詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(1)

2010-11-03 13:12:26 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(1)

 ナボコフ『賜物』。以前、文庫本で買ったが、読み終わらない内にどこかへ消えてしまった。いま手元にあるのは、河出書房新社の「世界文学全集」の一冊である。(2010年04月30日発行)1日1-2ページのペースで、ただことばにおぼれるだけのために読んでみたい。
 --これは、「文化の日」にあわせて、急に思い立ったことなのだけれど、(文化の日だから、何か急に「文化」的なことをしてみたくなったのだ)、読みはじめてすぐに無謀なことだと気がついた。
 ナボコフ。このことばの魔術師の文章の中から1日1フレーズだけを選び取るというのはとても難しい。あらゆる行が「引用せよ」と迫ってくる。どの行を引用するか。その段階で、私自身が試されているような、苦しい気分になる。
 しかし、こんなところで悩んでいても何も始まらない。ともかく、ことばの海に飛び込み、そこからことばをつかみとってくる。そのことばは水のように私の手をするりと逃げるかもしれない。あるいは毒のある小魚のようにひれが私の指を刺し、その毒が私の全身に回るかもしれない。あるいは、つかんだものが巨大な魚の尾びれで、つかんだ瞬間私は空高くまで振り飛ばされるかもしれない……。

建物の真ん前には(こにぼく自身も住むことになるのだが)、自分の家財道具を受け取りにでてきたらしい二人連れが立っていた(一方ぼくのトランクの中身は、白い下着よりも、黒い字が書かれた原稿のほうが多い)。
                                 (8ページ)

 「白い下着よりも」がとても印象に残る。このことばは「黒い文字が書かれた原稿」の「黒い」を引き出すためのことばである。原稿の量の多さを引き合いに出すだけなら、それを「下着」と比べる必要はないだろう。比較の対象はもっとあるはずだ。けれども「白い」ものとなると、そんなにはないかもしれない。そして「下着」というものも、「ことば」と結びつくと、「ことば」に不思議な「味」を与える。何かを書く--それは、それがどんな高尚なことであっても書いたひとの秘密の部分、恥部、肉体と密接につながっている。秘密や恥部を隠すために書くひともいれば、それを見せつけるために書くひともいるだろう。どんなときでも、作家自身の肉体がなんらかの形で、そこに刻印される。下着に残ってしまう体温のように。あるいは、ふしだらな、甘い匂いのように。
 書きながら、あ、読みたい--と思うのだ。その「黒い文字」のびっしりつまった原稿を。いや、そのことばの中にある秘密を、恥部を、下着フェチのように鼻先を下着で被い、息を吸い込んで、わざわざよごれた匂いを体内に取り込むように、あ、そのことばを読みたい。そこに書かれている匂いを嗅ぎたい。秘密を知りたい。おぼれたい--そういう気持ちにさせられる。

 (いつまで続けられるかわからないが、ただ感じたことを書きつづけてみたい。引用のあとのページはすべて「河出書房新社」のページ。なお、訳は沼野充義である。)

賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社


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林嗣夫「石灰」

2010-11-03 00:00:00 | 詩集
林嗣夫「石灰」(「兆」147 、2010年08月05日発行)

 「頭」とか「肉体」とか「思想」とか……ちょっと面倒なことを書いているうちに思い出した詩がある。感想を書こうと思いながら、そのままになっていた作品である。
 林嗣夫「石灰」。

林檎畑や麦畑で
若い男女がデートする話はあるが
わたしは
まだ何も植えていない春の畑で
女性の肌に触れてしまった

これから植えつけるカボチャやナスや
トマトのことなど思い描きながら
畑を耕し
畝を作り
石灰をまこうとしたとき

その石灰の袋に右手を突っ込んだとき
触れたのは
女性の肌!
つかんだのはやわらかい女性のからだ!
思わず手を引いてしまった

おそるおそる
石灰の袋に手を入れる
なんというなめらかな存在だろう
つかみ直しても指から流れ去っていく軽やかさ
さらに押さえると物質の重い密度
空(くう)であり 色(しき)であるもの

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 これは冷静に読めば、石灰の袋に手を入れて、石灰をつかんだときの感触が女性の肌を思い起こさせた、ということなのだろうけれど、私は最初、林が畑を耕しているうちに女がそっとやってきて、林が石灰をまこうとする瞬間に石灰の袋のなかに手を入れて、そこで手をとりあったのだと思ってしまった。
 あ、いいなあ、そんな突然のデート。それも女の方から近づいてきて、石灰の袋のなかに手を入れて、誰も見えないところで手をとりあうなんて……。まあ、そんなことをすれば、とりあった手は見えないだろうけれど、あのふたり畑の真ん中で何をやっているんだ?という噂にはなるかもしれないなあ。
 そういう危険って、うれしくない?
 あ、林さん、すごいじゃないか。おおもてだねえ。うらやましいねえ。わざと変な噂を立てられるようなことを女からされるなんて。
 でも、私の読み方は間違っているよね。
 ほんとうは、袋のなかで石灰に触れたら、それが女の肌を思い起こさせた。すべすべで、逃げていくような感触……。そのことを書いているのだろう。
 それでも、そう読み直してもなお、私は女の手を感じてしまうし、手だけではなく乳房だとか、もっとあやしい部分につながっていく肌に直接触れているような、どぎまぎした感じに襲われる。私は林ではないから実際には女の肌には触れていないのだけれど--いや、実際には林自身が女の肌には触れていないので、逆に、私自身が女の肌に触れているような、秘密で何かをしているような感じになってしまったのである。
 このとき、林が感じたことはもとより、私の感じたことは、まったく非現実的なこと、ありえないことだよね。間違いだよね。
 でも、この間違いのなかに、私はほんとうがあると思っている。実際に、女の肌に触れているのだ。女は石灰の袋に手を入れていない。入れていないけれど、石灰の袋に手を入れると、そこに女の手があらわれる。手を入れない限り、女の肌は石灰の袋のなかには存在しないのだけれど、手を入れた瞬間、そして指を動かした瞬間、そこに女の肌があらわれてくる。女はそこにいる。
 でたらめ? 妄想?
 ああ、でも、指がはっきり感じてしまう。それは実際の女の肌に触れたとき以上に、指にはっきりと甦る。いや、これは甦るのじゃないなあ。指が、林の指が、女の肌を生み出すのだ。林の指のなかから女の肌が生まれ、それが林に逆襲するようにからみついてくる。
 この逆襲があるから、林は「思わず手を引いてしまった」。けれど、その逆襲をもっともっと確かめたくて、また手を入れてしまう。
 手が触れる女の肌、手が生み出した女の肌。それは「空」である。けれど、手のなかの感触、実感、そこに「色」がある。
 空則是色。色即是空。
 区別がつかない。
 この感じが、とてもいい。あ、これこそ「肉体」であり、「思想」だなあ、と思うのである。

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 もちろん、いけません。そんな危険な遊びをしてはいけません。でも、してはいけないことをするのが人間の楽しみなんですよね。林さん。
 私は突然、石灰を買って、どこかの畑へ行って、石灰の袋を破って、そのなかにいる女と秘密のセックスをしたくなった。林になってしまった。わあああ、危ない、危ない、危ない。

 ということで、長い間、その詩をほうりだしておいたのだが、やっぱり書いておかなければと急に思ったのだ。



風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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