詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『露地の花』

2010-11-27 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(思潮社、2010年10月31日発行)

 高貝弘也『露地の花』は、本の構造が少し変わっている。普通、本には「奥付」がある。そして、それは本の末尾に書かれている。それは本の出生証明書のようなものである。その出生証明書を高貝の今回の詩集は「栞」の形で収めている。栞に、初出一覧と奥付がある。本体には奥付がない。(目次もない。)
 私はとても整理が苦手で、なんでもかんでもなくしてしまう人間なので、きっとこの栞もどこかになくしてしまうだろう。私はカバーとか帯とか、本にぴったりとくっついていないものは読むのに邪魔になるのでたいてい捨ててしまう。栞も読んでいるときにどこかに落としてしまう。今回も、あ、「日記」を書くときいつも紹介している奥付がないと思いながら、困ったなあ、と思ったとき、偶然栞が落ちて、拾い上げて、あ、こんなことろに奥付が……と気づいたのだ。--で、書きたいことは別にあったのだが、ふと、その奥付について書きはじめている。
 奥付がない--いや、本体に書きこまれていない、というのは、高貝の「意図」であると思う。そこに高貝の「思想」が、「肉体」があると思う。高貝は、そこにあることば、それを、ただことばとして読む。いつ書かれたか、を消してしまいたい--とまではいかなくても、いつ書かれたかということをテキストから切り離してしまいたいのだ。
 私は、すぐに本の付属品を捨ててしまう(なくしてしまう)と書いたが、高貝は、彼のことばからそういうものを捨ててしまいたいのだと思う。私のような人間は、たぶん、高貝にとって理想の読者なのだろうと思う。--あるいは、そんなふうに考えることは、高貝の罠にはまっているのかもしれないけれど……。

 罠--と、ちょっと奇妙なことを書いたが、高貝のことばには、何かしら「罠」のようなものがある。
 「露地の花」。冒頭の2行。

漣痕(れんこん)のした、とろり 波が揺れている。
二町谷くだり、見桃寺をたずねた

 「蓮根」と「漣痕」は別のものである。が、「れんこんのした」という音は「蓮根の下」を想像させる。蓮根は水の下、泥のなかにあるのだが、その下の方から逆に水面を見上げると、とろり、と波が(水が)揺れている--そういうイメージがまず浮かぶ。そして、その「とろり」には「した」という音を「舌」にかえてしまうものがある。蓮根を食べる。そのときの感触、とろり。それが蓮根が眠りながら見上げた水の(波の)揺れる様子を思い出させる。
 これはもちろん完全な「誤読」である。
 そう意識しながら「漣痕」の方へことばを動かすのだが……。「漣痕」というのは、海辺の波の痕のことだが、うーん、砂浜に打ち寄せた波が沖へ引いていくのではなく、砂の下へ下へともぐりこみ(砂は水を吸い込むからね)、砂を「とろり」とさせながら、下の下の方で記憶の波を揺らしているということなのかなあ。あるいは「漣痕」が「舌」のように「とろり」としていて、それが波のように見えるということなのかなあ。
 あ、これも「正しい読み」には入らないだろう。きっと「誤読」だろう。
 私は「誤読」が大好きな人間だから、「誤読だよ」と高貝に指摘されても、そういう指摘自体はなんとも感じないが、どうも不安定である。私の気持ちが。「よし、こんなふうに誤読してやるんだ」という気持ちがかたまってこない。「波が揺れる」ではなく、私の「読み方」が揺れる。
1行目で、それだけ揺れてしまうと、2行目はもっとたいへんである。「二町谷くだり」とは「二町谷」を「下る」ということ? 1行目の「した」がここでは完全に「下」ということばを揺り起こし、目覚めさせている。私はどうしても「下る」と読んでしまう。そして「を」を無意識に補っている。詩に書かれている誰かは、二町谷を下り、見桃寺をたずねる、と私は読んでしまう。(「二町谷」も次の「見桃寺」も私にはわからない名前だが実在の固有名詞だろうか。)そして、そう読んだ時に、また1行目の「漣痕」が「蓮根」になってしまうのだ。寺は仏教。仏。蓮の花。「谷」ということばも、「漣痕」の海辺ではなく、静まり返った池のようなものを連想させる。
 高貝はいったい何を書いているのだろう。それがわからない。わからないのだけれど「意味」を通り越して、「した」「とろり」「揺れている」「くだり」「たずねた」ということばが、のんびりと動いている人間を感じさせる。彼のなかには、何かしら「した」「とろり」「揺れている」「くだり」「たずね(る)」という感じの音が動いている。(たずねた、ではなく、たずねる、の方が私には音楽的に響きがいいように思える。)その一方で、彼の肉体は「見桃寺」の「見」るということばのように、何かしら視覚的である。「漣痕」は耳では認識できない。あくまで視覚で認識する。あるいは、触覚で、というひともいるかもしれない。--触覚で、というのは「とろり」ということばが呼び覚ますのである。
 何が書いてあるのか「頭」ではわからない。「頭」ではわからないが、何かしら「肉体」の奥から、いつもとは違った感覚が動きはじめているのを感じる。いまは春。春のとろりとした光が(波だったのに……、そして海辺ではまだ波なのだけれど……)あふれ、お寺では桃が咲いていて、そのとろりと酔うようななかを、あてもなくただ感覚を遊ばせている。感覚が遊びはじめている。
 そういう感覚に呼応する(そういう感覚をさらに呼び覚ます、あるいはかき混ぜる)ように2連目が動く。

