誰も書かなかった西脇順三郎(152 )
「失われたとき」のつづき。
西脇のことばは非常に速い。いろいろなイメージがつき次にあらわれてくるので、こういう部分では西脇の特徴はたしかに「絵画的」という印象を与えるかもしれない。
しかし私はどうしても「絵画的」とは受け止めることができない。
1行1行は具体的な存在をくっきりと浮かび上がらせる。「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」という展開は、「永遠」という見えないもの(ランボーのように、それが見える人もいるだろうけれど)を、「からだ」「弓」「まげる」「女」というなまめかしい(?)ものをとおして語るとき、しなやかにたわむ女のからだが永遠であるという具合に見えてくるけれど、「あの女の音だ」とつづけられると、瞬間的にいま見た「イメージ」が消えてしまう。
それからつづく行も、1行1行は次々に瞬間的なイメージを浮かび上がらせるけれど、同時に消えていく。「絵画」というより次々に消えていく映像でつくられた「映画」の方が印象的には合致する。(私の場合は。)
しかし、私には「映画的」にも見えない。私の想像力が貧弱だからといわれれば反論のしようがないのだけれど、私は西脇の書いていることばを「映像」として持続させることができない。新しく展開してきた「映像」に驚かされるけれど、それは新しい行がまえの行を突き破っているからである。いうならば、映像は持続するのではなく、次々に破られてしまう。前の「映像」は「映像」として残らない。そんな「映画」はない。「映画」は映像が連続したものである。持続することで、そこにストーリーを浮かび上がらせ、感情をうごめかせる。西脇の「映像」はそういうものを持続させない。
何が西脇のことばを持続させているのか。
同じことしか書けないが、(同じことを書くことが私の狙いでもあるのだけれど……)、それはやはり「音」なのだ。
「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」のあとにあらわれた「音だ」。
「蘭を買つて永遠の笑いをかくした」という1行のなかの「買つて」「かくした」の「か」の響きあいが、ことばを加速させるその「加速」の感じが、普通のことばとは違ったスピードを感じさせる。その一種の「違和感」が詩なのだと私は思う。
その次の、
行頭の「ことも」は「学校教科書文法」的には、前の行につながるはずである。それが切断された行の冒頭にきているのだが、その冒頭の「ことも」が同じ1行の最後に繰り返されると、不思議なことに行頭の「ことも」か行末の「ことも」か、そのどちらか判然としないのだが、「ことも」という音が1行前にもどって「かくしたことも」につながって響く。「ことも」の繰り返しによって、乱れた行が何かひとつの統一感のなかに浮かび上がってくる。
そして、その「ことも」の「も」がその後「玄関も」「誤謬も」「刈入れも」と繰り返される。そのたびに、あ、「……も」というリズムがこの詩を動かしているなあと感じる。
「映像」ではなく「音」が行を調えている。突き動かしている。それは前進するとともに、過去(それ以前の行)を引っ張りだしもする。
音楽を聴いていると、新しいはずの部分に、それ以前に聞いた音がまじり込み、あ、繰り返しだ、と気づくことがある。その瞬間、その新しい部分が、初めて聞いたときより加速して感じられる。なめらかに、楽々と動いていく感じがすることがある。その軽快な加速--音楽喜び。それに似たものを私はいつも西脇の詩に感じる。

「失われたとき」のつづき。
永遠も
永遠はからだを弓のようにまげる
あの女の音だ
蘭を買つて永遠の笑いをかくした
ことも蘭になつたおじさんのことも
山ごぼうを活けているうす明りの
マダム・ド・スタールの玄関も
みかんの花と茄子の花の誤謬も
サルビアの咲く家の
播いた種子の悲しげな刈入れも
みな忘れた悲しみだ
ウルビーノ侯爵夫人はまゆを
そつてしまつた
西脇のことばは非常に速い。いろいろなイメージがつき次にあらわれてくるので、こういう部分では西脇の特徴はたしかに「絵画的」という印象を与えるかもしれない。
しかし私はどうしても「絵画的」とは受け止めることができない。
1行1行は具体的な存在をくっきりと浮かび上がらせる。「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」という展開は、「永遠」という見えないもの(ランボーのように、それが見える人もいるだろうけれど)を、「からだ」「弓」「まげる」「女」というなまめかしい(?)ものをとおして語るとき、しなやかにたわむ女のからだが永遠であるという具合に見えてくるけれど、「あの女の音だ」とつづけられると、瞬間的にいま見た「イメージ」が消えてしまう。
それからつづく行も、1行1行は次々に瞬間的なイメージを浮かび上がらせるけれど、同時に消えていく。「絵画」というより次々に消えていく映像でつくられた「映画」の方が印象的には合致する。(私の場合は。)
しかし、私には「映画的」にも見えない。私の想像力が貧弱だからといわれれば反論のしようがないのだけれど、私は西脇の書いていることばを「映像」として持続させることができない。新しく展開してきた「映像」に驚かされるけれど、それは新しい行がまえの行を突き破っているからである。いうならば、映像は持続するのではなく、次々に破られてしまう。前の「映像」は「映像」として残らない。そんな「映画」はない。「映画」は映像が連続したものである。持続することで、そこにストーリーを浮かび上がらせ、感情をうごめかせる。西脇の「映像」はそういうものを持続させない。
何が西脇のことばを持続させているのか。
同じことしか書けないが、(同じことを書くことが私の狙いでもあるのだけれど……)、それはやはり「音」なのだ。
「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」のあとにあらわれた「音だ」。
「蘭を買つて永遠の笑いをかくした」という1行のなかの「買つて」「かくした」の「か」の響きあいが、ことばを加速させるその「加速」の感じが、普通のことばとは違ったスピードを感じさせる。その一種の「違和感」が詩なのだと私は思う。
その次の、
ことも蘭になつたおじさんのことも
行頭の「ことも」は「学校教科書文法」的には、前の行につながるはずである。それが切断された行の冒頭にきているのだが、その冒頭の「ことも」が同じ1行の最後に繰り返されると、不思議なことに行頭の「ことも」か行末の「ことも」か、そのどちらか判然としないのだが、「ことも」という音が1行前にもどって「かくしたことも」につながって響く。「ことも」の繰り返しによって、乱れた行が何かひとつの統一感のなかに浮かび上がってくる。
そして、その「ことも」の「も」がその後「玄関も」「誤謬も」「刈入れも」と繰り返される。そのたびに、あ、「……も」というリズムがこの詩を動かしているなあと感じる。
「映像」ではなく「音」が行を調えている。突き動かしている。それは前進するとともに、過去(それ以前の行)を引っ張りだしもする。
音楽を聴いていると、新しいはずの部分に、それ以前に聞いた音がまじり込み、あ、繰り返しだ、と気づくことがある。その瞬間、その新しい部分が、初めて聞いたときより加速して感じられる。なめらかに、楽々と動いていく感じがすることがある。その軽快な加速--音楽喜び。それに似たものを私はいつも西脇の詩に感じる。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第5巻〉評論集2―ヨーロッパ文学 |
西脇 順三郎 | |
慶應義塾大学出版会 |
