粕谷栄市『遠い川』(4)(思潮社、2010年10月30日発行)
粕谷の時間観(?--こんなことば、あるかなあ)には「いま」しかない。けれども、その詩には「永い」ということばが頻繁に登場する。「いま」は一瞬である。その一瞬が「永い」というと矛盾になる。
だが、ほんとうか。
粕谷は「永い」と書いているが「長い」とは書いていない。「永い」と「長い」は違うのだ、きっと。
「盥の舟」の冒頭である。「永い」という時間を区切るものはひとつだけある。「おわり」である。「長い、短い」は測ることができるが、「永い」ははかることができず、ただ「終わり」によって「永い」が存在しなくなる。
粕谷の時間には「いま」しかないから、「いま」が終わったら、「永い」も終わる。でも、「いま」が終わるというのは、どういうことだろう。
「終わりにする頃だと分かったら、静かな春のその日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。」と粕谷は書くのだけれど、「終わり」がなぜ「静かな春のその日」なのだろう。秋かもしれない、冬かもしれない、夏かもしれない。なぜ、春?
あ、「終わり」は決めることができるのだ。人間が決めることができるのが「終わり」なのだ。それは逆に言えば、決めない限り「終わり」はなく、「永い」だけがある。「いま」だけがあるということになる。
「終わり」はではどうやって決めるのか。何もしない。これはまたまた矛盾である。何もしない。そこには何もない。何もないが「終わり」である。おかしなことに(?)、この「ない」は「ない」ではない。「必要なものなどない」「怖いものは、何一つなくなる」(ない)。それは、別なことばで言えば「満たされている」状態である。「満たされている」状態につながる何かがあるのが「終わり」なのである。
そして、またまた矛盾になってしまうのだが、この「満たされている」状態、「満ちた状態」というのは「永い」と重ならないだろうか。
「永いこと、この世に生きて」というときの「永い」を埋めるのは「空白」ではない。「満ち足りた」何かがあって「永い」になっている。「永いこと、生きて」というのは「満ち足りたので」ということと同じである。もう満ち足りたからか、もう「終わり」にするだ。
これは、「満ち足りた」(永い)自分の一生を「いま」(夢のなかで)思い返すということになる。「長い」ではなく「満ち足りたもの(永さ)」なので「いま」という一瞬に重なることができるのである。
そして、この「永さ」と「いま」という一瞬が重なるとき、それは「永遠」になる。「永遠」は「永さ」を終わらせ、「いま」にとじこめるとき、その「いま」が「永遠」なにるのだ。「永遠」は「遥か」とも呼ばれる。「いま」「ここ」にある「遥か」なるものが「永遠」である。

粕谷の時間観(?--こんなことば、あるかなあ)には「いま」しかない。けれども、その詩には「永い」ということばが頻繁に登場する。「いま」は一瞬である。その一瞬が「永い」というと矛盾になる。
だが、ほんとうか。
粕谷は「永い」と書いているが「長い」とは書いていない。「永い」と「長い」は違うのだ、きっと。
永いこと、この世に生きて、自分が、ここにいるのも、
そろそろ、終わりにする頃だと分かったら、静かな春の
その日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。
「盥の舟」の冒頭である。「永い」という時間を区切るものはひとつだけある。「おわり」である。「長い、短い」は測ることができるが、「永い」ははかることができず、ただ「終わり」によって「永い」が存在しなくなる。
粕谷の時間には「いま」しかないから、「いま」が終わったら、「永い」も終わる。でも、「いま」が終わるというのは、どういうことだろう。
「終わりにする頃だと分かったら、静かな春のその日、私は、独り、盥の舟に乗って海に漕ぎ出す。」と粕谷は書くのだけれど、「終わり」がなぜ「静かな春のその日」なのだろう。秋かもしれない、冬かもしれない、夏かもしれない。なぜ、春?
あ、「終わり」は決めることができるのだ。人間が決めることができるのが「終わり」なのだ。それは逆に言えば、決めない限り「終わり」はなく、「永い」だけがある。「いま」だけがあるということになる。
死んでしまえば、もう、必要なものなどないから、持
っていくものといえば、梅ぼしの甕くらいだ。臆病な私
でも、櫂を手にしたとたん、気が大きくなって、怖いも
のは、何一つなくなる。
盥の舟は、沖に出たら、青い海にぽつんと浮いている
だけだ。ゆらゆら、波に揺れて、私は、何もしない。一
切は、成り行きに任せる。
「終わり」はではどうやって決めるのか。何もしない。これはまたまた矛盾である。何もしない。そこには何もない。何もないが「終わり」である。おかしなことに(?)、この「ない」は「ない」ではない。「必要なものなどない」「怖いものは、何一つなくなる」(ない)。それは、別なことばで言えば「満たされている」状態である。「満たされている」状態につながる何かがあるのが「終わり」なのである。
そして、またまた矛盾になってしまうのだが、この「満たされている」状態、「満ちた状態」というのは「永い」と重ならないだろうか。
「永いこと、この世に生きて」というときの「永い」を埋めるのは「空白」ではない。「満ち足りた」何かがあって「永い」になっている。「永いこと、生きて」というのは「満ち足りたので」ということと同じである。もう満ち足りたからか、もう「終わり」にするだ。
それだけで、ほかに何もすることがなくて、私は眠く
なる。そうだ、それから、うつらうつら、私は、永い自
分の一生を夢にみるのだ。
これは、「満ち足りた」(永い)自分の一生を「いま」(夢のなかで)思い返すということになる。「長い」ではなく「満ち足りたもの(永さ)」なので「いま」という一瞬に重なることができるのである。
そして、この「永さ」と「いま」という一瞬が重なるとき、それは「永遠」になる。「永遠」は「永さ」を終わらせ、「いま」にとじこめるとき、その「いま」が「永遠」なにるのだ。「永遠」は「遥か」とも呼ばれる。「いま」「ここ」にある「遥か」なるものが「永遠」である。
そして、気がつくと、静かな春のその日、私は、独り、
盥の舟に乗っている。いや、観音さまのような赤い腰巻
の女の幻と、しっかり、そこで抱きあっている。
耄碌した人間が、みんな、そうであるように、そうな
ったら、もう怖いものなど、何一つない。独り笑いなが
ら、私は、ゆらゆら、梅ぼしの甕のなかの遥かな補陀落
の里に行くのだ。

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