうことに対して抗議しているのである。
 「骨」。

太平洋戦争で全滅した
南洋の孤島 テニアン島
六十年を経た

民間人だった父の遺骨は
生き残ることが出来た知人が
敗戦の翌年
この戦場の島から持ち帰ってくれた

母は箱の中を確かめた
骨はぎっしりと詰まっていたと言う
島中に 海に あふれた死から
父の骨を選び取ることが出来たのだろうか

 「個人」が識別されない悲しみ。声にならない声が識別されないのと同様、「個人」になることができない人間もまか識別されない。識別されないということは、しかし、存在しないということではない。識別されなくても、ひとりのがわからいえばいつでも「私」は存在する。その「私」を工藤は、たとえば「裸足」、あるいは「土を掘る手」、港町を歩いた「足」という肉体からていねいに追いかけている。
 肉体というのは不思議なもので、だれも自分の手と他人の手を間違えはしない。ことばなら、たとえば書いたことばなら忘れてしまうことがある。あれ、こんなことを書いたっけ。そして、他人の書いたことばが気に入って繰り返しているうちに、自分が書いたことばと勘違いしてしまうこともある。けれど、肉体はそういうことはない。絶対に間違えない。
 そういうところから工藤はことばを動かしている。それは、個人を無視する暴力に対する抗議でもある。
コメント (1)
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