詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

2010-11-10 11:37:55 | ナボコフ・賜物
誰も書かなかった西脇順三郎(152 )

 「失われたとき」のつづき。

永遠も
永遠はからだを弓のようにまげる
あの女の音だ
蘭を買つて永遠の笑いをかくした
ことも蘭になつたおじさんのことも
山ごぼうを活けているうす明りの
マダム・ド・スタールの玄関も
みかんの花と茄子の花の誤謬も
サルビアの咲く家の
播いた種子の悲しげな刈入れも
みな忘れた悲しみだ
ウルビーノ侯爵夫人はまゆを
そつてしまつた

 西脇のことばは非常に速い。いろいろなイメージがつき次にあらわれてくるので、こういう部分では西脇の特徴はたしかに「絵画的」という印象を与えるかもしれない。
 しかし私はどうしても「絵画的」とは受け止めることができない。
 1行1行は具体的な存在をくっきりと浮かび上がらせる。「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」という展開は、「永遠」という見えないもの(ランボーのように、それが見える人もいるだろうけれど)を、「からだ」「弓」「まげる」「女」というなまめかしい(?)ものをとおして語るとき、しなやかにたわむ女のからだが永遠であるという具合に見えてくるけれど、「あの女の音だ」とつづけられると、瞬間的にいま見た「イメージ」が消えてしまう。
 それからつづく行も、1行1行は次々に瞬間的なイメージを浮かび上がらせるけれど、同時に消えていく。「絵画」というより次々に消えていく映像でつくられた「映画」の方が印象的には合致する。(私の場合は。)
 しかし、私には「映画的」にも見えない。私の想像力が貧弱だからといわれれば反論のしようがないのだけれど、私は西脇の書いていることばを「映像」として持続させることができない。新しく展開してきた「映像」に驚かされるけれど、それは新しい行がまえの行を突き破っているからである。いうならば、映像は持続するのではなく、次々に破られてしまう。前の「映像」は「映像」として残らない。そんな「映画」はない。「映画」は映像が連続したものである。持続することで、そこにストーリーを浮かび上がらせ、感情をうごめかせる。西脇の「映像」はそういうものを持続させない。
 何が西脇のことばを持続させているのか。
 同じことしか書けないが、(同じことを書くことが私の狙いでもあるのだけれど……)、それはやはり「音」なのだ。
 「永遠はからだを弓のようにまげる/あの女の」のあとにあらわれた「音だ」。
 「蘭を買つて永遠の笑いをかくした」という1行のなかの「買つて」「かくした」の「か」の響きあいが、ことばを加速させるその「加速」の感じが、普通のことばとは違ったスピードを感じさせる。その一種の「違和感」が詩なのだと私は思う。
 その次の、

ことも蘭になつたおじさんのことも

 行頭の「ことも」は「学校教科書文法」的には、前の行につながるはずである。それが切断された行の冒頭にきているのだが、その冒頭の「ことも」が同じ1行の最後に繰り返されると、不思議なことに行頭の「ことも」か行末の「ことも」か、そのどちらか判然としないのだが、「ことも」という音が1行前にもどって「かくしたことも」につながって響く。「ことも」の繰り返しによって、乱れた行が何かひとつの統一感のなかに浮かび上がってくる。
 そして、その「ことも」の「も」がその後「玄関も」「誤謬も」「刈入れも」と繰り返される。そのたびに、あ、「……も」というリズムがこの詩を動かしているなあと感じる。
 「映像」ではなく「音」が行を調えている。突き動かしている。それは前進するとともに、過去(それ以前の行)を引っ張りだしもする。
 音楽を聴いていると、新しいはずの部分に、それ以前に聞いた音がまじり込み、あ、繰り返しだ、と気づくことがある。その瞬間、その新しい部分が、初めて聞いたときより加速して感じられる。なめらかに、楽々と動いていく感じがすることがある。その軽快な加速--音楽喜び。それに似たものを私はいつも西脇の詩に感じる。




