詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「午前四時」

2010-11-01 18:07:05 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「午前四時」(朝日新聞、2010年11月01日夕刊)

 谷川俊太郎はときどき非常に不気味である。「午前四時」。

枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない

無言は恐ろしい
私の心はフリーズする

 ここに書かれていることに、何の疑問も感じない。あ、こういうことはあるな、と思う。ところが・・・。
 これは谷川の体験なのだろうか。そう思うと不気味なのである。
 これらのことばの「発話者」、この詩の「主人公」は誰なのだろう。谷川かもしれないし、そうではないかもしれない。私は読みながら若い女性を想像した。恋人とけんかした若い女性。昔は無言でもこころが通ったけれど、いまはことばがうまく伝わらない。そのくせ、いまは逆に「無言」が別のこころを伝えてしまう。通い合えないこころの存在を伝えてしまう。――それは、谷川というよりも、もっと若い人間を「発話者」を浮かび上がらせる。

 詩は「私小説」ではない。体験したことを書かなくてはいけない、というものでもない。――そうなのだけれど、どうしてこんなことを書こうと思いついたのか、最初のことばがどこから生まれてきたのか、それがわからない。
 書かれていることは全部わかる(わかったつもり、そうだよなあ、と感じてしまう)。それなのに、なぜ、谷川がこのことばを書いたか、書こうとしたか、それが分からない。
 そのわからなさを一気に飛び越えて、次の連で、谷川が突然姿をあらわす。

言葉までの道のりの途中で
迷子になったふたつの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 「無言」がひきだす「ふたつ」のこころ。「ふたつ」を冷静にみつめる客観的な視線。若い女性なら、「恐ろしい」のは「無言」の相手のこころ。電話機の向こうのこころだろう。けれど谷川は、その向こうのこころに限定しない。「ふたつ」、私と相手、そのふたつと、あっという間に言ってしまう。
 「ふたつ」の存在は、そこに「間」を作り出す。
 その「間」が一気に「宇宙」になる。
 谷川は昔から、宇宙と孤独を書いていたが――あ、その孤独は、もしかしたら宇宙に私がひとりいるという孤独なのではなく、私以外に誰かいて、その誰かとこころが通わない、ということだったのだろうか。広大なひろがりではなく、谷川は、私と誰かの間の「限定された間」というものも見ていたのだろうか。
 それとも、昔は「単独の孤独」だったが、いまは「他者」を前提とした「孤独」にむきあっているのだろうか。もしそうだとしたら、「いつ」その転機(?)があったのだろうか。

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 この突然の最終行も、次々とことばを誘う。あれこれと思ってしまう。「迷子になったふたつの心を/宇宙へと散乱する無音の電波が/かろうじてむすんでいる」。この「結んでいる」は希望ではなく、「闇」なのか。そうではなく、「かろうじてむすんでいる」の「かろうじて」しか希望がないほど暗い気持ちということか。
 たぶん、断定できない。ひとことで言えない。

 どんなことでもひとことでは言えない。ひとことでは言えないが、何か言わずにはいられない。――と書いて、それは、私の谷川の詩に対する感想なのか、それとも谷川の詩に登場する誰かの思いなのか、ふと、わからなくなる。



二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社

谷川俊太郎質問箱
谷川 俊太郎
東京糸井重里事務所
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誰も書かなかった西脇順三郎(150 )

2010-11-01 12:12:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 私はふいに立ち止まる。

乞食のカメラはすべて四つに見える
恋人の眼は八つになるへそが四つに

 この四は何だろう。なぜ二つや三つではなく、四つなのか。すべてが四倍に見えるとき、二つある眼が八つになるのは簡単な数学なのだが、なぜか、この部分で私は止まってしまうのだ。私が「四つ」という単位になれていないせいかもしれない。私のリズムは二つ、三つだが、西脇のリズムは三つ、四つ、いや四つ、三つかもしれない。
 こういうことはあまりに感覚的過ぎて説明がつかないのだが(どう語っていいかわからないのだが)、私のリズムと西脇のリズムは合わない。そして、合わないことがとても刺激的なのだ。私がもっていないリズムが西脇にはあって、それが西脇のことばを動かしている。私は西脇のことばを「乱調」と感じる。乱調の美がある感じる。けれど、もしかすると、西脇にはそれは乱調ではないのかもしれない。

「あなたはキケロの全集をおもちでしようか
ラテン語をわたしはこのごろあまりやつており
ませんが 少し勉強したと思いますの--
キケロの演説や手紙などを読みたいと
思つておりますの--お貸し下さるかそれとも
どこでどうしてかりられますか教えて下さつた
ら大変うれしいのですが--」