ひき毟(むし)るばかりの 哀しい反照が
馬酔木(あしび)の淡淡しい 馥(かお)りが
前橋の袂(たもと) 幽かな半母音が

 「意味」はここにも存在しない。(あるのかもしれないけれど。)「ひきむしる」「かなしい」、「あしび」「あわあわしい」、「ひきむしる」「たもと」、「 幽(かす)かな」「かなしい」「かおり」、「幽(ほの)かな」「かおり」「たもと」、「あわあわしい」「ほのかな」「はんぼいん」--ただ、ことばが、その意味ではなく「音」が反照しあうのだ。まるで、1連目の「蓮根」が「下」から見上げた水の揺れる姿のように。
 この「反照」することば--それは意味を拒絶する「罠」である。「罠」であることがわかっていても、そこに置かれている「えさ(?)」が魅力的なので、そのなかに入ってしまうような「罠」である。
 そして「前橋」。
 あ、ここは朔太郎の土地? 朔太郎の母音が高貝を動かしている?
 「前橋」こそが「魅力的なえさ(?)」

 こんなふうに動いていくことば、--私のことばは高貝のことばに動かされているのだけれど、動かし、動かされるそのことばは、2010年10月31日という日付(奥付)も、2010年11月27日という日付(きょうの日付)も関係がないなあ。朔太郎(?)の生きた時代も吹き飛ばして、ただ日本語の音のなかへなかへと彷徨い、そうすることで「日本人」の肉体を彷徨う。朔太郎ということばをたまたま私は思いついたが、朔太郎も、高貝も、私も関係ない。個別の、個人の肉体を超えて、肉体そのもののなかへと動いていく。誰のものでもない肉体(誰のものでもある肉体)になって、日本語を呼吸する。


高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社


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ナボコフ『賜物』(23)

2010-11-27 10:50:51 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(23)

 その代わり再現されているのは、駅から出たとたん最初に覚える感じのような、春の印象の数々だ。地面は柔らかく、足に近く、まったく遠慮のない空気の流れが頭を取り巻く。
                                 (41ページ)

 この春の描写は、私にはとても懐かしく感じられる。私が雪国育ちだということと関係している。「地面は柔らかく、足に近く」。これは雪が消えているからである。雪の凍った道に比べると地面は柔らかい。そして何よりも「足に近い」。地面と足の間に雪がない。それだけではない。いや、正確ではない。足が感じるのは「もの」ではないのだ。「もの」の感触なのだ。雪があるとき、雪とともにある感触。冷たい、滑る--などの感触がない。それを足という肉体がはっきり感じる。それは、なんといえばいいのだろう、自分自身の「感触」を脱いだ感じなのだ。自分の肉体が自然にまとってしまう緊張感を脱いで、地面に直接触れる感じ。それが「近い」。それは地面と足の間に雪が挟まっているか挟まっていないか以上の違いなのだ。「物理」ではなく「生理」の近さである。
 同じことが「遠慮のない空気の流れ」にも言える。「遠慮がない」ということばそのもので言えば冬の空気も遠慮がない。人間に配慮しない。平気で頭を殴ってくる。帽子や耳当てがないと、とてもつらい。冷たい空気は痛くてたまらない。春の空気の遠慮のなさは、それとは違う。空気が触れるのは同じだが、人間が、「さあ、遠慮しないでもっと愛撫して」と要求するものなのだ。空気に遠慮がないのではなく、人間の方に遠慮に対する意識がない。どんなに触られたって、どんなにぶしつけにふいに襲ってきたってうれしいのだ。ここに書かれているのは「気候」ではなく「心理」なのだ。
 ナボコフは、生理や心理を、すばやくことばにもぐりこませるのだ。

ちょっと離れたところでぼくたちを待っていたのは、内側も外側も真っ赤なオープンカーだった。スピードの観念のせいですでにそのハンドルは傾斜していたが(ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)、全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。
                                 (41ページ)

 (ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)がおもしろい。人間に、ではなく、海辺の崖の木々。風にあおられつづけて傾いている(傾斜している)木々。ナボコフの視力は、いま、ここにない、遠くのものをすばやく引き寄せる。そして視力で引き寄せたものは、それぞれに「肉体」をもっている。だからこそ、その「肉体」が「わかる」と信じることができるのだ。崖の木々は「頭」でナボコフの書いたことばを理解するのではない。肉体で、風と、スピードが引き起こす風と肉体の傾斜の関係をわかるのだ。
 この自然との一種の一体感がナボコフの肉体そのものにあるような感じがする。そのことが、ナボコフのことばを伸びやかにしている。
 他方、人工のものに対しては、こういう親和感はない。「全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。」オープンカーも幌馬車も、車のひとつ。オープンカーは幌馬車の外観を真似ている(似ている)。それは後輩が先輩のスタイルを礼儀として真似るのに似ていて、そこには一種の「卑屈さ」がある。
 ナボコフは人工物に対して親和力ではなく批判力を発揮する。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社


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