西脇順三郎コレクション〈第5巻〉評論集2―ヨーロッパ文学
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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ナボコフ『賜物』(8)

2010-11-10 10:49:17 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(8)

彼は晴れ晴れとした微笑みを浮かべるだけにとどめ、脇に跳びのいた猫の体について行き損ねた虎縞模様につまずきそうになった。
                                (15ページ)

 人間が猫につまずきそうになるということはある。けれど、猫が跳びのいて、その猫の体に猫の体の模様(虎縞模様)がついて行き損ねるということはないし、したがって、そのついて行き損ねた「模様」につまずくということはない。
 ないのだけれど、この描写はとても「正確」であると感じてしまう。
 人間の肉体の反応は複雑である。眼が反応する。足が反応する。眼と足とのあいだに、「ずれ」がある。
 何かがふいに足元で動く。跳びはねる。猫だった。それは虎模様だった。その猫という意識から、虎模様という意識のあいだまでの一瞬。そののとき、たぶん、足への意識がうすれる。足がもつれる。つまずきそうな感じ--というのは、そのことを指している。
 この一瞬の出来事を整理しなおすと(?)、まるで猫の虎模様が、猫のあとから動いたようで、そして、その残っていた虎模様につまずきそうになった、ということになる。
 これは、まあ、強引な「論理」であるけれど、そういう面倒くさい「論理」にしなくても、というか、そんなことをする前に書かれていることがわかってしまう。
 なぜだろう。
 私たちは誰でも、そういう眼と足との動きのずれ、一瞬の余分な意識の動きが肉体に作用して、肉体をぐらつかせることを知っているからだ。意識(認識--眼)と肉体(足)のあいだには、連続性と同時に「ずれ」がある。「ずれ」は眼と足との、脳からの距離かもしれないが……。

 余分なことを書いてしまった。

 ナボコフの描写が美しいのは、そこに必ず「肉体」があるからだ。華麗で細密なことばが動くので、そこには華麗で細密、繊細な精神(こころ)があると思ってしまう。もちろんナボコフの精神(こころ)は繊細なものに反応し、それを華麗に仕立て上げるとき、すばらしく魅力的に輝くけれど、その感覚はしっかりと「肉体」を踏まえている。そして、そのナボコフの「肉体」感覚が、私たちの(読者の)「肉体」のなかに眠っている感覚を呼び覚ますのだと思う。
 私たちはたしかに「模様」や「影」--意識の「残像」につまずくということがある。「肉体」がつまずくのではなく、「意識」(感覚)がつまずき、それが「肉体」を動かすのである。つまずかせるのである。




青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
筑摩書房

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小川三郎『コールドスリープ』

2010-11-10 00:00:00 | 詩集
小川三郎『コールドスリープ』(思潮社、2010年09月05日発行)

 小川三郎の詩はとても長い。実際には長くはないかもしれないが、読んだ印象は終わらないのじゃないかと思うくらい長い。
 「世界の果て」という詩がある。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。
もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。
遥か遥か遠くまで
胸を張って戦争に行こう。

全財産をはたき
必要なものを買い揃え
地下鉄に乗って終点まで行き
階段を昇って地上に出て
そこから何処までも歩いて
戦争へいこう。
みんなでいこう。
もう帰らなくてもよくなくなるまで。

 「戦争へいこう。」はほんとうの呼びかけなのか、それとも逆説なのか。考えればいろいろ考えられるかもしれない。けれど、それを考えたいというような欲望が私には起きない。書き出しの3行を読んだだけで、私は、ずいぶん長く小川のことばを追っているような気がしたのだ。
 リズムが合わない。--これは小川のせいではなく、単に私と小川のことばのリズムが合わないということなのだが、どうにも合わない。普通、ことばは繰り返されると、繰り返しのなかでことばがだんだん速くなる。ことばになれて、はやく読んでしまう。先日読んだ青木栄瞳はことばを記号にしてしまって、そこからことばの速度を剥奪し、速さということさえ無意味にしてしまっていた。小川のことばは、いわばその対極にある。繰り返しは速さではなく、停滞である。留まるために小川はことばを繰り返しているように私には感じられる。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。