 この行のわたりは、とても変だが、その変なところが私には不思議に快感である。行のわたりのたびに、からだが軽くなる。私のことばのリズムがかちかちなのを、西脇のリズムが突き破っていく。その、突き破られる瞬間が快感である。そして、それは大きなものを小さなもので割るのではなく、小さなものを大きなものが内側から破壊していく感じがある。
 私のリズムが2、3拍なのに対し、西脇はおそらく4拍のリズムでことばが動くのだ。音楽の場合、ひとつの長さを分割してリズムがある。けれど、言語の場合、ことばを分割してではなく、ことばを積み重ねてリズムをつくる。2、3拍より4拍の方が大きい。だから、2、3拍のなかに4拍を入れると、どうしても内部から破裂するしかないのである。この瞬間が、なんともいえず楽しい。あ、そんなふうに世界が見えるのか、と驚くのである。
 ただ、というべきかどうなのか、適当なことばがみつからないが、大きなリズムは小さなリズムでは測れない。私の2拍をふたつ重ねたら4拍になるかといえば、そうはならない。リズムが届かない(?)のだ。
 たとえば、

この女の手紙をもらつたホッグは
太陽に感謝して蝋燭を吹き消した
淋しい弓づくりはリッチモンドの小山に
林檎酒の祭をかいたカルヴァトは
どこかに住んでいたが
ゴボーの花と葉をかいたクロームは
黄色い世界が好きだった
野原と路と雲を指してみせる
旅人と犬のわきに日まわりの花が
永遠に見えるくらやみの心のはてだ

 何かが過剰に存在する。西脇のことばは追いかけても追いかけても、その先へ進んでしまっている。行のわたりのことばのように、あ、いま、西脇のことばが私のことばの枠を突き破った。そのために私のことばが「乱調」に墜落していく、あるいは「乱調」へ飛び散っていく--というのではなく、ここでは私のことばは連続したまま、内部から何かがぎゅうっと伸びてくるもののために引き伸ばされる。引き伸ばされるのだが、それは実際に私のことばが拡張するというのではなく、伸ばされても伸ばされても、実は西脇には届かないという感じがする。

 あ、こんなことを書くよりも、「四つ」については、別に書きたいことがあったのだ。それは、次の部分。

レンズみがきの永遠のカメラに
四重の四重のその四重の一つしか
みえないまたその一つもゼロに
なつて四重のゼロは単にゼロではない
ゼロがゼロに見えるときは
存在のゼロのゼロの夕暮れの日の
女のなげすてた野原にふく風に
また夕暮れのゼロの夕暮れが来た

 「四」と「一」と「ゼロ」。この数の「基数」のあり方--これが、私の場合とはまったく違う。「一」と「ゼロ」。私のリズムはそれがたぶん基本である。「一」と「ゼロ」とで「二」。「ゼロ」「一」「二」で合計「三」。私のリズムはそういう感じだ。でも、西脇の場合「三」がなくて、突然「四」。
 これは、どういうことかなあ。
 私はたぶん足し算なのだ。0+1=1、そこに数字がふたつあり、「2」が誕生する。それを合わせて0+1+2=3。ところが西脇は足し算ではなく掛け算なのだ。0と1、ふたつの数字。二つのものがもう一つ追加されると2×2=4。「四」はここから出てくる。(--私の書いている「算数」はちょっと奇妙だけれど、私は、そんなふうに感じている。)
 2+2というのは私の4の出し方だが、西脇は2×2=4の世界。そういえばいいだろうか。2+2=4も2×2=4も4であること、そしてその内容が同じなのだが、それは見かけのことであって、算数の「式」が違う。つまり、考え方の基本が違う。
 そういうことが、ある瞬間、ふっと感じられるのである。
 「四重」ということばが出てくるが、その「重」。それは足し算ではなく、掛け算なのだ。西脇は掛け算。そのスピードが、私のことばを破っていく。




西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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北川透「O字脚的体験」ほか

2010-11-01 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「O字脚的体験」ほか(「耳空」4、2010年10月25日発行)

 私はカタカナ難読症である。カタカナが読めない--ことはないけれど、必ず読み間違いをする。正確には読めない。しかし、その読めないカタカナだらけの、北川透「O字脚的体験」のうちの「オノマトペア(母隠語)的体験」という詩がとても気に入った。

イウオイイウウエエウアイウアンアイ! オオ! オオ! オオ!
アウエオオアンアイ! ウオアアアンアイ! エアオオアンアイ!
イエイイウオウインアンアイ! アイアウオアエウオウアンアイ!
イイイアアエエ! ウエアエエ! アアエオイエ! アアアイエ!
イイアアアエアイオウオイオ! イイウイアアエアアアイイイオ!

