詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(16)

2010-10-22 23:56:03 | 志賀直哉
「山鳩」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「山鳩」の最後に、「末つ児」の最後にでてきた「相にく」と通い合うことばがある。「意味」ではなく、そのことばのかかえこむ領域が似ている。
 目になじんだ山鳩の夫婦。その一羽が友人によって撃たれ、どうもそれを志賀直哉は食べてしまったらしい。いつも二羽で飛んでいた山鳩が一羽で飛んでいるのを見て、気が咎めた。
 そんなことを話したのかもしれない。次の猟期がきたとき、当の友人にちょっと語りかける。

 「今年は此辺はやめて貰はうかな」といふと、
 「そんなに気になるなら、残つた方も片づけて上げませうか?」
と笑ひながら云ふ。彼は鳥にとつては、さういふ恐しい男である。

 山鳩にとって必ず命を奪われる「恐しい」相手。文章に書かれているのは一義的な意味は、そうなる。しかし、そこには別のにおいがある。山鳩が恐ろしがるというよりも、そこには志賀直哉が感じている恐ろしさが含まれている。
 山鳩を平気で殺すことよりも、志賀直哉が「気になるなら」、その気になるものを片づけてしまえば、気になることそのものがなくなるから大丈夫じゃないか。そう考えるときの、思考の論理が怖い。この論理は、山鳩には関係がない。関係してくるのは、志賀直哉である。
 けれども、それをくだくだと書いてしまうと、友人の姿がぼけてしまう。書きこみすぎて、友人の輪郭がことばに飲み込まれてしまう。だから、そういうことは書かない。書かなくてもわかることは書かずに、読者に想像させてしまう。
 そうすると不思議なことが起きる。
 読んだ文章は非常に短いのに、読むことで動いたこころ(想像)は、はるかに長い。志賀直哉は「恐しい」とだけ書いてあるのだが、私はそのことをめぐって、ここに書いたようなことを感じ、それをことばにする。志賀直哉の書いたこと以上のことばが私のなかで動く。
 そのとき短編が長編にかわる。
 志賀直哉の小説はたいがいが非常に短い。しかし、読み終わると実際の長さの何倍にも感じる。それは志賀直哉の書かなかったことばを、読者がかってに考え、補うからである。充実したことばとは、そういうものだ。
 だから、読みはじめると、何度でも同じところを読み返してしまう。

和解 (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社


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小林稔「髀肉之嘆(三)」

2010-10-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「髀肉之嘆(三)」(「ヒーメロス」15、2010年09月10日発行)

 小林稔「髀肉之嘆(三)」はよくわからない。難解である。そして、そこがおもしろい。

闇を攪拌(かくはん)する肉の鋏は、たとえば巨大な蟹のそれに似て夜の眠りをむさぼるように棲息しつづけ、夜具に被われた幼年の肢体を捕らえる。海のふところに頚(くび)を抱かれ、頭髪を藻のように静かな流れに遊ばせ、私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。

 「肉の鋏」とはなんだろう。わからない。そして、そのわからないものが、すぐにわかりきったものとして登場する。「巨大な蟹のそれに似て」の「それ」は「肉の鋏」であろう。この瞬間、わかるとわからないが逆転する。「肉の鋏」そのものがわからないのに、「巨大な蟹の鋏」がわかるために、「肉の鋏」は「巨大な蟹の鋏」が「肉」になったものとして見えてくる。
 これで、いいのかな? 何か、だまされていない?
 「巨大な蟹のそれに似て夜の眠りをむさぼるように棲息しつづけ」のなかには、「似て」と「ように」と類似のことばがでてくる。「似て」は「ように」と書き換えられるはずである。ここでは比喩が二重に動くことで、そこに書かれているものが「もの」ではなく、「比喩」する認識だということがわかる。
 「比喩」とは一般的に何かの「もの」をわかりやすくするために用いられるが、小林は逆に使うのである。「比喩」を増殖させ「もの」をわからなくする。「肉の鋏」は「比喩」が増えるたびに、それが何であるかわからなくなる。
 そして、わからないということが、何かをわかりたいという欲望のように感じられる。「比喩」を重ねるたび、何かから遠ざかり、遠ざかることが、そのもの「認識」するという運動そのものに重なるのである。

