ナボコフ『賜物』(7)
「盲目の太陽」。こういうことばを読むと、私は「現代詩」を思い出してしまう。ありえないことばの結びつき。その瞬間、ことばの「文法」が破壊する。ことばの「肉体」が破壊されてしまう。そして、むりやり度の強い眼鏡で網膜に直接光で何かを刻印されたような気持ちになる。何かを見た--ではなく、何かをむりやり見させられたような意識の錯乱が起きる。それは見たかったものか、それとも見たくなかったものか。
こういう「混乱」は、長く読者に考えさせてはだめである。「混乱」こそが新しい何かを見るための「方法」なのだと錯覚させるくらいに、ことばが加速しないといけない。この加速においてナボコフのことばは「現代詩」を上回ることがある。
ナボコフのこの描写は、太陽が突然強い光をふりそそぎ、その光によって生まれた木々の影がトラックの屋根にあざやかに記される--記されようとした瞬間、また翳り、影は陰にならずに終わってしまう、ということを書いたいるのだと思うが、そういう描写に「実体化」とか「具現」というような硬いことばを挟み込む。太陽、光、菩提樹、影。自然をあらわすことばが、自然から遠いことばによって(科学、あるいは物理のことばによって?)攪拌される。
「盲目の太陽」という、ありえないことばの結合だけではなく、自然と科学という異質のことばが出会うことで、思考が攪拌され、ことばが加速するのだ。ナボコフは大量のことばを書くが、それは、その場にただ動かずに存在する「もの」のようにしてあるのではなく、互いに他のことばを加速させ、いま書いたことばを振り捨てるのだ。
あらゆることばは、その対象である「もの」を想像力の中に「具体化」しようとするが、その「もの」が想像力のなかで「具現」しないうちに、ナボコフは他のことばをぶつける。他のことばで前のことばを弾き飛ばす。
ナボコフのことばの暴走を、そんなふうにみることができる。
それにしても、おもしろい、と思う。「具体化」「具現」。このことばの強さに、私は引きずられてしまう。ナボコフが町をどう描写しようとしていたのか、その描写よりも、ふいにあらわれた具体化、具現ということばが、その瞬間、何か、ナボコフの「肉体」を感じさせるのだ。ナボコフの書きたいという欲望を感じさせるのだ。なんでもことばにすることで「具体化」「具現(化)」したいのだ。その欲望だけでナボコフは生きている、と感じるのだ。
ときおり盲目の太陽が漂うあたりにオパール色の穴があき、そうすると下界では、トラックの丸みを帯びた灰色の屋根で菩提樹の細い枝の影たちが恐ろしい勢いで実体化に向けて突き進むのだが、その形が完全に具現しないうちに、溶けてなくなるのだった。
(14ページ)
「盲目の太陽」。こういうことばを読むと、私は「現代詩」を思い出してしまう。ありえないことばの結びつき。その瞬間、ことばの「文法」が破壊する。ことばの「肉体」が破壊されてしまう。そして、むりやり度の強い眼鏡で網膜に直接光で何かを刻印されたような気持ちになる。何かを見た--ではなく、何かをむりやり見させられたような意識の錯乱が起きる。それは見たかったものか、それとも見たくなかったものか。
こういう「混乱」は、長く読者に考えさせてはだめである。「混乱」こそが新しい何かを見るための「方法」なのだと錯覚させるくらいに、ことばが加速しないといけない。この加速においてナボコフのことばは「現代詩」を上回ることがある。
ナボコフのこの描写は、太陽が突然強い光をふりそそぎ、その光によって生まれた木々の影がトラックの屋根にあざやかに記される--記されようとした瞬間、また翳り、影は陰にならずに終わってしまう、ということを書いたいるのだと思うが、そういう描写に「実体化」とか「具現」というような硬いことばを挟み込む。太陽、光、菩提樹、影。自然をあらわすことばが、自然から遠いことばによって(科学、あるいは物理のことばによって?)攪拌される。
「盲目の太陽」という、ありえないことばの結合だけではなく、自然と科学という異質のことばが出会うことで、思考が攪拌され、ことばが加速するのだ。ナボコフは大量のことばを書くが、それは、その場にただ動かずに存在する「もの」のようにしてあるのではなく、互いに他のことばを加速させ、いま書いたことばを振り捨てるのだ。
あらゆることばは、その対象である「もの」を想像力の中に「具体化」しようとするが、その「もの」が想像力のなかで「具現」しないうちに、ナボコフは他のことばをぶつける。他のことばで前のことばを弾き飛ばす。
ナボコフのことばの暴走を、そんなふうにみることができる。
それにしても、おもしろい、と思う。「具体化」「具現」。このことばの強さに、私は引きずられてしまう。ナボコフが町をどう描写しようとしていたのか、その描写よりも、ふいにあらわれた具体化、具現ということばが、その瞬間、何か、ナボコフの「肉体」を感じさせるのだ。ナボコフの書きたいという欲望を感じさせるのだ。なんでもことばにすることで「具体化」「具現(化)」したいのだ。その欲望だけでナボコフは生きている、と感じるのだ。
ディフェンス | |
ウラジーミル・ナボコフ | |
河出書房新社 |