詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(9)

2010-11-24 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(9)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。そういうときの「日常」の定義はとても難しい。
 「米寿」。

 八十八歳になると、そんな日もある。気がつくと、こ
の私が、長閑な春の町を歩いている。どこに行っても、
にこにこ笑って、お辞儀をする女がいる。こちらも、鷹
揚に、会釈をして行きすぎる。

 ここに書かれているのは「日常」か。あるいは、「非日常」か。「そんな日もある」ということばは、どちらともとれる。「そんな日もある」というのは、「そんな日ではない」日の方が多く、「そんな日」は少数派(?)に属することを意味するなら、それは「日常」というには少し遠いかもしれない。けれど「日常」が「日常」であるかどうかは「頻度」の問題ではないだろう。「異常」だと判断しない限り、それは「日常」ということになるかもしれない。
 ほら、わからなくなるでしょ?
 さらに「長閑な春」が「非日常」だとすると、「日常」は気ぜわしい春? そんなのは、いやだねえ。「長閑な春」こそ「日常」であってほしいと私などは思ってしまうが、そう思うのは、そう「思う」ことが「日常」になってしまうほど、現実の「日常」は長閑ではない証拠?
 ほら、またわからなくなる。
 どこへ行ってもにこにこ笑ってお辞儀をする女がいるというのは、これも「非日常」に近いかもしれないけれど、誰かに会ってにこやかにお辞儀をすることが「非日常」というのは、やっぱりいやだね。できるなら、「日常」こそ、そうあってほしい。
 うーん。なにやら「日常」というものには、「日常」がどんなふうにあってほしいかというような願望が入っている。純粋な(?)「日常」というものはないのかもしれない。--だとすると、その「日常を超えてやってくる、特別の時間」とは?
 わからなくなるねえ。

 こういうときは、私は考えない。ただ、ことばが、どんなふうに動いているかだけを追っていく。そうすると、粕谷のことばは、同じことを繰り返していることに気がつく。

 八十八歳になると、こんな日もある。つまり、長閑な
春の町を、自分が、誰彼となく、会釈をしてゆく日だ。

 「そんな日」が「こんな日」にかわっている。「そんな」(それ)は自分より少し遠くにある。離れている。「こんな」(これ)は「そんな」(それ)よりは身近にある。最初は離れていたものが、繰り返しているうちに身近になってくる。
 あ、これこそ「日常」の「日常性」かもしれない。
 わけのわからないこと、変だなあと思うこと、違和感のあることも、繰り返していると「肉体」になじんでくる。
 「夢」とは、そういう次第になじんでくる「日常」を超えてやってくる、のかな?
 いや、違うねえ。

 よろしい。要するに、私は、鷹揚に、誰彼となく、会
釈をして歩いてゆけばいい。どこまでも、それを繰り返
してゆけば、行き着くところに、行き着くわけだ。

 びっくりしてしまう。「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」という定義(?)が完全にひっくりかえる。「日常」ではないもの、何だか変だなあ、違和感があるなあと思っていることを繰り返していると、それが「日常」になってしまう。「そんな日」は「こんな日」にかわり、その繰り返しが「日常」を「行き着くところに、行き着く」というのは、「日常」が「日常」を超えてしまうということにならないだろうか。
 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ではなく、「日常」そのものが「日常を超えて、特別な時間」になってしまう--それが「夢」ということにならないだろうか。

 よろしい。そこで、私がやることといえば、さらに、
鷹揚に、おれの花見の宴を張ることだ。つまり、私を取
り巻いて、輪になって踊る、赤い腰巻の女たちを見なが
ら、ゆっくりと、大きな盃の酒を傾けることだ。
 八十八歳になると、そんな日もある。それからだ。私
が、いきなり、その花山ぐるみ、紫色の雲に乗って、し
ずしずと、大勢の女たちと一緒に、極楽に昇るのは。

 人間の最終的な「夢」が「極楽」であるというのは、ひとつの「答え」だとは思う。そうすると、ますます、変だねえ。
 「日常を超えてやってくる、特別の時間」は「日常」を繰り返すことで「日常を超えてしまう、特別な時間」というのと、区別がつかなくなる。ただ「日常」を繰り返すことだけが「日常」を超えることであり、それが「極楽」にたどりつくことなのだ。行き着くところに行き着くとは、「日常」を繰り返すことなのだ。

 たぶん、「日常」そのもののなかに、何かしらの「夢」がある。その「夢」は繰り返すことで「夢」ではなく、「日常」になる。そして、そうやって完成された「日常」が、さらに繰り返されることで「極楽」になる。
 「八十八歳になると、そんな日もある。」からつづくことばは、それ自体が「夢」なのである。そういう感じで「極楽」に行きたいという「夢」が、老人の「日常」のなかにあらわれ、その「夢」を繰り返していると--つまり、誰彼となく会釈をかわすという暮らしを繰り返していると、その「夢」が「日常」になり、その「日常」の積み重ねでしか超越できない「行き着くところ」に「行き着いてしまう」。

 こんな考えは「誤読」かもしれない。けれど、そういう「誤読する力」のなかに、何か「夢」そのものの力と触れ合うものがある。そして、それは「繰り返す」ということと、切っても切り離せない関係にある。
 たぶん、

