粕谷栄市『遠い川』(7)(思潮社、2010年10月30日発行)
「砂丘」は、また別な読み方ができる。
この書き出しをことばどおりに読むと、白髪の老人が砂丘で踊っているのを、「私(たとえば粕谷)」が見ている。そして、感想を言っているということになる。
だが、そうではない読み方ができる。
踊っているのは、「私」である。私は白髪で、場所は砂丘。そしてそこには誰もいない。「独り」で踊っている。そして、老人は、誰かが「私」を見ている、と感じる。感じながら踊っている。見ている誰かは、その光景を「いいものだ」と感じている--そう思い描きながら。老人は、誰かに、老人が踊っている姿を見てもらいたい、と願っている。そのことを間接的に語っているのだ。
老人の踊りは、老人の「肉体」にしみついたけっして消えない記憶、ひととともに生きた記憶なのである。
ここには、粕谷のこれまでの詩篇にはなかったことばがある。「長い歳月」。これまでの詩では「永いこと」と書かれていた。主観的に見れば「永いこと」。けれど、ここでは誰かに見られていることを想定している(想像している)。誰かから見れば、「永いこと」は「長い歳月」である。「それを踊ったことがあるのだろう」という想像(仮定)のことばが書かれるのも、誰かが老人を見ていて、その老人を誰かが描写していると考えると、「学校教科書文法」どおりの、きちんとした説明のなかで完結する。
しかし、これは、やはり誰かが老人を見ているのではない。
老人の踊りが、「彼の故郷の町で祭りの日に、人々が、輪になって踊るものである」ということを知っているのは、老人か、老人といっしょに踊ったことのある人だけである。第三者というか、老人の故郷とは無縁の人は、それがどんな踊りであるかはけっして知ることのできないものである。
この詩では、「白髪の老人・踊る老人」と、彼を「見る」ひととの視線が不思議な形で融合している。
これは、老人が自分自身の死を想定し、死後、誰かが老人を思い出す、そして思い出すことができるのは「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者である。」語ることで、老人自身は死後もきっと「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者」のことを思い出すと語っているのである。
このとき、老人は「独り」であるけれど、「独り」ではない。「一人」になっている。これは「一人」への夢なのだ。
あ、私は希望、祈り、願いというかわりに「夢」と書いたが、この「夢」は次に出てくる「夢」を先取りする形で、粕谷のことばに影響されたものかもしれない。
夢を粕谷は「日常を超えてやってくる、特別の時間」と呼んでいる。この「夢」は一義的には夜見る夢を指しているかもしれない。けれども、夢は夜、眠っているときだけ見るものではない。目覚めているときにも見る。眠っているときにみる夢と区別するために、目覚めながらみる夢を希望、祈り、願いというふうに言い換えることがあるけれど、希望、祈り、願いではとらえきれない「夢」を目覚めながらみることもあるのだ。
生きていながら、死後を思い描く。それも「あの世」というのではなく、この世のことを。この詩のように、誰かが自分を思い出す、自分が踊っている姿をみる--という夢。
しかし、こういうことを書くとき、粕谷がほんとうに書きたかったのは何だろうか。「夢」というよりも、「日常を超えてやってくる、特別の時間」の「特別の時間」ではなく、もしかすると「日常を超えてやってくる」、その「超越」と「やってくる」ではないだろうか。
わたしは、ふと20日に見た(聞いた)武満徹の「海へ」(ギター鈴木大介、フルート岩佐和弘)を思い出している。その曲ではフルートとギターが、この詩の「老人」と「それを見るひと」のように不思議に融合する。一瞬、フルートの音ではないもの、ギターの音ではないものを感じる。それはもちろん聞こえない。聞こえないのだけれど、そんな音がどこかにあって、それが「いま」「ここ」にやってきている。
同じように、この詩の、老人の夢なのか、それとも老人を見ているひとの夢なのか、どちらの夢を語ったことばなのか、ふいにわからなくなった瞬間に、何か、粕谷が「いま」「ここ」に書いていることばいがいのものが、どこかから、何かを超えてやってきていると感じる。
何を超えて、そして、どんなふうにやってきているのか--それは書けない。書けないので、ああでもない、こうでもない、ああ考えた、こう考えた、いやそれは間違いでこう考えるべきだった……と繰り返し繰り返し私は書いているのだが。
この老人を「詩」と思ってみることもできるだろう。それは誰かの書いた詩ではなく、まだことばになっていない詩。未生の詩。それが生まれようとしている。その生まれようとする果てしない力は、詩を読むひとがいるかぎり終わらない。消えない。--ということかもしれない。
「未生の詩」を「死んでしまった老人」が象徴するというのは不思議な逆説であるかもしれない。しかし、「死んだ老人」を「日常を超越した老人」と考えると、何かを超えるということでは、未生も死後も同じなのだ。詩のなかで未生と死が交錯し、いのちになるのかもしれない。いのちのなかには未生のものと死が「ひとつ」になって動いている。「未生も死も「独り」だけれど、それが融合したときのいのちは「一人」ということになるかもしれない。
「砂丘」は、また別な読み方ができる。
静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っている
のを見るのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、
ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。
この書き出しをことばどおりに読むと、白髪の老人が砂丘で踊っているのを、「私(たとえば粕谷)」が見ている。そして、感想を言っているということになる。
だが、そうではない読み方ができる。
