谷川俊太郎「午前四時」(朝日新聞、2010年11月01日夕刊)
谷川俊太郎はときどき非常に不気味である。「午前四時」。
ここに書かれていることに、何の疑問も感じない。あ、こういうことはあるな、と思う。ところが・・・。
これは谷川の体験なのだろうか。そう思うと不気味なのである。
これらのことばの「発話者」、この詩の「主人公」は誰なのだろう。谷川かもしれないし、そうではないかもしれない。私は読みながら若い女性を想像した。恋人とけんかした若い女性。昔は無言でもこころが通ったけれど、いまはことばがうまく伝わらない。そのくせ、いまは逆に「無言」が別のこころを伝えてしまう。通い合えないこころの存在を伝えてしまう。――それは、谷川というよりも、もっと若い人間を「発話者」を浮かび上がらせる。
詩は「私小説」ではない。体験したことを書かなくてはいけない、というものでもない。――そうなのだけれど、どうしてこんなことを書こうと思いついたのか、最初のことばがどこから生まれてきたのか、それがわからない。
書かれていることは全部わかる(わかったつもり、そうだよなあ、と感じてしまう)。それなのに、なぜ、谷川がこのことばを書いたか、書こうとしたか、それが分からない。
そのわからなさを一気に飛び越えて、次の連で、谷川が突然姿をあらわす。
「無言」がひきだす「ふたつ」のこころ。「ふたつ」を冷静にみつめる客観的な視線。若い女性なら、「恐ろしい」のは「無言」の相手のこころ。電話機の向こうのこころだろう。けれど谷川は、その向こうのこころに限定しない。「ふたつ」、私と相手、そのふたつと、あっという間に言ってしまう。
「ふたつ」の存在は、そこに「間」を作り出す。
その「間」が一気に「宇宙」になる。
谷川は昔から、宇宙と孤独を書いていたが――あ、その孤独は、もしかしたら宇宙に私がひとりいるという孤独なのではなく、私以外に誰かいて、その誰かとこころが通わない、ということだったのだろうか。広大なひろがりではなく、谷川は、私と誰かの間の「限定された間」というものも見ていたのだろうか。
それとも、昔は「単独の孤独」だったが、いまは「他者」を前提とした「孤独」にむきあっているのだろうか。もしそうだとしたら、「いつ」その転機(?)があったのだろうか。
この突然の最終行も、次々とことばを誘う。あれこれと思ってしまう。「迷子になったふたつの心を/宇宙へと散乱する無音の電波が/かろうじてむすんでいる」。この「結んでいる」は希望ではなく、「闇」なのか。そうではなく、「かろうじてむすんでいる」の「かろうじて」しか希望がないほど暗い気持ちということか。
たぶん、断定できない。ひとことで言えない。
どんなことでもひとことでは言えない。ひとことでは言えないが、何か言わずにはいられない。――と書いて、それは、私の谷川の詩に対する感想なのか、それとも谷川の詩に登場する誰かの思いなのか、ふと、わからなくなる。
谷川俊太郎はときどき非常に不気味である。「午前四時」。
枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない
無言は恐ろしい
私の心はフリーズする
ここに書かれていることに、何の疑問も感じない。あ、こういうことはあるな、と思う。ところが・・・。
これは谷川の体験なのだろうか。そう思うと不気味なのである。
これらのことばの「発話者」、この詩の「主人公」は誰なのだろう。谷川かもしれないし、そうではないかもしれない。私は読みながら若い女性を想像した。恋人とけんかした若い女性。昔は無言でもこころが通ったけれど、いまはことばがうまく伝わらない。そのくせ、いまは逆に「無言」が別のこころを伝えてしまう。通い合えないこころの存在を伝えてしまう。――それは、谷川というよりも、もっと若い人間を「発話者」を浮かび上がらせる。
詩は「私小説」ではない。体験したことを書かなくてはいけない、というものでもない。――そうなのだけれど、どうしてこんなことを書こうと思いついたのか、最初のことばがどこから生まれてきたのか、それがわからない。
書かれていることは全部わかる(わかったつもり、そうだよなあ、と感じてしまう)。それなのに、なぜ、谷川がこのことばを書いたか、書こうとしたか、それが分からない。
そのわからなさを一気に飛び越えて、次の連で、谷川が突然姿をあらわす。
言葉までの道のりの途中で
迷子になったふたつの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる
朝の光は心の闇を晴らすだろうか
「無言」がひきだす「ふたつ」のこころ。「ふたつ」を冷静にみつめる客観的な視線。若い女性なら、「恐ろしい」のは「無言」の相手のこころ。電話機の向こうのこころだろう。けれど谷川は、その向こうのこころに限定しない。「ふたつ」、私と相手、そのふたつと、あっという間に言ってしまう。
「ふたつ」の存在は、そこに「間」を作り出す。
その「間」が一気に「宇宙」になる。
谷川は昔から、宇宙と孤独を書いていたが――あ、その孤独は、もしかしたら宇宙に私がひとりいるという孤独なのではなく、私以外に誰かいて、その誰かとこころが通わない、ということだったのだろうか。広大なひろがりではなく、谷川は、私と誰かの間の「限定された間」というものも見ていたのだろうか。
それとも、昔は「単独の孤独」だったが、いまは「他者」を前提とした「孤独」にむきあっているのだろうか。もしそうだとしたら、「いつ」その転機(?)があったのだろうか。
朝の光は心の闇を晴らすだろうか
この突然の最終行も、次々とことばを誘う。あれこれと思ってしまう。「迷子になったふたつの心を/宇宙へと散乱する無音の電波が/かろうじてむすんでいる」。この「結んでいる」は希望ではなく、「闇」なのか。そうではなく、「かろうじてむすんでいる」の「かろうじて」しか希望がないほど暗い気持ちということか。
たぶん、断定できない。ひとことで言えない。
どんなことでもひとことでは言えない。ひとことでは言えないが、何か言わずにはいられない。――と書いて、それは、私の谷川の詩に対する感想なのか、それとも谷川の詩に登場する誰かの思いなのか、ふと、わからなくなる。
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