どこまでも、それを繰り返してゆけば、行き着くところに、行き着くわけだ。

 ということばの「繰り返してゆけば」が、今回の粕谷の詩集のキーワードである。「どこまでも……」は、「どこまでも、それを繰り返してゆけば」ではなく、「繰り返してゆかなければ」、行き着くところに、「行き着けないわけだ」の言い換えなのだ。
 そして、「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」ではなく、「日常」は「夢を繰り返すことによって、夢を超える、特別の時間」なのだ。「日常」こそが、「特別の時間」なのだ。
 生きているということが、特別の時間なのだ。

 ばんざい。めでたいはなしだ。ばんざい。つまり、長
閑な春の日、私は、とうふ屋のまえで躓いてころんで、
脳天を打って、立派に、その一回で死んでいるのだ。

 この詩は、この最終段落で、突然、それが死んだ男の「夢」であるとわかるのだが、死んでいながら、そこには「ばんざい」という喜びがはじけている。
 死を喜ぶ。
 --それは生きていることを、より深く喜ぶということにほかならない。生きているという特別な時間があって、そのあとにはじめて死がある。
 粕谷のこの詩集が何度も何度も死を描きながら、不思議に明るいのは、生きていることが特別な時間なのだという哲学に到達しているからだ。




遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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マノエル・デ・オリヴェイラ監督「ブロンド少女は過激に美しく」(★★★★)

2010-11-24 16:33:32 | 映画
監督・脚本 マノエル・デ・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、カタリナ・ヴァレンシュタイン、ディオゴ・ドリア、レオノール・シルヴェイラ、ルイス=ミゲル・シントラ

 オリヴェイラの映像は相変わらず剛直で美しい。カメラで語るのではなく、カメラはただ存在を切り取り、切り取られた存在がカメラのなかで語り出すのを待つ。その忍耐力のようなものが映像を剛直にしている。
 冒頭の列車のシーンにまず驚かされる。車掌が改札をしている。列車のなかほどから映し出されているが、車掌がその列車を出てゆくまで延々と続く。途中に省略というものがない。車掌が出て行って、客は何もすることがなくなる。そのとき、列車で旅をしたものなら誰でもが感じる手持無沙汰な時間がやってくる。そういうとき、どうします? 映画の主人公は、隣の席の見知らぬ女性に語りかける。映像は、その語りかけるまでの「時間」そのものを映し出す。「時間」を映し出すというより、「時間」を動かしてしまう人間(主人公)を映し出す。別な言い方をすると、主人公が動き始めるまで、カメラはただ待っている。そして、そのときの「待つ」カメラの、どっしりした位置がとても美しい。カメラは動かず、動かないことによって、動いてしまう人間の「本質」を暴くのである。
 このカメラの前では役者は大変である。「人間」のすべてが出てしまう。
 これにつづくシーンも非常におもしろい。主人公の話を聞く女性は、とても変な眼をする。話を聞いているのか、聞きながらも、その話にのめり込まないようにしているのか、男を見ない。中途半端な空間を見つめている。男が自分をさらけ出すのに対し、けっして自分を見せない、という姿勢をとる。この二人の違いを、カメラは何の演技もせず、ただ役者に語らせる。クローズアップで目の動きを追ったりはしないのである。
 この動かないカメラの映画のなかで、一番美しいのは、ブロンドの少女がカーテン越しに立っているシーンである。開いた窓の向こうに、カーテンがあり、その向こうに少女がいる。彼女の姿は明確ではない。その明確ではない少女の姿が、「あ、美しい」と観客が(そしてそれを見つめる主人公が)思うまで、ただただ待っている。なぜ美しんだろう。かすかに動くカーテンの光の変化、空気の変化そのものが美しいからだ。いま、少女の美しさは、光と空気の美しさそのものなのだ。主人公ではなくても少女に恋をしてしまいそうになる。
 この少女が、しかし、「美しさ」を自分で壊してゆく。その映像が、また、とてもおもしろい。
 少女が主人公とキスをする(たぶん)シーンがある。このとき少女の片足が跳ね上がる。それまで、この手のシーンがないだけに、「あれっ」と感じる。今のシーンは何? 何のためのシーン? まあ、キスを暗示するためといえばそれまでだが、なぜここで突然足が演技をするのだろう。それも、「美しい」という印象ではない。何か、こびたような、どちらかというと「醜い」印象である。この「醜い」は、先に書いたカーテン越しのシルエットの「美しい」とは対照的なものである。つまり、その跳ね上げた片足には「空気」がないのである。むきだしなのである。とても不思議な気持ちになる。ずーっと、跳ね上げた片足の印象が残り続ける。
 それが最後でまた驚くような足と結びつく。少女には盗癖がある。「手癖が悪い」のである。(ポルトガルに同じ表現があるかどうか知らない。)その盗癖が発覚し、主人公との恋が破たんする。
 そのあと。
 少女が椅子に深々と座るシーン。大股を開き、だらしない姿勢である。とても「醜い」。私は、少女がそのまま小水でも漏らすのかと思ったくらい、なんとも不気味にだらしなく、醜い姿勢である。少女の本質を、オリヴェイラは足で暴いているのである。「演出」らしい演出は、ふたつの足のシーンだけなのだが、思わず、うーんと唸ってしまう。
 オリヴェイラの映像はただただ剛直で美しいという印象が私にはあったのだが、一方で、こんなに醜い映像もしっかり見ていたのだ。醜さを認識できるからこそ、美をより強靭なものとして描くことができるのかもしれないと思った。



マノエル・デ・オリヴェイラ傑作選 「世界の始まりへの旅」「アブラハム渓谷」「階段通りの人々」 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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