 何が書いてあるか、わかりません。
 けれど、そのわからないことが気に入ったのです。
 詩は「意味」ではない、と私は思う。詩にかぎらず文学(芸術)は「意味」ではないと思う。「意味」というのは、たぶん、それを書いたひとが抱え込んでいるものだが、そういうもので詩や文学(芸術)を読んだら、つまらないものが何一つなくなってしまう。だれだって真剣に生きているのだから、そのひとが感じている「意味」を理解した上で、それがつまらないというようなことはありえない。
 これは逆に説明すると、簡単な論理に言い換えることができる。あるひとの作品をけなしたとき(?)、たいてい「私はそういう意味のことを書いたのではありません」という反論(?)が返ってくる。「私はこれこれの問題について真剣に書いているのです。意味を誤解して批評されては困ります」。ああ、そうですねえ。しかし、「意味」を筆者の書いている(意識している)とおりに受け止めるというのは「共感」そのものだから、「共感」して、それでも「つまらない」と言えるようなことは何もないなあ。
 私は本を読むとき、筆者が何を考えているか、感じているかなど考えたことがない。「意味」を考えたことがない。「意味」に対して「共感」したことがない。私は私の問題で手一杯で、筆者の問題に真剣につきあうような余裕はないからだ。
 私はただ「誤読」したいから読む。「誤読」したことだけを書きたい。別なことばで言えば、ある作品に触れて、そこから始まる私自身の考えをことばにしたいだけである。だれかのことばに触れると、私の知らないことが書いてある。そして、その知らないことのなかには、何か知っていることも含まれている。逆に、知っていることが書いてあって、その知っていることのなかに知らないことが含まれる、というのもある。そうすると、その知っていること、知らないことの間を、私の「肉体」が行き来する。そのとき、ことばが新しく動きはじめる。「誤読」が始まる。そのとき、私自身が、うきうきするのだ。だから、書くのだ。

 あ、ずいぶん脱線してしまった。

 北川の今回の作品。カタカナ難読症の私には、もちろん正確に読むことはできない。正確に引用しているかどうかもあやしい。( 5回、点検し直したが、まあ、私の引用はあてにせず、「耳空」で直接読んでください。)それでも、変な言い方だが、私は自身を持って、この作品の「音」が聞こえると言ってしまう。
 読めない。けれど、音が聞こえる。いや、音が聞こえるから読む必要はないと思う。子音がない(ないわけではない、「ん」があるから)ので、口をただ開いて、声帯を震わせる。ほとんどでたらめに。アイウエオの音が入り乱れて響く。でも、それは、どこをとっても「アイウエオ」である。それ以外がない。いやあ、聖徳太子になったような気分。一瞬にして、全部の音を聞き取ってしまった「天才」の喜び(?)。
 いいなあ。この喜び。一度でいいから、こんなふうにして、あらゆることばを一瞬のうちに理解するという「ハイ」な感じを体験したかった! それが、いま、できたんだ。

 あ、私の「読み方」間違っています? そうでしょうねえ。知っていますとも。それくらい。だから最初に「誤読」と書いているのです。

 私は、それが何であれ、「音」の聞こえることばが好きなのだ。
 書きことばのなかには、私の「肉体」にはまったく聞こえない音がある。「肉体」をとおってくれない「音」がある。音読すれば、ことばから「音」そのものは出てくるのだけれど、そのとき、発声器官(のどや舌、口蓋など)と耳がいっしょに動いているという感じがしない「音」がある。「肉体」のなかで、音が肉体と肉体を結びつけないのである。そういうことばは、私には苦手なのである。
 北川の今回の作品は、それとはまったく違う。私は北川の書いたことばを、音として正確には再現できない。再現できないけれど、似た感じで、音そのものを発声器官と耳とで協力してつくっていくときの快感そのものに酔うことができる。
 こどものとき、これに似た遊びをしたことがあるなあ。「アアアアア」。母音のイントネーションとリズムだけで何かのことばを再現する遊び。伝えあう遊び。そういう遊びが成り立つのは、その友人と同じイントネーション、同じリズムでことばを発音し、耳で聞き取るという「肉体」の体験があるからだね。「肉体」のあらゆる部分が動き回って、発音されなかった「子音」を聞き取ってしまう。「音」にならなかった「音」を聞き取ってしまう。
 あ、そうか。「隠語」とは、「音」(あるいは「意味」?)にならなかったことばを聞き取って、その「音」を「共有」することなのか。
 