 私は、たぶん、とても変なことを書いている。奇妙なことを書いている。

 「闇」と「眠り」と「夜具」が通い合い、「攪拌する」「むさぼる」「棲息する」「捕らえる」が呼びあう。小林のことばは、ことばがことばのきちんとした積み重ねの論理を破って動く。ことばの運動がことばによって破られる。しかも呼びあいながら、互いを破るのだ。
 ことばが、ことばそのものとしてうまくつながらない。衝突する。互いを破壊する。その瞬間に、ことばにはならない何かが一瞬見える--見えたと錯覚してしまう。
 その見えたと思う瞬間、実際には見えない何か。そこに、詩が動いている。「もの」としてではなく、動きそのものとして動いている。つまり、そこにはエネルギーだけがあって、「もの」は明確な形のまま崩壊するのだ。

 「もの」は明確な形のまま崩壊する--ああ、変だねえ。矛盾しているねえ。でたらめを書いているねえ、私は。しかし、これか私の実感である。

 海のふところに頚を抱かれ(受け身)、頭髪を藻のように静かな流れに遊ばせ(能動)、私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。(能動)

 この文章には、「受け身」と「能動」が混在しているが、「主語」は「私は」である。この「受け身」と「能動」の「混在」にまぎれて、ことばがぎくしゃくするのだが、そのぎくしゃくにまぎれて、ことばは強引に進む。動いていく。
 「陽光の名残りをその肌に感じ入る」の「その肌」の「その」は何? 小林はもちろん明確に認識しているのだろうけれど、私にはよくわからない。特定できない。「海の肌」(海のふところの肌)なのか。つまり、私を抱くものがもっている「陽光の名残り」を、抱かれることによって、肌と肌をあわせること、密着すること、区別のない「場」で感じるのか。感じ「入る」と小林は、そこにもうひとつ動詞をくわえて、運動をさらに運動へとけしかけているのだが……。
 そのけしかけられた運動、運動の強調のなかで「その」は、ことばをもっともっと遡って「肉の鋏」の「肉」そのもののようにも思えるのだ。
 ことばが進めば進むほど、認識は逆流し、源から再出発する。ことばの運動は常にことばとぶつかり、分岐しながら、その分岐の瞬間にはね返されるものが(水の流れが巨大な石にぶつかってふたまたに分かれる瞬間、その水の一部は逆流するが……)、源流を強く引き寄せるような感じなのだ。ふくらんで、岩の上を乗り越える水の頂が、遠い源流を呼び寄せるための背伸びのように感じられるのだ。

繰り返す偶然の航跡が必然の糸をたぐりよせてひとつの命をつくり船出させたのであったが、命はそこがふたび還る場処であるかのように記憶しては忘却していく。

 ここでも「そこ」があいまいなまま、まるで既成の事実であるかのように書かれているが、そんなことはいちいち言うまい。おもしろいのは「記憶しては忘却していく」である。「記憶」と「忘却」は逆のことである。矛盾である。矛盾がからみあったまま、矛盾をエネルギーにして進むことばの運動が小林の運動である。
 矛盾することを積極的に選び、そこから、いま、ここにはないものをつかみ取ろうとするのだ。それは弁証法の「止揚」とは逆の動きに、私には感じられる。
 発展していくのではなく、発展を拒絶し、根源へかえるための運動のように思える。

自己を知るには他者という鏡が必要であった。 

 この「哲学」は、「肉の鋏」という出発点ではなく、もっと違った「源流」から始めれば、わかりやすくなるかもしれない。「比喩」に「比喩」を重ねて、矛盾したことばをむりやり互いに解体させるよりも、もっとわかりやすい形で書けるはずである。
 はずなのだけれど。
 そうしない。そんなことをすれば、ことばが動きたがっているそのエネルギーそのものを制御してしまうからだ。制御された「哲学」、完成された「哲学」ではなく、制御されない運動そのものへと小林はことばを帰してしまいたいのだ。

 小林の書いていることは、難しくて私にはなんのことかさっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、そこに激しいエネルギーがあることだけは感じることができる。それは、きっと、わかってしまえば消えるものかもしれない。「完成」してしまえば、きっと瞬間的に手垢にまみれる「現代用語」になってしまう。「現代用語」になって「辞典」に乗る前の、絶叫のような声の高みが、小林のことばにある。あ、すごい声、と私は感じるのである。私はその声に追いつけない、同じ高さの声を出せない--そういうことだけを知らされる。自覚させられる。
 この敗北感はうれしい。私の知らないところで、ことばはまだまだ生きていると実感できるから。




砂の襞
小林 稔
思潮社

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