踊っているのは、「私」である。私は白髪で、場所は砂丘。そしてそこには誰もいない。「独り」で踊っている。そして、老人は、誰かが「私」を見ている、と感じる。感じながら踊っている。見ている誰かは、その光景を「いいものだ」と感じている--そう思い描きながら。老人は、誰かに、老人が踊っている姿を見てもらいたい、と願っている。そのことを間接的に語っているのだ。
老人の踊りは、老人の「肉体」にしみついたけっして消えない記憶、ひととともに生きた記憶なのである。
それは、彼の故郷の町で祭りの日に、人々が、輪にな
って踊るものである。踊りには似合わない普段の服のま
ま、ただ独り、彼は、その踊りを踊っている。
彼が、故郷を離れてから、長い歳月が流れている。遠
い日、彼は、人々とともに、それを踊ったことがあるの
だろう。
ここには、粕谷のこれまでの詩篇にはなかったことばがある。「長い歳月」。これまでの詩では「永いこと」と書かれていた。主観的に見れば「永いこと」。けれど、ここでは誰かに見られていることを想定している(想像している)。誰かから見れば、「永いこと」は「長い歳月」である。「それを踊ったことがあるのだろう」という想像(仮定)のことばが書かれるのも、誰かが老人を見ていて、その老人を誰かが描写していると考えると、「学校教科書文法」どおりの、きちんとした説明のなかで完結する。
しかし、これは、やはり誰かが老人を見ているのではない。
老人の踊りが、「彼の故郷の町で祭りの日に、人々が、輪になって踊るものである」ということを知っているのは、老人か、老人といっしょに踊ったことのある人だけである。第三者というか、老人の故郷とは無縁の人は、それがどんな踊りであるかはけっして知ることのできないものである。
この詩では、「白髪の老人・踊る老人」と、彼を「見る」ひととの視線が不思議な形で融合している。
既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそう
しているのを見ることのできる者は、限られている。生
涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたこ
とのある者である。
これは、老人が自分自身の死を想定し、死後、誰かが老人を思い出す、そして思い出すことができるのは「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者である。」語ることで、老人自身は死後もきっと「彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者」のことを思い出すと語っているのである。
このとき、老人は「独り」であるけれど、「独り」ではない。「一人」になっている。これは「一人」への夢なのだ。
あ、私は希望、祈り、願いというかわりに「夢」と書いたが、この「夢」は次に出てくる「夢」を先取りする形で、粕谷のことばに影響されたものかもしれない。
その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見るこ
とがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えて
やってくる、特別の時間のなかでのことである。
夢を粕谷は「日常を超えてやってくる、特別の時間」と呼んでいる。この「夢」は一義的には夜見る夢を指しているかもしれない。けれども、夢は夜、眠っているときだけ見るものではない。目覚めているときにも見る。眠っているときにみる夢と区別するために、目覚めながらみる夢を希望、祈り、願いというふうに言い換えることがあるけれど、希望、祈り、願いではとらえきれない「夢」を目覚めながらみることもあるのだ。
生きていながら、死後を思い描く。それも「あの世」というのではなく、この世のことを。この詩のように、誰かが自分を思い出す、自分が踊っている姿をみる--という夢。
しかし、こういうことを書くとき、粕谷がほんとうに書きたかったのは何だろうか。「夢」というよりも、「日常を超えてやってくる、特別の時間」の「特別の時間」ではなく、もしかすると「日常を超えてやってくる」、その「超越」と「やってくる」ではないだろうか。
わたしは、ふと20日に見た(聞いた)武満徹の「海へ」(ギター鈴木大介、フルート岩佐和弘)を思い出している。その曲ではフルートとギターが、この詩の「老人」と「それを見るひと」のように不思議に融合する。一瞬、フルートの音ではないもの、ギターの音ではないものを感じる。それはもちろん聞こえない。聞こえないのだけれど、そんな音がどこかにあって、それが「いま」「ここ」にやってきている。
同じように、この詩の、老人の夢なのか、それとも老人を見ているひとの夢なのか、どちらの夢を語ったことばなのか、ふいにわからなくなった瞬間に、何か、粕谷が「いま」「ここ」に書いていることばいがいのものが、どこかから、何かを超えてやってきていると感じる。
何を超えて、そして、どんなふうにやってきているのか--それは書けない。書けないので、ああでもない、こうでもない、ああ考えた、こう考えた、いやそれは間違いでこう考えるべきだった……と繰り返し繰り返し私は書いているのだが。
紺碧の天の下で、老人は、片手を反らせ、月見草の花
を額に翳して、いつまでも、踊りをつづけている。自分
がそこにいる限り、それが終わることはないのである。
この老人を「詩」と思ってみることもできるだろう。それは誰かの書いた詩ではなく、まだことばになっていない詩。未生の詩。それが生まれようとしている。その生まれようとする果てしない力は、詩を読むひとがいるかぎり終わらない。消えない。--ということかもしれない。
「未生の詩」を「死んでしまった老人」が象徴するというのは不思議な逆説であるかもしれない。しかし、「死んだ老人」を「日常を超越した老人」と考えると、何かを超えるということでは、未生も死後も同じなのだ。詩のなかで未生と死が交錯し、いのちになるのかもしれない。いのちのなかには未生のものと死が「ひとつ」になって動いている。「未生も死も「独り」だけれど、それが融合したときのいのちは「一人」ということになるかもしれない。
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