詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(5)

2010-11-20 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(5)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「遠い川」は「三途の川」を思わせる。そこへ向かって歩いている老人。「永さ」は「死」によって封印される。そのとき「いま」は消える。消えるもののなかに「永遠」があることになる。無のなかにある「永遠」。これはまたまた矛盾である。だが、どうして人は矛盾を考えるのだろう。

 それは不思議なことだ。気がつくと、かつて考えたこ
ともないことを、自分はしている。それでいて、自分の
行く先が、その遠い川であることを知っているのだ。
 老人は、それが、自分の生まれる前らか決まっていた
ことなのだと思う。どんな生涯を送っても、誰もが、こ
の道を歩くことになるのだ、と。

 「知っている」(知る)とは何だろうか。おもしろいのは、ここで「知る」の対象となっているものが「生まれる前から決まっていたこと」と書かれていることである。新しいものを知るのではない。すでにあるもの、けっしてかわらないものを人は「知る」。それ以外は、たぶん知らなくてもいいものなのかもしれない。
 「生まれる前から決まっていたこと(決まっていること)」とは、「永遠」でもある。
 「永遠」は自分で決めることではなく、最初から決まっている。人ができるのは、その「決まっている」ことを自分でやりとごること。自分で「終わらせる」ことなのだ。
 「死」はやってくるものではなく、自分で選んで「生」を終わらせることではじめて生まれる。「生まれる前から決まっている」ことなのだけれど、その「決まっていること」は、待っていてはやってこない。

 老人が、独り、そこへむかって歩いている。人間が死
ぬのは、当然のことだが、おそらく、その前に、誰もが、
このことをするのだ。

 「生まれる前から決まっていたこと」、「永遠」は、ここでは「当然のこと」と言い換えられている。
 この「当然のこと」ということばに出会うまで、私は見過ごしてきたのだが、粕谷が問題にしているのは「こと」なのだ。生まれる前から決まっていた「こと」。誰も知らない「こと」。不思議な「こと」。考えた「こと」もない「こと」。川である「こと」。この道をあるく「こと」。この「こと」。
 いろいろつかわれているが、一番重要な「こと」のつかい方は、最後の「このことをするのだ」のというつかい方にある。
 「こと」は「する」と緊密なつながりがある。「する」によって「こと」が生まれる。「する」によって「こと」になる。「する」によって「こと」が「当然」という「本質」を獲得する。
 「する」が「永遠」をつくりだすのである。
 人間と「永遠」は、「する」という動詞によって結びつく。

 暗い夜明け、一歩ずつ、歩いていると、それが分かる。
そうなのだ。その日がきて、数多くの老人が、それぞれ
の道を、遠い川にむかって歩いている。

 「それぞれの道」の「それぞれ」が重要である。「道」は一つではない。ひとりひとりに、それぞれある。「永遠」はひとつだが「する」は無数にある。その「無数」が「永さ」、つまり数えきれないもの、何かで計測できる「長さ」ではないことのあかしである。「それぞれ」あり、数えきれない「充実」として「永遠」が、そのなかに生きている。

 彼らは、全て、遠い昔の婚礼の日の身支度をしている。
自分もその一人だ。固く唇を結んで、私は思う。あの木
の舟のことろまで、自分も早く行かなければ、と。

 「一人」。突然出てきたこの表記に、私は、強烈な光を感じた。その文字が、はじめてみる文字のようにページを突き破って、光っている。
 『遠い川』の作品群では、粕谷はこれまで「独り」という表記を使っている。「遠い川」の書き出しにも、「暗い夜明け、老人が、独り、遠い川にむかってあるいている。」という表現がある。
 その「独り」ではなく、「一人」。
 ここでまた矛盾に出会うのだが、「一人」はほんとうはひとりではない。孤独ではない。「それぞれの道」を歩くそれぞれの人間のうちの「一人」。「無数」のうちの「一人」。「独り」と書いているとき、粕谷は「無数」の人間とは触れ合っていない。重なり合わない。けれど、「遠い川へむかって道を歩く」という「こと」を「する・こと」で、「こと」のなかで触れ合うのだ。「独り」で「する・こと」を無数の人が「する」とき、「独り」は「一人」にかわり、「こと」が共有される。
 共有された「こと」が「永遠」である。共有されることで、「した・こと」が「永遠」になる。
 「一人」の発見によって、粕谷は、「人間」になるのだと思う。「人間」になったのだと思う。
 この発見に、「婚礼の日の身支度」(婚礼の衣装)が関わっているのはとてもおもしろい。「婚礼」は「独り」ではできない。それは必ず「相手」を必要とする。「独り」から「一人」になる最小の組み合わせが「婚礼」である。

 「婚礼」を「出会い」と言い換えるとどうなるだろう。
 「出会い」によって「独り」が「終わり」、「一人」が誕生する。「一人」が誕生するとき、人間は、他者と共有する「永遠」に触れる。変わらぬもの、生まれる前から決まっていたことに触れる。
 その「出会い」が「人」ではなく、たとえば「もの」なら、その「婚礼」は詩を生み出すのかもしれない。その「婚礼」は、詩になるのだ、と言えるかもしれない。
 詩のなかには、自ら選びとった「死」(終わり)と、死によって封じこめられ「新しいもの」としてあらわされた「永遠」が固く結びついている。




化体
粕谷 栄市
思潮社

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ナボコフ『賜物』(17)

2010-11-20 12:51:33 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(17)

ぼくはベッドの暗闇の中で旅をした。シーツと毛布を丸天井のように引っかぶって、洞窟のようにしたのだ。洞窟の遠い、遠い出口のあたりでは脇から青みがかった光がさしこんでいたが、その光は、部屋とも、ネヴァ河畔の夜とも、黒っぽいカーテンのふんわりした半透明の縁飾りとも、何の関わりもなかった。
                                 (28ページ)
  
 想像力とはものを歪めてみる力だといったのはバシュラールだと思うが、この「歪める力」が、「洞窟のようにした」の「した」に隠れている。シーツ、毛布を被ったとき、それが洞窟のように「なった」のではない。主人公は、それを自分の思いで、そのように「した」のである。歪めたのである。
 そして、そのとき「洞窟」は洞窟に「した」のだからもちろん、部屋の光やその他その近くにあるものと「関わり」がないのは当然のことだが、この「関わりのなさ」も主人公が「した」ことなのだ。必然ではなく、作為なのである。
 だから、それに続く、

そのうち、ようやくうとうとすると、ぼくは十本もの手にひっくり返され、誰かが絹を引き裂くような恐ろしい音ともにぼくを上から下まで切り裂いて、それから敏捷な手がぼくのなかに入り込み、心臓をぎゅっと締め付けた。

 この恐怖も、実は、「ぼく」が自分で「した」ことなのだ。そうなるように自分から「夢」を見たのである。それは一種の冒険である。楽しいだけが冒険ではなく、恐怖を味わうことこそ、官能的な冒険である。
 どこかで、主人公は生きている限り味わえない「死」に触れる喜びを知りたくて、あえて、そうしているのである。
 私は先走りしすぎているのかもしれないが、「洞窟のようにした」の「した」にそんなことを感じた。


ヨーロッパ文学講義
ウラジーミル ナボコフ
阪急コミュニケーションズ

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