 この、あらわされなかったもの、ことばにならなかったものを、ことばとは別のルートで「共有」する--そのことは、詩を体験することにつながらないだろうか。
 詩が書かれている。ことばが書かれている。けれど、そのことばのなかには、ことばにできずに書かれないまま隠れていることばがある。あるいは、筆者にとってあまりにも当然過ぎるので書き忘れたことば、書く必要性を意識しないことばがある。そうしたことばを、目ではなく、耳ではなく、喉や口蓋でもなく、肉体のもっと奥深くにある「肉体」(肉・肉体--と言えばいいのかなあ)で感じ取り「共有」する。
 この「共有」の感じは、「誤読」そのもの、「誤解」そのものかもしれないけれど、その「誤る」という能動性のなかに、私は詩があると感じている。



 渡辺玄英「星と花火と(光のゆーれい」には、私の「肉体」では聞き取れない音がある。

誰もいないところで
さよならと言ってみる
(だれもいないからセカイはしずか

 書き出しの3行だが、3行目の「セカイ」が私にはまったく聞こえない。私にとって、それは存在しない音だ。ノイズというのではなく、つかみどこながない。私はカタカナが読めないので、それはひらがなで書けば「せかい」という音になるのかどうかも、よくわからないが、もしそれが「せかい」であっても「世界」であっても、私に聞き取れるかどうかわからない。
 この3行目の「セカイ」の「音」を聞き取れるひとには渡辺の詩はおもしろいかもしれない。



 樋口伸子「ポチ公見聞記(一)」は、まあ、どうでもいいことを書いている。どうでもいいことなので、どこを引用していいかわからないくらいなのだが、このどうでもいいことを書くときの「文体」がなかなかいいのだ。どれくらいいいかというと、ついつい、1行1行に「つっこみ」を入れたくなるくらい「肉体」に直接飛びこんでくる。「まんこみ」というのは「頭」でやるもんじゃない。「肉体」そのもので、「どつく」のが先で、あとで「どついた」ことを隠すために「ことば」で偽装する。「私は暴力は振るっていません。ちゃんとことばで表現しています。言論の自由です」というようなものだ。
 で、どこに「つっこみ」を入れたいかというと……。

 (犬に--筆者である「ポチ公」に)ロシア語が解るのかって?当たり前だよ、これ位のこと。おいらはロシア語習ってんだよ。ロシア語を習って何にするのかって?いやだねぇ、すぐそうくるから。あんただって英語習っただろ、数学だとか倫理学だとかネ。そしてそれらを何かにしてるのかい?物理や化学習ってヒューズ替えることもできないだろう。好きで古文読んで、それを手紙にでも書いているのかい?

 いやあ、外国語って、役に立ちますよ。私は大好きですねえ。犬はスペイン語で「ペロ」というのだけれど、しかしも「ペロ」で、それは、ほらおいしいものを食べたとき「ペロ」っするのにつながる--というようなことは、わかんないかもしれないけれど、わが家の愛犬(ペロ)「わん太」は、「ごはん」を食べたあとフランス人みたいにデザートを要求するのだけれど、「食べた?」と聞くと間食したときは「ペロ」と鼻先をなめる。でも(ペロ)、少ししか食べなかったときは「ペロ」ができない。嘘がつけない。--で、何がいいたいかというと、ことばというのは「肉体」を潜り抜けることで、「肉体」に作用する。ことばにならないことが、いろいろなことばを体験することでどんどん「肉体」のなかにたまってきて、それが不思議な形で呼応し合って、どこかで通じ合うことばを生み出してしまう。そういうことにつながる。
 数学も化学も倫理学も同じ。それがどんな具合に役立っているかは「肉体」にしかわからない。そんなもの「頭」の役にたつと思うからだめなんですよ。物理習ってヒューズが替えられない? 当たり前じゃないですか。肉体は「頭」とは違って、電気はびりっとくることを正確に知っている。それがどんなに気持ち悪いかも知っている。「頭」はこの「正確」と「気持ち悪さ」をことばにできない。それをことばにできるのは役に立たないと言われているへんてこな外国語やわけのわからない哲学をくぐらせた「肉体」だけなんだなあ。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社
火曜日になったら戦争に行く
渡辺 玄英
思潮社

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