 これは、ことばだけ。「いこう」「行こう」とひらがなのことばが漢字のことばにかわるのだが、そのことさえスピードが上がったという印象が私にはしない。「行こう」が「いこう」を振り返るような、奇妙な停滞感がある。

もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。

 「なく」の音が繰り返され、そこでは「意味」さえ停滞してしまう。「帰ってこなくてもよくなる」と「帰ってこなくてもよくなくなる」と、どう違う? 「帰ってこなくてもよくなくなる」というのは、どっち? 帰ってくるの? 帰ってこないの? どっちを前提としている? どっちを前提にしてことばを動かしている?
 動かないことばの前には「遥か遥か遠く」という距離がどれくらいかさっぱりわからない。実感がわかない。「いこう、行こう」といいながら留まっているのだから、「遠く」は「遠くまま」のである。絶対に、その遠く(世界の果て?)へはたどりつけないことだけがわかる。
 まるで、カフカである。

地下鉄に乗って終点まで行き

 ほんとうに終点はあるのか? たどりついたと思っても、そこからふりかえれば、いま出発してきたところが新しい「終点」になりはしないか。階段を昇って、地上に出て、それからいま来た地下鉄の上を逆にたどるだけなのではないのか。
 あ、そうなのかもしれない、と思う。
 小川が書いているのは「往復」なのだ。最初、私は「停滞」と書いたが、停滞ではなく、「往復」なのだ。

戦車が疾走し、戦闘機が飛び交うなか
いままで誰も行かなかった土地を目指して
迷わず進もう。
全ての人が死に絶えるまで
戦争が終わることはない。
全ての網膜に焼きつくまで
戦争が終わることはない。
質問は既に尽きた。
あとはただ
前進するのみ。

 「いく」「行く」「前進」--だが、その「方向」は? 「いままで誰も行かなかった土地」とは、言い換えれば、人が出発してきた土地である。そして、そこへもどってしまえばまた、いま来た帰り道が「誰も行かなかった土地」になる。「土地」というより「方向」(目指すところ)になる。果てしない「往復」があるのだ。

そして
死が軽やかに宙を舞い
無人の地球を歌っている
世界の果てへと辿りついたら
もう大丈夫だから、そこで
人間の価値を決めよう。

 最終連。
 とても唐突に感じる。「そして」が変なのだと思う。果てのない「往復」運動に、「そして」はないのである。ないはずである。それなのに、小川はここで「そして」と突然、ジャンプする。
 変な言い方になるが、ここでは小川は、それまでのことばの運動に「けり」をつけている。むりやり終わらせている。このむりやりは、「往復」には終わりがないことを知っているところから生まれている。
 「そして」などありえないのに、むりやり「そして」ということばで、いままでの運動から違ったものになる。違ったものにする。それは、その「異質」によって、それ以前のことばを、あ、この「結論」以前が小川の「思想」なのだ、という思いを浮かび上がらせる。
 「人間の価値」というような「結論」は、結局のところ、それまでの「往復」の評価である。どうしても、そこへ帰っていくしかないのに、あたかも「運動」の外に何かがあると書いてしまうこの矛盾のなかに、「往復」がもう一度よみがえるのだ。

 「寄り添う。」の最終連もおもしろい。

偶像が空を支配する五月に
あなたはただ
人間という言葉によって
崩れ落ちる春となり
音速にて踏みとどまる。

 「音速」と「踏みとどまる」は矛盾する。音速で「往復」するとき、その運動、ふたつの「場」の間で動かない。「往復」による「停滞」、それはかけ離れた「遥か遥か遠く」を「ここ」で重ね合わせるということかもしれない。そういう力業のためには「音速」というスピードが必要である。小川の精神は、「往復」を「音速」で動いているのである。そのとき、小川は「現実」を耕し、どこにもなかった「現実」へ帰っていく。傍から見れば「踏みとどまる」という状態へ。






コールドスリープ
小川 三郎
思潮社
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