溝口章『樹木人』(土曜美術出版販売、2010年09月30日発行)
溝口章『樹木人』には、私にとって、読むのがつらい詩と嫌いな詩と好きな詩が混在する。
読むのがつらいのは「樹木人」のような詩。
舶来のガス灯や彫塑の裸婦・モダン アートの鉄のオブジェと
さながらに相対して 名も知れぬ
苔むす祠と慰霊塔 俳聖の句碑なども混在する
一群の木立の辺りが約束の場と 私は
石の台に腰かけて 待っていた
文字が読めない。なぜ読めないかというと、そこに書かれている音が、私のつかっている音とあまりにも違いすぎるからだ。ひとつひとつの単語の意味はわかるが、それは音として肉体のなかを通ってくれない。
私は昨年目の手術をした。それ以来、文字を読むのは苦手である。音が聞こえてこないと、目がちかちかする。私は音読はしない。黙読しかしないのだが、黙読のときでも肉体は声を出していて、それが肉体のなかでひとつづきにならないと、我慢できなくなる。目がまだ大丈夫だったときはそんなに感じなかったが、いまは音が響かないと目の負担が大きすぎて、ことばについていけない。
読むのがつらいとは、そういう意味である。
嫌いな詩は「噴水の樹」。
冬空に黒々と立つ裸木を背に
一時に数万年分もの葉をふるい落とすことに専念する
噴水の樹を
私は いつ だれと 眺めたのか
投げあげ投げあげ 喜びのように 遂には
すべてが無限へと落下する
壮大な空しさを
私は いつ どこでだれと味わったのか
溝口は「壮大な空しさ」を一斉に葉を振るい落とす木(噴水の樹)を描くことで書こうとしている。その何を書くかということと、書く意思は、わかる。わかるけれども、それは「納得」ではない。つまり、共感ではない。
「壮大な空しさ」って、何? 辞書に載っている「壮大」「空しさ」と溝口が書こうとしている「壮大」「空しさ」はどこが違うのだろう。その違いを感じる前に、「壮大な空しさ」ということばを読んでしまう。
「専念」や「無限」も同じである。
ことばは辞書のことばから、そのひと自身のことばにならないと、詩にはならない。詩は、辞書のことばを逸脱していくときにしか存在しない。辞書のことばに頼ってことばを書いている限り詩は存在しない。
こういう作品は、私は嫌いである。
好きなのは「土鳩が鳴く」である。
幟がパタパタと音立てている
南無大師遍照金剛の太文字がたわみ歪んで
風に吹かれている
弘法大師ゆかりの瑞祥の寺
ここはかつて海原で それが突如陸地に変じたという
そんなはるかな時の記憶が
パタパタパタパタと
ことばにもならぬ音を奏でている
世界には「ことば」にならないことがある。溝口は、ここでははっきりそう書いている。そしてそのことばにならないものを「パタパタパタパタ」と音としてのみ書いている。「壮大」とか「永遠」とか「充実」とか……もしかすると何かそういう辞書のことばがあるのかもしれないけれど、それをみつけられずに「パタパタパタパタ」と書き、「ことばにもならぬ」と書いている。
そこに、詩がある。
ことばにならないものがあって、それをことばにしようとするときの苦悩。なんとか書き表わしたいという欲望。それは、ほかのことばで言い表わすとどうなるのだろう。何か、かわりに言ってくれるもの(存在)はないのか--それを探して、溝口のことばは動き回る。
葉群を飾って聳え立つ常緑の大樹
その指さす冬空が 背の山並を白く濃く染め上げている辺り
重くひろがる巨大雲が 日を被いながらゆっくりと渡っていく
暗く湿ったその下腹を数羽の鳥がかすめとぶ
それが慌しく姿を消すと
ふいに陽がまぶしく射し出でて 亦すぐに閉ざされる
束の間の青びかり
私は--
パタパタパタパタと
相も変わらず 幟の
かぜを呼び 時にはちぎれるほどに高鳴っているしつこさに
耳を奪われ
この世界が語りかけようとする言葉の総てが
それによりかき消されてしまうのかとさえ思っている
「世界が語りかけようととする言葉」とは、たとえば、「壮大な空しさ」のようなものだが、そういう「概念」のことばは聞こえない。「パタパタパタパタ」にかき消される。ようするに、何も「立派なことば」が聞こえない。そのことを溝口はきちんと書いている。
そして、「立派なことば」(たぶん、学校教科書では「思想のことば」と呼ぶようなもの、概念を抽象したようなことば)が聞こえないので、溝口はひたすら、いま、そこにある「もの」を頼りに、自分のことばがどう動くか、どんな「もの」とならきちんと関係を結べるか探しながら、大きな木や、遠い山並(山脈?)、雪、雲、鳥、そして日射しの変化を追っていく。
そのときの、何を、どう追って、どう書くか--そのことばの運動こそ(その文体こそ)が私には「思想」に感じられる。「ふいに陽がまぶしく射し出でて 亦すぐに閉ざされる/束の間の青びかり」というのは、とてもスピードがあって、その瞬間にしか存在しなかった「世界」そのもの、いま、溝口だけが書くことのできる「事実」に思える。とても美しい。
そして、そういうものを追いかけて、「思想」そのものになろうとして、実際、ほんの「束の間」何かをつかんだような気持ちになるのだが、それをことばにしてつづけようとすると、ことばは「私は--」の「--」としてしか書き表わすことができず、
パタパタパタパタ
という音に「耳を奪われ」、ことばを奪われ、ことばをもたない「肉体」が世界にほうりだされる。無力な「肉体」が世界と向き合うしかない。その「無力」こそが思想である、と私は思う。
無力な「肉体」は「パタパタパタパタ」と向き合い、「パタパタパタパタ」という「思想」を具体化している。生きている。
ね、この詩を読むと、その幟の「パタパタパタパタ」が聞こえるでしょ? ほかのことばは忘れてしまっても、「パタパタパタパタ」は聞こえる。
あらゆることばを押しのけて、ある瞬間に、そこに出現してくる肉体と結びついたことば--それが思想とういものであり、それが詩だ。
こういうことばをきちんと書くことができるのだから、こういうことばで構成した詩集にすればいいのに、と思う。